20
「お、気が付いたか。早速洗礼を浴びたようで災難じゃったな」
見知った狸の顔だ。
どうやら人間形態から戻ったようだ。
「…………」
まだ完全に意識が覚醒していないためか、思考が回らず目線を適当に巡らせ自分が今どこに居るのか認識しようと努める。
屋根がある場所は限られているので本殿の中だろうか。
「環希の悲痛な声を肴にするのも意外と悪くなかったの。まあまさか颯乃が初っ端から通過儀礼とも言うべき骨抜きを披露するとは思わなんだが」
骨、という単語に反応して反射的に身を起して自身の右太腿を確認する。
目視に異変は認められず恐る恐る指を伸ばして軽く撫でてみたが、違和感の類は無く安堵する。
「良かった……」
「心配せんでも颯乃の治癒に関する神言の精度の高さは一級品じゃて、痕も残らん。して、初めての修行の感想はどうじゃった?」
問われて思い出すのは痛みと恐怖、悪臭と一切様子の変わらない淡々とした態度の颯乃。
俺が体感したあの短時間の出来事は、これまでの人生で経験してきた理解の外と言わざるを得ない。
「住んでる世界が違うなって思ったよ。今でもほら、手が震えてるし……」
「初日にしては十分よの。颯乃とて最初は環希と同様に泣き叫んでおったし、恥じることは無い。ただ、肉体の損傷は綺麗に再生されても心に負う傷まで消える訳ではないでの。そこで、もう一度聞く」
缶ビールを両手に抱えた狸が俺の正面に回り込んで来た。
「一度は北田家を継ぐと決心したが、今もその心に揺らぎは無いかの?」
「……」
俺は、何とも答えることが出来なかった。
「今日環希が経験した痛みや恐怖は、この道を進む限り何時か何処かで必ず遭遇することであり、颯乃や貴代も実際に現場で経験し、切り抜けて来た事実の予行演習じゃ。脅しに聞こえるやもしれぬが、より酷く惨い様を味わわされ、尚も職務を全うした当主も歴代には居る」
「……その人は、どうなったんだ」
「生きては還って来れた。が、もう二度と神域には立ち入れんようになってしもうた」
敢えてどんな目に遭ったのかその詳細は聞かなかった。
しかし、彼女たちが言うように腕の一本骨折した程度で動じていては、とてもではないが戦力にはなれないということを身を以て思い知った。
「あれだけ頑張って決心したつもりだったのに、もう挫けそうになってる。決めたら後は目の前のことにしがみついて頑張れば、すぐに結果は出なくても少しずつ俺も変われて、家族にも認められると思ってたからさ。でも、あんなエグくてグロいのが待ち受けてるとまでは思ってなかった」
「まだ付け加えるなら、異常神域内では自覚のないまま思考や判断基準が狂うこともままあるの。環希が垣間見た痛みや恐怖が迷いと間違いを生み、致命的な事態に陥る可能性も十二分にある」
喉から言葉が出せない。
音もなく言葉に成り損なった吐息だけが漏れ出す。
心の揺らぎに歯を食いしばる。
自棄で弥作の手を掴んだ訳でも、颯乃に土下座をした訳でもない。
それでも目の前で俺の決意を阻もうとする現実が脳裏からこびりついて離れない。
冗談でもなく比喩でもなく本当に血肉を吹き飛ばされても、冷静に対処することが最低限中の最低限度の条件なのだ。
「環希、よう意志を示して当主の継承を申し出てくれた。それでもまだ翻意して無かったことにすることも出来る。颯乃には詰られるじゃろうが、それも吾が何とかしてやれる。社森から逃れれば、野河寺と関わることも無くなるじゃろう。親御さんに詫びの一つでも入れれば、あとは時間が解決してくれる」
「でも……」
「吾がそう言うのは親切半分で、残りはこの先の未来のことを考えてのことよの。半端な意地を張るだけではそう長く持たず潰れるか死ぬ。この社森を愛し、慈しみ、その心をそこに暮らす人々や細かな生命の一つ一つにまで向け、身命を賭すことが出来ぬならば務まらん。さあ、もう一度訊く」
つぶらな瞳に宿る神々しい光に射抜かれる。
「北田家の当主を継ぐ気概はあるかの?」
「俺は……」
昼間に示した意志の側面にあったのは自己の変革を求めたからであり、利他的な考えなど存在していなかった。
廻り回って他人の為になる行いだとしてもまず第一に払拭したいのは俺の心に巣食う劣等感で、その苦しみから解放されるための手段として祖母を継ごうとしている。
ところが、颯乃や祖母は弥作の口にした理念を体現するために、務めに挑んでいることを体感して理解した。
もし第三者に俺が祖母を継いで颯乃と並び立つ資格を有するかと質問したならば、大方が否定的な見方をするだろう。
「俺には、そんな資格……ないんだろうな、って思う」
「自信ではなく、資格か。では童の思う資格とは何ぞや?」
「それは……さっき、弥作の言ったとおりのことだよ。社森のこと全体を考えて命を擲つってこと。年取ったらそこまでしなくて良くなるかもしれないけど、これから何十年って期間ずっとそんな使命感を持ち続けられるか分からないし」
「……」
「弥作?」
「ぷ、っぷくくく、くっはははっははは!そんな馬鹿正直に真正面から受け止めて考えておったのか!吾の言うたことなんぞ所詮は綺麗事でしかないしの、四六時中そんな清廉な考え方で生きとった当主なんぞほとんど見たことないの。貴代とて務めを終えたら酒飲んで高鼾じゃし、颯乃は生い立ちのことがあるからそういう風に見えるだけじゃて」
腹を抱えて盛大に笑われ、シリアスな雰囲気が一気に崩れる。
「あのなあ」
「いや何、少し考え違いをしておると言いたいだけよの」
笑いの余韻が収まり座り直した狸は俺の胸の辺りを指差した。
「吾が言うたのは、半・端・な意志では困るというこであって、己を変えて周囲に認めさせたいという意地を貫き通すのであれば今は十分と思うておる。この手を掴む時に葛藤しそして小さくとも克己したであろう?」
「まあ、そのつもりだけど……」
「それなら話も早かろう。痛い、怖いという感情と己の中に燻る変わりたいという欲求、意地のどちらが勝っておるのか、もし今この瞬間は負けておっても跳ね返してやろうという気概があるのか。それを問いたいんじゃ」
誰かに課せられたことを適当にやり過ごしてきた人生を変えたい。
変われるチャンスが目の前に転がっていて、ご丁寧に不安を抱きながら掴もうとする手を支えてくれている。
それを蹴るほど、俺はまだ死んでいない。
「やる。やって行く内に結果も評価も付いて来るんだと思うから」
「だ、そうじゃ颯乃。予想が外れて残念じゃったのう」
「ふん、まだスタートラインに立つ許可が出たってだけでしょ。今度は肋骨ぶち抜いて目の前で炙り焼きにしてやったら簡単に心変わりするっての」
悍ましいスペアリブ料理発言と共に姿を見せたのは俺を骨抜き(物理)にしてきた少女。
ずかずかと歩いて俺の側にやって来ると、一瞬何故か睨んでから瞑目する。
「はー……ねえ弥作様。ほんとにアレ言わなきゃダメなの?もう良くない?」
「こういうのは形式であってもやらねばならんでの。後々に災いを招かぬようにするためにも吾が立会、言葉にせねばならん」
何事か分からず混乱する俺を余所に、弥作に諭された颯乃は心底うんざりとした表情で一呼吸の間を置いてから俺の正面へと移動して俺を睥睨する。
数秒の膠着があってからすっと狸の方に視線を移す。
「やっぱさ、せめて自立して戦えるようになってからで良くない?結局アタシが前衛でお手本にならないとなんだし」
「んー、まあ颯乃の言う事も一理あるの。しかし遅い早いの問題であって、必ず環希には言わねばならん時が来るということは努々忘れるでないぞ」
「何の話だよ?」
「簡潔に言うなれば、颯乃は形上では暫定的な北田家当主代行という立場を貴代から預けられておっての。もしも正式に北田の血筋の人間が当主に就任する際はその地位を返上するという誓約がある。それは何れも吾が立会って証人として見届けた。今はまだそれを見送るという判断と相成った訳よの」
単に人に頭を下げたくないように見えなくもないが、俺自身がその北田家当主の座に据えられることには不安が勝つ。
祖母のことを聞けば、その瞬間からあの野河寺家と正面からやり合うことになるのが目に見えているからだ。
当主候補という曖昧な立場に甘えられる間は例え強迫されても、弥作や颯乃と共謀してのらりくらりと肩透かしをすることが出来そうだ。
「その表情からすると、吾の思惑も少しは汲めておるようじゃの。察しの通り正式な北田家当主は不在のまま故、本来ならば名前だけでも定めて家中の意思を統一する必要があるんじゃが、その家中の人間が誰も居ないのでな。野河寺家と交渉事になってもそれを逆手に取って何も話が進まんという寸法よの」
颯乃へと視線を移すと、そっぽを向かれてしまう。
弥作からすると颯乃は野河寺家寄りという認識の筈なのにそれを明言したことが意外だった。
「……アタシは、乃愛とは友達だけど貴代おばあちゃんのことを裏切ったりなんか有り得ないから」
「そういうことよの。吾も連綿と続いて来た北田家との縁に重きを置いておるでの、環希が不義を働かん限りは互いに連携して当面の事に当たって行くとしようかの」
さて、と呟いて狸が何時の間にか取り出した新しい缶ビールのプルタブを引き起こした。
炭酸が噴き出す小気味の良い音に空気が弛緩するのを感じる。
「颯乃は今日はもう帰って休むと良い。明日の葬儀にも顔を出すのであろう?精神的な負担で肉体的な疲労に気付いておらんのだろうが、寝不足の色がもう隠せん程に濃く出ておるでの」
「…………分かった、ちゃんと寝るけど明日も来るから」
雑に右腕を振って彼女は足早に去って行く。
顔を見せることもしなかったので、せめておやすみぐらいの挨拶の声掛けをしようとして弥作に止められた。
「負けん気は強いがの、流石に心身の疲労を隠すのも限界じゃったの。年頃の乙女が異性に見せられるような顔じゃなくなってしもうたって言えば、流石の童も気付くじゃろ」
寧ろ彼女にそんな乙女らしい一面があることの方が驚きだが、藪蛇とならぬよう黙っておく。
「何だかんだ、俺も疲れたな……」
「情けない、と言いたいところじゃが今日ぐらいは勘弁しといてやるかの。骨抜きを初めて喰らった光景はどれだけ手練れとなっても、ふとした瞬間に思い出し夢にも出ると聞くでの。今夜はあまりよく眠れんかもしれぬが、その時は吾と盃を交わして宵を超えれば良い」
さらりと未成年飲酒を勧める狸をスルーして寝転がろうとして、心の騒めきのようなものを感じ取った。
確かに在った痛みに身体が震え出す。
「現世では酒は何やら良くないものと喧伝する風潮らしいが、吾が思うに手っ取り早く痛みや恐怖を忘れるには何よりも酒が特効薬じゃと思うておるの。向精神薬とやらも存在は知っておるが、好かん。乱暴じゃが慣れて気にならなくなってしまえばもう怖いものなんぞない筈じゃからの」
「要するに麻痺させて自分の心を騙して見て見ぬ振りをするってことだろ。……そのぐらいのメンタルを持ち合わせてないと務まらないって理解で間違いないか?」
それなら祖母が毎日のように酒を飲んでいたことも、趣味嗜好ではなく精神安定のためと思えば少し納得が出来た。
例え負傷とも言い切れない突き指程度の痛みでも顔を顰めて涙が滲ませる人間が、何故腕や足を吹き飛ばされても平気で居られるのか。
答えは単純明快で、生じた苦しみやストレスをぶつける先があるということだ。
「適性という言葉で片付けるのは容易いがの、心折れぬ強固な強さよりも痛みに撓み揺れる心の方が向いておるとも言える。例えば貴代ならば酒を飲み人と交わることで痛みを忘れたんじゃの」
「じゃあ、颯乃はどうやってその痛みを和らげてるんだ?俺を傷めつけることに躊躇いも一つも見せなかったあの目は普通じゃない。いくら神言で治せるとは言っても、他人の人体から試しに骨を抜き取ってみせるなんて常人の芸当じゃないってことぐらい、神様のお前にも分かることだろ」
「……まあの。凡その人間の精神では処理し切れぬ筈の負荷をどう発散しておるのか、吾でも全く知り得ぬのがある種の懸念でもある。あの少女の生き様は最低限の糧を得て貴代の跡を継ぎ、黙々と吾の命に従う人形の様な危うさに気付きながら見て見ぬ振りをしておるのも事実よの。稀にその苛烈な業を平然と熟す当主も居たのじゃがな、皆何処かに欠陥めいたものを抱えていたこともまた事実よの」
「じゃあ、颯乃にもその欠陥のようなものがあるってことか?」
弥作はその問いには答えない。
懊悩するように眉間に皺を寄せて指先を押し当て、瞑目する。
「童から見て颯乃はどう見える?常軌を逸した狂人か、それとも任務に忠実で生真面目且つ無垢な少女かの?もし後者であると本気で信じておるのであれば北田家の当主を継がせる訳にはいかぬ。あの少女は途絶えかけた北田という血筋の表面だけを一時的に繋いでおるに過ぎぬということを、決して忘れてはならぬ」
「……ストレス発散方法を知らないのも、遠くない未来で彼女が居なくなっても良いと思っているからか?」
「ほう、環希にしては芯を食った物言いじゃの。この際はっきりと言っておくが、吾は社森の平穏を守るための第一義として北田家の力が必須であると考えており、野河寺家はその補助で全く替えの効かぬ存在とは思うておらぬ。颯乃は今でこそ北田家の当主代行という地位を貴代から託されておるが、環希が北田家を継承し彼女から北田家に関する肩書が無くなれば、どうなると思う?」
颯乃の言葉を思い起こせば、何かと祖母のことに触れて世話を焼いたり行動をしている。
つまり亡き先代の遺志で動いているだけであり俺の言葉に従う道義も意味も彼女には無い。
「もし、俺の言う事を聞かなくても弥作の言う事なら聞くんじゃないか?何せ神様な訳だし」
「それは本気で言うておるのか?あの少女が吾の指示に従うのは貴代の遺志であり、そこに環希の存在が入り込む余地は無い。経済的、或いは個人的感情による協業はあっても吾や環希の下で大人しく命を賭すことなぞ有り得ぬこと。今彼女を取り巻く環境では野河寺が現在の思考や将来像にも大いに影響を与えられるからの、無自覚の内に分断されておっても何も不思議はない」
「じゃあ逆に、仮に俺が野河寺家と組んであからさまに弥作に敵対しようとしたらどうなる?勿論それはそういうフリってだけで本心から敵対しようとは思わないけどさ」
弥作は部屋の隅に転がされたレジ袋から新たなビール缶を取り出し、俺に向かって転がした。
飲めという無言の圧に俺は屈せず首を横に振る。
「颯乃に野河寺の危険性を認識させ距離を取らせる身代わりとしてあの一家を遣り込めると?己の進退も他責で、意思もなく外圧が無ければ無為な生涯を送ることになっていた無責任な童にそれが務まると、本気でそう思っておるのか?」
「事実だけど、もうちょっと手心を加えてもらえないかな。俺なりに颯乃が今現在進行形で必要な戦力だってことは痛感してるからリタイアとか裏切りとかされないような方法を考えてる訳で」
「こちらも勘違いをされては困るので明言しておくが、今颯乃に倒れられるのも明確に野河寺側に寝返られるのも吾は大いに危惧しておる。しかし、それは事の優先順位と当面の方針が前提にあって、結果として環希が正式な当主に就任さえ出来れば颯乃が犠牲となっても、それは許容される範囲の損失じゃと他ならぬ颯乃本人が納得しておる。完全な腹の底までは読めずとも、早晩あの子は環希を速やかに鍛え上げるつもりよの」
何故、という疑問は発せられる前に自己解決された。
それを弥作が、そして颯乃が尊敬している祖母が望んだことだからだ。
俺が当主を継ぐことを表明したことによって、少女に課せられた仕事の内容と終わりが確定したからだ。
良い方向に考えるのならば、俺が颯乃からその負担や責務を譲り受けた後は好きなように生きていけるようになると言える。
しかし、そうすんなりと話が進まないことを弥作は予見している。
「さて、吾も酒盛りをするという気分でも無いことじゃし、今日はもうお開きにしようかの。気ばかり焦ったところでどうにもならぬし、例え落ち着いておったとしても然るべき機に然るべき者が行いを為さねば無意味。社森という小さな片田舎であっても、安易に崩してはならぬ均衡が存在するでの」
「俺はその然るべき者ってヤツにはなれないって言いたいのか?」
「それも早とちりの勘違いじゃの。吾が考える然るべきとは現時点で特定の誰かを指してはおらぬ。またその時機をも窺い知ることなぞ、それこそ至難の業と言わざるを得ん。ただ、何時その時が来ても良いように常に備えをしておかねばならぬという気構えの話よの。……やはり、今夜の環希は少し頭に血が上っておるようじゃし、夜風で頭を冷やして一晩眠ることじゃ」
今度こそ話は終わりと言わんばかりにそっぽを向かれてしまう。
きっと、彼女の言う通り俺の精神は変に昂り過敏になっているのだろう。
ここで弥作に思い付くまま質問や疑問を投げ掛けたところで、冷静な話し合いが出来ないことは頭では分かっている。
冷静に立ち返れば、俺が颯乃の恐らく繊細であろう部分に干渉しようと考えること自体が不自然なのだ。
決して悪い奴じゃないとは思うが、必要以上に交友を深めようという積極的な理由も無い。
北田家を継ぐ為に一時的に言葉を交わしているだけで、家族や友達という親しみのある関係性ではなく、知人や先輩辺りが妥当だ。
困っているであろう他人が視界に入って無意識に関心を寄せるのとそう変わりは無い。
何に困っているのか、自分に何か出来ることはないのか……そう考えても、大体は時間や周囲が解決してくれると俺はそう思っている。
だからきっと、弥作の言う通り一晩眠ってしまえばもうそのことを深く考えなくなる。
「……じゃ、俺は帰るよ。おやすみ」
思考がまとまったところで声を掛けたが無視されてしまう。
黙々とビールを飲む後ろ姿に軽く肩を竦ませ、俺は神域を後にした。