16
弥作の所望どおりサンドイッチを購入した俺たちは路線バスに乗って社森の西方に来ていた。
停留所名は社森公園前となっており、近くに公園があるのだろうと周囲に視線を巡らせるがそれらしい施設は見当たらない。
「何をしておる、こっちじゃ」
目的地と思われる方を指し示す弥作のその指先は明らかに山地を向いていた。
まさか、と思ったが近傍の古びた観光案内によるとその山地は昔、小規模ながらも城として機能していて最盛期には天守閣まであったことが記されている。
そして現在ではその城の設備のほとんどが破却され、社森公園という公営施設に整備されているようだ。
「もしかしてこの山道を登っていくのか……?」
手摺や簡易的な階段こそあれども、終着となる頂上まで登りきるには相当の体力と時間が求められるだろう。
「無論よの。童はその貧弱な足腰も鍛えて行かねばならんし、こっちでなくては意味が無いんじゃ。さ、先方さんにも時間の約束を取り付けておる以上遅刻は出来んので出発よの」
「マジかよ……」
身軽に階段を一定のリズムで駆け上がって行く弥作の尻を眺めながら、何とか引き離されないように階段に挑む。
彼女の指示によりバス移動中に件のスマホを経由して下宿には電話をかける時刻の指定をし既に了承を得てしまっている。
何とか時間通りに連絡を取るためには彼女のペースに合わせる必要があるのだと信じ身体を動かす。
実のところ、彼女が目指している詳細な地点は知らされていないため所要時間もよく分かっていないのだ。
つまり指針となるのは視線の先にある数段先を行く彼女の尻だけ。
邪な想像をする暇もなく腕を振り足を上げる。
幸いと言うべきか空模様は曇天で日差しはなく気温も高くはない。
それでもコートを脱ぎ捨てたくなる程度には発熱し発汗も始まりつつある。
呼吸の乱れと筋肉の悲鳴に顔を顰め、それでも何とか弥作の姿が視界から消えないよう足掻き力を振り絞った。
この山道は完全な一本道ではなく、ある程度の高さを登ったところでつづら折りになっているため、段々と彼女の姿が視界から消える時間が長くなってきたという焦りも募っていたのだろう。
遂に身体の限界、即ち階段を踏み越えるために振り上げようとした足が言うことを聞かず段差を蹴ってつんのめってしまった。
咄嗟に両手を地面に突き出して顔から突っ込むという惨事だけは避けることが出来たが、一呼吸吐いて顔を上げるともう弥作の姿は消えていた。
真正面から張り合っていたという意識は無い筈なのに悔しさが込み上げて来るのを感じる。
元からもっと出来るとかそう言った類の自信や自負など無かった筈なのにも拘わらず、だ。
頭を過ったのは、颯乃なら余裕で付いて行けていたのではないかという他人との比較とそれを指摘する弥作の顔だった。
「……馬鹿らしい」
吐き捨てた悪態は果たして誰に向かってのものなのかは俺にも分からない。
誰かと比べても仕方がないという言葉を耳で聞きながら、心の奥底では常にそうして来た自分に対する失望なのか。
思えばこの社森へ来たのも、両親から課された受験に失敗した惨めな自分を周囲から隠したいという気持ちが多分にあった。
積極的に見下してくる人間は幸い周囲には居なかったが、成功者に対する劣等感はどうしたって生まれてしまうし、それで傷付く自分にも嫌悪感を抱いているのだ。
何も持たない無力な北田 環希は無価値であると烙印を捺されこの世では不要だとはっきり言われた方が楽で割り切れるんじゃないかと、そう最近は考えていたことを息を整えながら思い出す。
実家を出てその退路も断たれている以上目の前の環境にしがみつくしかないというのに、気付けばもう断崖絶壁の淵まで追い詰められている。
「おい環希よ、何を蹲っておるんじゃ。もしや足首でも捻ったのかの?」
何時の間にか戻って来た弥作が息一つ切らせることなく俺を見下ろしていた。
「いや、付いて行けないなって……」
「うーむ……少し加減を間違えて飛ばし過ぎたかの。そう気にすることもあるまい、近頃の幼子はこうして駆け回ることもなくなったと聞くでの。颯乃ぐらいの運動神経でも無い限りこの階段登りを最初から熟せる者は居らん」
彼女の回答と俺の意図には大き過ぎる乖離があった。
しかし今の俺にはそれを指摘、訂正する余裕など無く深呼吸のような深々とした溜息を漏らすに止まった。
「颯乃は、最初から弥作に付いて行けたのか?」
「まあの。とは言ってもその時はまだ十歳じゃったから、さっきよりは手加減したがの」
「てことはほぼ半分の年齢の女の子にも負けてるのか……へこむなあ」
最後に呟いたその一言を言い切ったその時、俺の視界は曇天で一杯に満たされる。
自発的に真上を向いた訳では無いので何が起きたのか軽く混乱し、その間に光景が俺の登って来た階段が上下反対に映る。
顎から喉元にかけて感じる衝撃から弥作に蹴られたのだと理解したのは、何とか後方一回転で階段の縁にしがみつくように踏み止まってからだ。
「そんなことで落ち込んで立ち止まっておったのか?颯乃に劣っておることと童が自身を高めて行くことを同列に考えておると言うのなら、それは颯乃をも侮辱しておることになるよって直ちに止めよ」
軽く足を振り上げた姿勢の彼女は先ほどのただ見下ろす目線ではなく、睥睨するものへと変貌していた。
「童の考えておるように颯乃には身体能力面で素養があったとして、それに甘えるではなく地道な鍛錬に年月を費やして今の己を積み上げて来たんじゃ。それを訳も知らぬ素人風情が勝手に一面だけを切り取って評価し更に己を貶める道具とするなど愚の骨頂よ」
降りかかってくる言葉にただ俯くことしか出来ない。
「環希よ、何故そう己を必要以上に卑下する?何故好んで他者と比べて劣等感を抱き自らを苛む?吾がこれまで見て来た歴代の当主たちにそのような思考をする者なぞおらんかった。嫉妬や猜疑と言った心の靄に一時的に囚われることはあっても、それらに支配されておっては人間の寿命の中で何かを成し得る、或いは成し遂げることは難しいとは思わんかの?」
「…………」
「のう、童は何かに夢中で打ち込んだことはあるかの?」
トーンダウンした口調で繰り出された質問には心中で不快に波打つものがあった。
興味を持って、見様見真似で何かをしてみようとして楽しい、嬉しいという感情を抱いたことがあっただろうか。
「どれだけ才能があろうと、どのような環境下であろうとも、集中して極めるには他者からは想像もつかぬほど途方もない時間をかけた試行錯誤の繰り返しの先を見据えねばならん。成し遂げるというところまでは辿り着かずとも、挑戦をしたことはあるかの」
「……いや」
俺の心の根底には相克し諦め、冷笑する部分が土壌を成している。
「それは何故じゃ?」
「才能とか、能力のない奴が頑張ったって時間の無駄だから」
部活動でも塾でも常に俺の目に入ったのは、頑張ったってどうにかなるようにも見えないにも拘わらず足掻く奴らだ。
出来もしないことに時間と労力を費やすことに一体何の意味があるのか欠片も理解出来なかった。
「やはりの。環希からは言葉や行動に今一つ気概のようなものが見えんよってに、どこまで真剣に事に取り組んでおるのかが分からんかった。所謂、下ばかりを見て安心する部類の人間ということよの」
「で、その結果運動や遊びもしてないのに勉強も良くて下の上っていう救いようのない無気力浪人の出来上がり。流石に高校卒業した今なら自業自得って分かるけどさ、今でもどうしていればより良くなっていたのか分からん始末だ。……分かりやすくスポーツ選手とかそういう何者かになりたかったんだけどな」
目の前のことに向かってコツコツと努力する誰かを冷ややかに茶化したところで、俺は何も成長する要素は無いという当然の事実から目を逸らし続け、その努力が実ればソイツには特別な才能があったからだと無理矢理こじ付けて納得させてきた。
訳の分からないまま踏み込んだこの社森という場所、誇張した言い方をすれば世界では俺は特別なんじゃないかという根拠の無い期待や希望を抱いていた。
しかし、其処にはもう神様から家柄や能力に恵まれた人間が確固たるポジションを築いて活躍している。
俺の出る幕などないじゃないか、というのが素直な感想だ。
「環希に限らんがの、そういう人間に限ってすぐに結果を出すことに拘るし、他者を蹴落としてでも自分を良く見せようとするんじゃ。古今そう大きく人間の性分は変わらんということを吾も定期的に実感しておるし、そういう奴にはどうするかという対応も慣れたもんよ」
彼女は一段だけ階段を降りて握手を求めるように右手を差し出した。
あくまでも俺の視点に合わせるように屈んだりはせず、相変わらず見下ろしたままだ。
「自分で決めよ。どんな生き恥を晒してでも吾に師事し北田家の当主継承を目指し童の言う何者かを目指すか、社森を出て家に帰るなり好きに生きていくか。前者なら吾の手を取れ。そうでないなら、童とはこれっきり二度と会うことは無い」
こういう時の二択は、前者を取るのが王道だしそうなりたいという欲求は、ある。
なのに素直にその小振りな右手を掴もうとすることが出来ない。
何も考えずにただ思い描く理想に向かって歩んで行ける意志や直向きさがあればと思う。
恐らく流れに身を任せて考えなしにその手を握っても、そう遠くない先で振り落とされるのが分かるから動けない。
「……ここまで言うても、まだ己の心の声が聞こえぬか。躊躇い、気後れするのも大いに結構。分別ある大人ならば自身だけでなく周囲の人間をも大きく巻き込む決断を迫られ、悩み苦しむのは当然とは思うても、今の環希の立場で分かりやすく手を差し伸べられて掴まぬ理由は何じゃ」
「上手くは言えないけど、多分成功出来なかった時のことをイメージしてしまうというか、そっちの方が鮮明に思い描けてしまうというか……」
「まさかと思うが、その成功したという他人全てが初めから成功を約束されておったとでも思うておるのかの?出来もしないと決め付けて手を付けることもなく、手を付けても失敗を目指して進めばそら成功なんぞする訳ないの」
片眉を吊り上げ更に呆れが加速する。
これでも俺は俺なりに恥を押し殺して心情を吐露しているつもりだ。
根拠の無い自信と自尊心は今やすっかり羞恥と劣等感に変貌し、煌びやかなものからは目を逸らし耳を塞ぐことで心の平穏を保とうとしてきた。
それが今、この二つの度し難い内なる怪物に向き合わなければならないことを弥作は真っ直ぐに突き付けて来ているのだ。
見透かされた上で選ぶ権利を与えて貰っている。
「ふーむ、約束の刻限までもう幾何も無いの。ほれ、さっさと選ばんかい」
ん、と再度差し出されたその右手に、俺はゆっくりと手を伸ばそうとする。
その時頭の中を過ったのは自身の好奇心や思い付きが原因で被った痛みや恥の数々だった。
それらが積み重なるにつれて、熟考という言葉で偽装した不安との葛藤が増えていった。
今も伸ばそうとしたその掌には嫌な汗が滲んでいる。
自分で選ぶということは、その結果生じる責任をも負わなければならないということを意味している。
与えられたことの失敗は与えた者に転嫁することが出来てとても気楽だ。
指先と指先が触れ合う。
弥作がここで俺の手を引っ張り上げてくれればという淡い期待も空しく、震え始めた腕をもう片方の腕で掴んで何とか伸ばそうとする。
最後に彼女が言葉を発してから悠に十数秒は経過しているが、急かそうとはしない。
蓋をして心の奥に仕舞っていた筈の嫌な思い出が俺の感情を激しく揺さぶり、動悸や吐き気までも催して来た。
それでも、弥作の言葉に縋って決断し、一歩を踏み出そうと頭を振って言葉を絞り出す。
「失敗して格好悪いところとか、情けないところ、たくさん見せると思うけど……それで、恥ずかしくて逃げ出したいって思っても、見捨てないで欲しい……!」
「好きなだけ失敗して、励めば良い。怒りも悲しみも羞恥も全てを糧として蓄え、いつか環希なりの花を咲かせれば十分じゃの。よくぞ吾の手を掴んだ、漸く一歩己の意志で道を歩みだせたのう」
転げた時と同じぐらい荒い呼吸をし、激しく発汗し目頭にも熱いものが込み上げながらも、確かに俺の右手は弥作の右手をがっちりと掴んでいた。
それを認識した瞬間足に力が入らなくなり、立ち上がれなくなってしまった。
「む?膝が笑ってしもうておるのかの。余程に極限の決断じゃったということよの、よくやった」
生まれたての小鹿よろしく立ち上がることに悪戦苦闘する様を見ながら彼女は笑顔で無遠慮に背中を叩くので、片膝立ちの状態から動けない。
ほんの少し恨みがましい視線を向けても全くの無視で、一頻り笑うだけ笑ったらさっさと先へ進み出してしまう。
「ほれほれ、早う来ぬか。まずは十歳の颯乃に勝たねばの」
「……くそ、早速煽ってきやがって」
歯を食いしばり、手近な手摺にしがみ付いて何とか立ち上がると、ふわふわと覚束ない足元の感覚に苦戦しながら階段を登る。
行き当たったつづら折りのその先を見上げると、其処には休憩所のような広場があるらしく弥作が得意気に俺を待ち受けていた。
「どうじゃ、意外と行き着く先が見えると足も気持ちも軽くなるじゃろ?」
悔しいが、彼女の言う通り挫けかけていた重苦しい悲壮感めいたものは消え去り、最後の登りは身体には負荷がかかっても苦という感覚は無く熟すことが出来た。
ただ遊歩道を登って来ただけと言えばそこまでだが、その目下に広がる社森の光景を見れば自分の足で歩んだという達成感のようなものに充足を覚える。
「ここは頂上の城跡と地上のほぼ中間地点じゃが、確かに足跡を残して歩んで来たという自負があれば地上から冷やかされたとしても碌に見えも聞こえもせん。高みを目指すというのはそういうことよの」
「……確かに、その通りだ」
家族旅行などで近しい風景は幾度も見て来たが、これほど感銘を受けたことは無い。
「さて、浸らせてやりたい気持ちはあるんじゃが生憎と時間は待ってはくれんでの、例の刑事と話をするとしようかの」
丸太を横倒しにした格好のベンチに座り、懐から支給品のスマホを取り出す。