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 社森神域は常夏ならぬ常春の楽園のようだ、と俺は感じた。

 気温や湿度といった物理的条件はもとよりこの空間に足を踏み入れて数秒後に何故か清々しく、酷く落ち着いた気分になったからだ。

 肺胞の一つ一つに余すことなく酸素を行き渡らせるように、深く息を吸い込み時間をかけて吐き出す。

 それを眺めていた弥作はどこか安穏とした表情で微笑を浮かべる。

「何も面白いことをしたつもりはないんだけど」

「いや、北田の子じゃのと思うての。本物の異常神域では無くとも現世とは違う領域を体感した北田の者たちは皆、この場所をいたく気に入って来たもんじゃ。それこそ、まるで我が家のように寛ぐ者も居たのう」

 彼女の言は全くの誇張ではないと俺は感覚的に理解出来た。

 ほんの数時間前に居た場所に対する認識がこれほど変わるというのは生きて来て初めての経験で、正直俺自身もどう受け止めどう振舞えば良いのか分かっていない。

「貴代さん……婆ちゃんは、どんな感じだった?」

「ぷくくく、若い頃の貴代はそらもうお転婆での。そこらの竹藪に寝っ転がって昼寝もするし、現世の夜が明けても酒を飲んで騒いでおったり、酷いときは吾を抱き抱えて寝落ちしたりとやりたい放題しておったわ。ま、流石に子を産んで年を取って颯乃の面倒を見る頃にはすっかり落ち着いての、縁側で並んで茶なんぞを啜っておったわ」

「何だろう、颯乃がまともに思えてくるな……」

 我が家では滅多に酒を飲むことが無いのだが、何度か父親が仕事上の付き合いということで仕方なく酒の席に臨んだところ、とんでもない酒乱で収拾がつかなかったと母親から聞いたことがある。

 祖母の話然り、北田家は伝統的に酒癖が悪いのだろうと思うとあまり進んで飲酒はしたくないところだ。

「あの子はまとも、と言うより真面目よの。身寄りも無く己の身一つで生計を立てておるのだから立派じゃし、貴代を目標として日々邁進しておるでの」

「……」

 野河寺さんの話のとおり、複雑な事情により天涯孤独となった彼女を育てたのが俺の祖母なら、尊敬の対象となってもおかしくはない。

 惜しむらくは、俺にはそういう生き方の部分で明確に尊敬に値する人物が居ないので完全な共感には至らないことか。

「まー、颯乃には遠くない親類も居るんじゃが、如何せん両親がアレな感じな所為で引き取りを拒否されてしもうとるんじゃ。子どもに罪は無く不憫じゃが、これもまた人間の抱く自然な感情と選択よの」

「そう言えば生い立ちが複雑とは聞いたけど両親がどうとか、そんな話は聞いてないな。何ていうか、恵まれない家庭って言うやつだったんじゃないかとは思うけど」

「吾がそこをとやかく言うことは無いが、結果的に颯乃を不幸にしたことに違いはあるまいて。方向性は違えど環希も似たようなものじゃと吾は思うとるがの」

「俺も?」

「童の父親は貴代のことや、弟君のことを知らせるつもりも無く知れば己が支配下に引き戻そうとしておったではないか。人の親とは子を知ってか知らずか思い通りに操ろうとするでの。それを親心と解するのかエゴと捉えるのかは子の領分で、反抗するのも大いに良い事と思うが……環希はどう思うておるんじゃ?」

 改めて問われると、答えに窮する。

 絶賛初めての反抗の真っ最中とは思いつつ、心の底にはまだ親元へ帰れば暖かく迎えてもらえるというセーフティのような考えが残っていることも否定出来ないからだ。

 父親を蹴った颯乃や舌戦を繰り広げた野河寺さんを悪者にしてしまえば、少なくとも表面的には実現出来るという打算だ。

「正直、ノリと勢いだけでここまで来てるって自覚はある。何かの拍子に今のテンションが挫けたら多分実家に帰っちゃうような、そんな気がするかな……」

「ふむ、環希はアレじゃな。意志薄弱というやつよの」

 その指摘は、俺の胸中のど真ん中を貫いた。

 ここ最近自覚しつつあった自分のコンプレックスを刺激され渋い顔になる。

「果たして、亡者に傾倒して生きる意味のようなものに縋る颯乃と比べればどっちが幸せなんじゃろうの。いっそのこと、環希も颯乃のように貴代を崇めその生き様をなぞってみるか?」

 弥作の言い草の裏には何やら皮肉めいたものが込められているように思う。

 その真意は分からない以上、俺は沈黙以外の返答は出来ない。

「いや、許せ。そう若い者を苛めるものではないの。悪しき物言いをしたが、誰の言動にも心酔しとらんということは、ある意味周囲の意見を冷静に受け止めて自分なりに解釈しておるという見方も出来るでの。僅かとは言え環希も颯乃よりは年長なんじゃし、その冷静さは少なくとも悪い影響を与えることはあるまいて」

「……結局何が言いたいのか、もう俺には分からないぞ」

「童を揶揄ってみただけじゃ。吾と北田家の築き上げてきた伝統の意思疎通手段でもあるからの、慣れて行ってもらうしかないのう」

 拝殿の階段に座ってからも意味が有りそうで無いような遣り取りをしていると、弥作が何かに反応して片眉を吊り上げた。

「せっかく、上手く丸め込んで酒宴でもと思うたがそうも行かんくなったの」

 感情の色が抜け切った溜息を吐くと、やがて一人の人物がこちらへと近付いて来る。

 綺麗に磨かれたローファーで玉石を踏み締めて現れたのは、野河寺さんだった。

 微かに上がった口角と優し気な目元は優雅さや気品を感じさせるが、弥作や下宿の言葉を念頭に置くとなんとも不気味な仮面を貼り付けたような顔付きに見えてくる。

「あら、今宵の弥作様はまたいつもと違った装いですのね」

「うむ。そこの環希が好いておった女子の容姿を真似てみたのよ」

「それはそれは……」

 興味深そうな視線を弥作に向け、次に何かを吟味するように俺へと移した。

「北田さんは案外、素朴な女性がお好みなのですね」

「……昔の話ですよ」

 颯乃と違って彼女にはどうにも敬語、丁寧語が抜けない。

 それは彼女自身の物腰の柔らかさにも起因する部分はあるのだろうが、容易に踏み込んで行けない分厚い壁のようなものを感じるところが大きい。

「それで、野河寺のが一人で来るのも珍しいの。何かあったかの?」

「ええ、件の失踪事件について進展がありましたのでご報告に参りました。一先ず、お茶でも如何ですか?」

 どうやら俺に向けての提案であるらしく、横目で弥作を見遣るも賛否を委ねるように瞑目してしまう。

 ここで俺の口から拒否するというのも不自然な気がしたため彼女を拝殿内へと招くことなった。

 慣れた所作で上がり込む野河寺さんを、弥作は硬い表情で見送りどっかと階段に腰を下ろした。

 居た堪れない空気に耐えかねるところだがどっちの肩入れも出来ず、俺は二人が視界に入らないよう空を眺めて時間を潰すことにした。

「お待たせしました。私と北田さんには社森近郊で採れた緑茶と、弥作様にはいつもの純米酒をご用意しました」

 盆に湯呑二つと徳利、猪口それぞれ一つずつの組み合わせを載せて現れた野河寺さんに会釈をして、湯呑を受け取る。

「それで、何があった?」

 手酌で早速酒を一口味わった弥作の問いに、野河寺さんは実に嬉しそうに手を合わせた。

「それがですね、自治会長の沢田さん見付かったんですよ」

「ほう、それは吉報じゃの。颯乃が見付けたのか?」

「ええ、偶然走り回ってる颯乃と合流してから程なく怪しい地点に遭遇しまして、いつも通りに颯乃が異常神域を封印してくれたんです。自治会長さんは念のため家の系列の病院に検査に向かっていまして、颯乃は付き添いを希望したので、まずは第一報ということで伺った次第です」

「そうか」

 心底安堵した様子で話す野河寺さんとは対照的に、相槌以外にリアクションの無い弥作というアンマッチさが何故か傍らで聞いているだけの俺の胃を痛くする。

 幸いだったのは互いに深く立ち入った質問や問答をせずに事務的な会話に徹し、一応はにこやかに話が終わったことだった。

「これでまた、野河寺家は盤石となった訳か」

 しかし、その最後に弥作の放った一言が釣り針の返しのように野河寺さんに引っ掛かったようだった。

「……社森の平和を願う一員として、ただ安堵するばかりですよ」

 それは話の流れで自然に発せられたようにも感じたし、特別強い感情が込められているようにも受け取れなかったが、互いの応答までの僅かなタイムラグの間にどれだけの応酬があったのかは計り知れない。

「安堵、のう……。ところで、そろそろ酒の在庫が心許ないんで搬入を頼むでの」

「はい、承りました。明日にでも颯乃とお持ちしますね」

「環希よ、童も手伝え。一升瓶をケースで運ぶでの、人手は幾らあっても困らん」

「お、おう」

 出来れば二人の会話に入りたくなくて虚空を眺めていたのに、急に巻き込まれ曖昧ながら肯定と取れる返事をしてしまう。

「確かに魅力的な提案ではありますけど、北田家の当主となる方にそのような雑用はさせられません。北田さんも変な遠慮はしないでくださいね」

「野河寺のは環希に甘いのう。もう少し颯乃にもその優しさを分けてやったらどうじゃ」

「颯乃は学園の生徒でもありますから、地域貢献のボランティア精神を養ってもらう必要があるんですよ。野河寺学園は社森の発展に貢献することを是として創設されていますからね」

 さて、と彼女は立ち上がると俺の手をそっと握った。

「昨日も遅かったですし、今日もご自宅までお送りします」

「いやいや、悪いよ。一応俺も男だから平気だって」

 固辞しようとしたが野河寺さんも頑として譲らず、堪りかねて弥作に視線を送るが全くの無視を決め込んで酒を飲んでいた。

「暗い夜道には何が潜んでいるか分かりませんよ?それにまだまだ冷え込みが強いですし、北田さんの体調管理の一端だけでもお手伝いさせて下さい」

「……じゃあ、悪いけど、お願いしようかな……?」

「こちらこそ、私の我儘にお付き合い下さりありがとうございます。さ、行きましょう」

 去り際に弥作に向かって一つお辞儀をして、俺の腕を掴んだままさっさと拝殿を後にする。

 竹林の中に入り弥作の視界から完全に脱した頃に前を行く彼女が不意にくるりと振り返った。

「北田さんは、さっき弥作様のご機嫌が少し悪かった理由をご存知ですか?」

「いや、どうだろう……全然思い付かない」

「そうですか……。どうしてか、時々私に対してぶっきらぼうになる時があるんです。自覚のないところで何か粗相をしていたりするのかなって、そう思っちゃうんですよ」

 本気で不思議がっているようで、考え込むような仕草を見せる。

「多分、野河寺さんの考え過ぎじゃないかな?俺も結構罵倒されてるし」

「いえ、弥作様の言葉選び自体に悪意は無いんです。仲を深めるために敢えて軽口や、憎まれ口のような物言いをされることはあっても、分かりやすく機嫌が悪くなるのは珍しいんです」

 流石に俺よりも付き合いが長い分性格や言動に対する理解は深い。

 しかし、弥作から聞いた乗っ取りが本当で、それに目の前の少女も積極的に加担しているのであれば実に白々しい演技に思えてくる。

 本当のところは何を考えて今、ここで立ち止まって思考するような所作をしているのかその真意が知りたい。

「ああ、そう言えばお酒の残りが少ないと仰っていたので、それで少しナーバスになっているのかもしれませんね。この社森にも小さいですが酒蔵がありまして、野河寺家も一部出資させていただいているんです。そのご縁で学園外のお客様に振舞うこともあるのですが、とても好評をいただいているんです」

 彼女が見せる表情の全てから厚意や愛嬌のようなものが感じられる。

 話し方の中の間の取り方や声の落ち着き具合など、細かな部分までもが完璧だ。

「……実は、ここだけのお話なんですけど……今年のお正月にほんのちょっぴりだけ、弥作様が愛飲されているお酒を試飲させてもらったんです。香りは果物のようなのに、味わいは端麗!って感じで吃驚しちゃいました。よろしければ明日の搬入前に少しだけ召し上がってみませんか?」

 とても自然な足取りで俺の耳元で囁き、秘密を打ち明けたりするのも異性に免疫の少ない俺を緊張させるのに十分だった。

 きっととても分かりやすく顔が紅潮してしまっているのだろう。

 冗談ですよ、と打って変わって軽い声音で言ってから俺から離れる。

 離れると言っても腕だけは離さずご機嫌な様子でまた歩き始めた。

「そう言えば、北田さんお腹空いていませんか?もしまだ何も召し上がってないのでしたらお話したいこともありますので、またお食事をご一緒に如何でしょう」

 言われてふと思い出したが、俺の夕食は颯乃とここに来た時拝殿に置いたままだ。

「……警察の方とも色々なことをお話されたんですよね?」

 付け加えられたその一言に彼女がここに現れた理由が全て凝集されていると直感した。

 弥作と警察の下宿は野河寺家を警戒し敵視すらもしているのに、その両者を仲介したのは目の前の少女だ。

 恐らく彼女は俺がどんな話を聞かされたのか、その大意は既知だろう。

 素知らぬ顔で逃げることも許さないために腕を掴んでいると考えるのは邪推だろうか。

 とても拝殿に食事を取りに戻るとは言い出せない圧のようなものは確実に感じる。

 もしここで力任せにこの腕を振り払ったところで、彼女とのお話というイベントは確実にやって来るという確信めいたものも俺の中にあり、数秒の沈黙の後に頷く。

「良かった、それでは車まで案内しますね」

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