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昨夜の光景を決して夢であったとは思わないが、どうしても酒を飲む狸という映像は容易には受け入れられずに凝視してしまう。
「しかし昨今は急速に世代交代が進んでしもうたな。おまけにつまらぬ決め事に縛られて可哀想よの」
「酒ってそんなに旨いの?」
酌をする颯乃は徳利の口に鼻を近付け、うーんと唸った。
「吾が酒を飲むは土地の作柄や水の異変を感じ取るためでもあるがの。うむ、旨い!」
虹色の吐息と共に上機嫌になった狸は小皿に盛られた味噌を舐め、颯乃からまた酌を受ける。
「で、まだ失踪地点の目星付けられないの」
俺と颯乃が狸の棲み処こと、社森神域を訪ねたのは自治会長捜索の手掛かりを得る為であった。
狸もそのことは重々承知の上で非常に困ったと言わんばかりに深い溜息を吐いた。
「颯乃は知っておろうが、吾はこの社森で起きた異変のほとんどを察知しておる。それが何時、何処でというところまで詳細に分かることも往々にしてあるが……今回はどうにも判然とせん」
「どういうこと?」
「件の失踪者は確かにあの晩に社森の、つまり吾の察知出来る範囲内で姿を消した。そこに間違いはないんじゃがの、どうにも澱んだ沼の底を浚うように痕跡が見付からん。今風で言うなればジャミングされとるような感じかの」
意外と現代の知識にも理解があるのか、と呑気な感想を抱いた俺だが颯乃の方は隠そうともせず舌打ちをした。
「鬱陶しい……。てか、何百年もこの神域で暮らして来たんだからそう言う時の対処法とかあるでしょ」
「期待させて悪いんじゃが、結局は現場を駆けずり回って地道に探し出す他無いというのが答えじゃの。そうじゃ、この際貴代の孫に地理を叩き込んでやったらええじゃろう」
「んな呑気なこと……」
「颯乃、気が急くのも分からいではないがの、結局は急がば回れじゃ。貴代も黙々と自分の足で社森を駆け巡っておったのは知っておろう?」
諭された格好となった颯乃は無言で頷き、底の擦り減った運動靴の紐を締め直した。
「どっちにしてもアタシは走り回るつもりだったけど、流石にコレの面倒まで見ながらゆったりやれる猶予まではないと思うんだけど?見た感じ運動が得意って訳でもなさそうだし」
スポーティな彼女の出で立ちに比べると俺の着衣は運動がし易いとは言い難い。
またその足元は彼女のようにランニングシューズではないため、長距離の歩行は難しく体力的に走行も期待出来ない。
おまけに部活動はまさしく運動が苦手という理由で文化部に籍を置いて、更に顔を出すのも気まぐれという半ば幽霊部員だったので彼女の期待するところの運動能力は備わっていないときた。
「ぷくく、指導側に回ると如何に他人が自身の思惑とは異なるものであるか身に染みるじゃろう。思考に性格、身体能力から趣味嗜好まで実に多様じゃて」
「こんなハズレも珍しいと思うけど?」
「おい、お前それは流石に好き勝手言い過ぎだろ」
「逆にアンタこそアタシのことしれっとお前とか呼んでくれてるけどさ、もし年上だからって理由でそうしてるんなら止めてくれない?偶然アタシより先に地球の空気を吸ったってことのどこが優位なのか説明出来るなら許可するけど」
「年長者は敬うものではあっても敬われなければならぬ道理は無いからの。吾のように威厳と愛嬌を兼ね備えれば自然と崇敬の対象となるもの」
自身の言葉に何度も頷き講釈を垂れる狸に、俺はもとより颯乃までもが微妙な顔をしていた。
「弥作様だって結局貴代おばあちゃんに頼り切りだったし、尊敬してるかって言われると……」
「まーったく颯乃の貴代信仰にも困ったもんじゃで。吾が出しゃばってもええことばかりじゃないことを忘れてはおるまいの?」
「はいはい、わーってます。ほら、アンタいつまでぼさっとしてんの」
「お、おう」
さっと立ち上がった彼女を追いかけようとするが、狸に服の裾を摘ままれ態勢を崩してしまう。
「颯乃、今日のところは吾が貴代の孫を面倒見る。確かに残された猶予は少ないと見るべきじゃの」
「なんだ、やっぱり弥作様は話分かってんじゃん。じゃ、お先ー」
軽やかなランニングフォームで地を駆って颯乃の姿は瞬く間に竹林の向こうへと消えて行った。
「さて、と。貴代の孫こと環希よ、童とは野河寺のがおらぬ時に一度じっくりと話がしたかった」
狸は颯乃たちと話すような気軽な声音ではなく、いやに真剣なトーンと共に口を開いた。
「童は率直にこの社森という場所をどう捉えておるんじゃ?脈絡も正解もない、今思っているままを聞かせてくれんかの」
唐突な問いにどう切り出したものかと思索を巡らせ、狸の円らな瞳と視線が交差する。
結局、とにかく思いつくままを口に出してみようという結論となり穏やかな様相の青空を見上げた。
「変なところだなって思う。父方の故郷なのに馴染みがなくって、祖母が血の繋がった俺より孫してる子がいて、何より喋る狸がいる」
「ふむ……。他には?」
「そう、だな……。ここに限った話じゃないのかもしれないけど、大人同士の対立というか警察と野河寺さんの家が仲良くないとか、本当にそういう話があるんだって思ったかな」
俺の言葉に狸は深く頷く。
「この社森という土地を最も長く見てきたのは吾で間違いないが、人間に限定するなら野河寺家ということになる。一度はその影響力を落とすこととなったが、今では全盛期に勝るとも劣らぬ勢力に再度成長しておる」
「その辺りはある程度警察からは聞いてるけど、なんていうか大袈裟っていうか」
下宿の話はあくまでも警察という固定化された一方的な立場からのものであるという認識があり、祖母も中立的な立場を取っていたように颯乃を通して受け取れたことからあまり気にしてはいない。
ところが狸はそうは思っていないらしい。
「颯乃は貴代に育てられ、野河寺に支えられて来たからの……。官憲もさぞかしやりにくいじゃろうて。ところが、そこに全く双方に関わりのない関係者が湧いて出てきたのじゃから問題なんじゃ」
「それも、警察の人から聞いた。野河寺と対立したら生きていけないとか物騒なこと言ってたよ」
「……環希は社森に来るまでどんなところで育ってきたんじゃ?」
「んー、まぁ、田舎過ぎず都会過ぎず……普通としか言えないかな」
「漠然としておるが、それが制約やしがらみの無い自由な土地というものよの。ええか、童の聞いた野河寺に逆らうのが賢明ではないという話は、本当じゃ」
狸は徐に拝殿の中に入って行き、やがて一枚の丸まった紙を咥えて戻ってきた。
促されるままにその紙に記された内容を確認すると、どうやら社森全体の地図のようであった。
確信が無いのはそもそも土地勘が無いのに加え、最近のものではないようで鉄道駅の記載すら見当たらない。
「これは今から百年以上前の地図じゃが、今でも社森の主な区画は再開発されず据え置かれておるんでな、大雑把に地理を把握するには向いておるんじゃ」
町名よりも細かな字や旧村名らしい名称が記されているようだが、どうにも達筆で読み取れない。
「心配せずとも吾が解説してやる。まずこの社森を大まかに分類すると、野河寺家とその郎党が居館を構える武家町が中心的での、その跡地の多くは今の野河寺学園の敷地となっておる。地図で言えば左上辺りの小高い丘の辺りじゃの」
狸の小振りな指先が示したところに注目すると、確かに中学校から短大まで同じ敷地内に共存させられるだけの大きさが改めて窺える。
「その周囲に広がる田畑と点在する村落は言うまでもなく農村部で、今でもその色合いは強く残っておるのは童も目にしておろう。そして、今の社森の駅の周辺は吾が鎮座しておることから察しもつくであろうが、神聖なる禁則地として近現代まで外界から干渉を受けることのない原生林であった」
「それが今や駅前の繁華街に変貌してるのか。……全然想像出来ないな」
「昭和の戦後からの開発ぶりは吾も驚いたものよの。明治の御一新でも世の中の様変わりを見たつもりじゃったが、建物も行き交う人間の装いも何もかもが変わった。で、ここからが本題じゃがの……その社森の開発を主導したのは誰か分かるかの?」
流石の俺でも話の流れを聞いていればその答えはすぐに浮かんだ。
「野河寺家だ」
「ま、大まかに言えば正解じゃな」
「と、言うと?」
「流石の野河寺家も勝手に人様の土地に線路を敷いたり、全国区の商業施設を建てることは出来ぬ。あの一家はこの社森とその周辺に盤石な支持者が多くおるでの、血縁者や近しい者たちを次々と政界へと送り込んで行ったんじゃ。今でも県議やら市議やらと野河寺と繋がりの強い連中がうじゃうじゃしておる」
「その人たちが色々と誘致したってことか。でも、その割には社森は田舎って感じだけど」
駅の大きさもそうだが、その周辺も観光に向くような派手さはなく地元向けの小規模店が多い印象だ。
「言うたじゃろ、周辺の町にも影響力が及んでおるんじゃ。幕藩体制の御代ならいざ知らず、今のご時世は電車やら車やらの普及で随分と移動も楽になったでの、広大な土地のある永泉を集中的に開発させたということよ。その辺りはどちらかと言えば野河寺家に反目する人間が多く住んでおったんじゃが、不思議なほどあっさりと土地を明け渡して何処ぞへと消えて行ったがの」
「……地上げ、ってやつか?」
「吾は特段人間がその時々に作り出す倫理規範に何ら意見は持たぬ。その昔は命のやり取りで土地や権利の奪い合いを当たり前にしておったのに、時の権力者がそれを禁忌と定めれば簡単にそれまでの当たり前が当たり前ではなくなる。野河寺家もその時代に合ったやり方で力を蓄え行使して来たということじゃ」
狸は腕を組み、感情の読めない伏し目で黙り込む。
「……実はの、今回の失踪の真相を吾は知っておる」
「え?でも、颯乃にはよく分かってないって……」
「ここまで話せばもう察しもつくじゃろう。件の失踪者の居所は野河寺家が所在を握っておる」
「なら野河寺さんに聞けば解決するってことか!何でそうしないんだ?」
俺の問いに狸は一瞬憤怒の気配を出しかけ、諦めたように肩を下した。
「吾と、そして貴代はの……野河寺に騙されたんじゃ。禁則地であった吾が住処は形上、北田家の管理する土地でもあったんじゃが、公共事業に都市開発のためにと移設を提案された。無論、吾も当時の当主であった貴代の父も反対しておった……が、既に裏では土地の配分なども話し合われておったそうじゃ」
すっと立ち上がり、徐に拝殿から少し離れた位置まで移動した狸に手招きされる。
何の気なしに近づくと今度は後方を振り返るよう促される。
「結局、野河寺家が土地を収用した後に買う連中と親野河寺家の住民たちの嫌がらせで禁則地は明け渡され、代わりに吾の住む場所はこのような場所となった。ほれ、見えるじゃろ?入口に掲げられた紋が」
拝殿の扉前辺りから垂らされている紫の布には、白抜きで幾何学的な記号が描かれている。
それが所謂家紋というものであることは直感的に理解出来た。
「古いながらも主に北田家が代々維持管理してくれておった現世の本殿は取り壊され、童の知る小さな祠がその末路であり、この神域にすらも野河寺家は踏み入って来おったのじゃ」
「でも、婆ちゃんはその野河寺家と上手くやりあってきたんだろ……?」
「貴代は……連中と真正面からやりあって敗北した父の経験から、態と自ら取り入り裏では北田家の味方を増やす工作を続けて吾を守ってくれた。まだ社森の事情に詳しくない官憲も引き込み、今でも野河寺家を牽制する構図を作り上げたしの」
俺は根本的な部分で勘違いをしていたことに、今漸く思い至った。
野河寺家は社森を大きく包み込んでくれる心強い味方なのではなく、至って傲慢な支配者なのだ。
「環希よ、吾は貴代に感謝しておるし、暫定的であっても当主代行として精力的に活動する颯乃に感心もしておる。そして、歴代の野河寺家の当主たちも吾に敬意を持っておった。全ては今の野河寺家当主の祖父の頃から風向きが変わったんじゃ」
「確か、商売に成功して学園の運営を始めたんだよな」
「表向きは地域の教育水準を上げるだの調子の良いことを喧伝しておったが、真の目的は社森を地盤とした政財界の支配、そして吾の力を完全に掌握することじゃ。学園を卒業した人間が野河寺派閥として周辺に入り込み、その尖兵たちは今や会社組織では幹部となり、吾の住処を追ったり北田家を攻撃したのもそういう流れを汲む連中よの」
下宿の言葉、そしてこの狸の言うことを全て真とするならば俺はとんでもないことに首を突っ込んでしまっていることになる。
そういうことをもし父親が知っていたのだとしたら、昨日一緒に実家に帰れば良かったという後悔の念がふつふつと湧いて来る。
「次々と衝撃の事実が明かされて受験のことなんか霞んじまいそうだ……。で、現実世界で金も人脈も権力も手に入れた連中が欲しがる狸神様の力って?」
「今この瞬間、童は吾と此処に居る。では、現世ではどうなるかの?」
「どうもなにも、居ない……」
自分で自分の発言にハッとさせられる。
「現世で言うところの神隠しというやつじゃの。そして、千年もの間存在し続けてきた吾はこうした現世でも黄泉でもない神域を創造することが可能なのじゃよ。もしもこの力が人の手に渡り恣意的に行使出来るようになってしまえば、創造した神域に隠したいものを何でも隠せてしまうようになるのは容易に想像出来ようの?」
ふう、と一息吐いた狸が無言で猪口を差し出してくる。
どうやら酌をしろということらしい。
持ち上げた徳利の中身はもう残り少なく、その全てを注ぐと一切の躊躇いもなく一息に飲み干して見せた。
「でも、そんな力を奪うことなんて可能なのか……?」
「吾から言えることは、その野河寺家当主の祖父の代から随分と研究熱心じゃということぐらいかの」
事実の有無すら明言されず再度の酌を求められ俺は、徳利の中身が空であることを示すために横に振った。
すると、少し名残惜しそうな素振りを見せてから二足で立ち上がる。
「さて、颯乃に嘘を吐く訳にもいかぬし、社森の案内を兼ねて散歩と洒落込むかのう」