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これは文学なのか、論文なのか、それとも遺書なのか

作者: ねると

寂しさに心を鷲掴みされ、枕を濡らし、目を覚ます。

楽しいはずの3連休の朝。

そもそも楽しいはずという期待は、僕の勝手な期待だ。

なにせ、期待するほどの準備をしていたわけではないから、

ただ、家でダラダラと何も考えずにゲームをしたり、映画やドラマを見たりしていただけ。

何も計画せずに、なにかに流されるままに過ごした。

それが涙の意味なのかもしれない。

なんてことを考えて、自分自身を騙そうとしている自分自身に、少し嫌気が差した。

涙の意味は、単純に後悔だ。

ありきたりな、ごく普通のやつ。

誰だって、人生において後悔の1つや2つあるだろう。

僕の場合は、生まれてきたこと自体を後悔している。

勉強もできないし、仕事だってうだつの上がらないポンコツの僕だけど、後悔するという点では、誰にも負けない自信がある。

そこだけは誇れる点だ。

よく後悔先に立たずという言葉あるけれど、それは正しくない。

なぜなら、僕は何かをする前に後悔できる人間だからだ。

まさに今、これを書く前に僕は後悔している。

書くことで後悔することもわかっているから、この文章は後悔にサンドチッチされている状態なのだ。

そんなわけで、僕は何かをする前にすでに後悔する。

まさに後悔ばかりの人生。

そんな後ろ向きな生き方は楽しくないように思えるかもしれない。

けれど、実際にはそうでもない。

一度後ろ向きに歩いてみればわかるけれど、先が見えないというのは、とても不安でスリリングだ。

そう、後ろ向きな生き方こそ、最もスリルのある生き方なのだ。

もし、人生がつまらないと感じているのなら、一度、後ろ向きな人生を送ることをおすすめする。

そうすれば、前を向いて歩く人生が、どれほど良かったのか気付けるからだ。

何が言いたいのかというと、つまらない人生というのは、前をしっかり向いて、未来をちゃんと予測し、そのとおりの出来事が起きる人生ということ。

そしてそれは、すべてが予測できる能力の高さの裏返しなのだ。

つまらない人生を送っている人は能力が高すぎるのである。

だから、予測することを諦めれば、常に予想外の出来事ばかりが起きるから、人生が楽しくなるのだ。

僕はそう考えて、常に後ろ向きな人生を歩むことを決めた。

つまらない人生にオサラバしたのだ。

そもそも面白いとは何か?

それは意外性だ。

意外性とは何か?

予測との差異が大きいことだ。

予想したことと、実際に起きたことに大きな違いがあれば、人間は意外性を感じる。

ただ、ここで注意が必要だ。

意外な結果にばかり拘ると、面白く無くなってしまうという罠がある。

ホンギャラポッポピラサシラー。

いきなり何だ?と思うかもしれないが、これが意外性に拘った結果である。

だれも面白いと感じないだろう。

意味不明だからだ。

つまり、面白いと感じるには、意味がわかることが重要なのである。

その一方で、僕は意味無しジョークというのが好きだ。

意味がわからなければ、面白くないはずなのに、なぜ意味無しジョークが面白いのか?

それは意味が無いことを理解するから面白さを感じるのである。

意味が無いことを理解するというのは、何となくわかりにくいかもしれないけれど、それは意味が無いことを理解できない人の問題であって、僕自身の問題ではない。

つまり、意味無しジョークの面白さがわからないこと自体、自分は世界を理解する能力に欠けているということを高らかに宣言していることと一緒なのである。

だから、意味がわからないときは、笑っておけば良い。

とりあえず笑っておけば、自分が愚か者であることだけは露呈しない。

愚か者であることがバレなければ、大概の場合、何事も無くやり過ごすことができるだろう。

なぜなら、愚か者であると周囲に認識されてしまうと、もうその時点で、二度と能力のある人間だと思われることは無いからだ。

負け組確定なのである。

だから、人は自分が愚か者であることを隠そうとする。

そういう僕だって、こうやって文学なのか、論文なのか、それとも遺書なのかなんてタイトルで、如何にも難しそうな話にして読み手を煙に巻き、自分が愚か者であることを隠すことに必死なのである。

というか、物書きなんてのは、そもそもが愚か者だ。

文章で人に何かを伝えたり、人の感情を動かしたりしようとするのは、そもそも傲慢だと僕は思っている。

なぜなら、愚か者には文章を理解できないから、どれほど頑張ってみても、何も伝わらないし、感情は動かない。

文章を理解できる能力がある、愚か者ではない人間だけにしか、伝わらないし、感情は動かないのだ。

そして、文章を理解できる人間というのは、とても少ない。

つまり、文章というのは、ごく少数の人に向けたものなのである。

それを高尚と呼ぶか、狭いコミュニティでの自己満足と捉えるかという話で、極論で言えば、オブラートに包むと自家発電なのだ。

それに気づいていない物書きがとても多い。

かくいう自分もその1人である。

でも、それが心地よいのだ。気分が良いのだ。気持ち良いのだ。

だって自家発電だから。

自分が気持ち良いように書くし、自分が気持ち良いように話を進める。

そう、文章という世界は、何でも自由自在で、何でも実現できる、自分が王様の世界。

そして、内面を吐露することによって、評価される世界でもある。

それはまさに裸の王様。

そういう点でもやはり物書きというのは愚か者なのだ。

だって、裸の王様が、高尚な人間だと思う人はいないでしょう?

あと、我が物顔、物知り顔で、自分は文筆家でございと様々な物事を語っている物書きがいるけれど、そもそも物書きなら喋るんじゃなくて、文章で伝えるのが筋じゃないだろうか。

結局、物書きなんてのは、自分の気持ち良さを優先し、それがたまたまその時の編集者の目に止まれば、評価されるだけの愚か者の集まりなのだ。

編集者の目に止まらなければ、評価されることは無い。

さらに言えば、編集者が文章を理解できていなければ、どうやっても日の目を見ることはないのである。

そう考えれば、物書きが目指すべきは、如何に編集者の目に止まり、理解してもらえる文章を書くか?が大切だと言えるだろう。

これはある意味、マーケティング戦略だ。

ただ、そうなってくると、今度は書きたいものが書けなくなってしまう。

それは痒い場所を、ずっと掻かずにいる状態。

もうしんどいことこの上ない。

だから、バリバリと痒い場所を掻いてしまう物書きが大半なのである。

それを凡人と言う。

当然だが、自分も凡人ということになる。

なぜなら、もし編集者の目に止まり、理解できる文章を書くのであれば、こんな編集者を馬鹿にするような文章を書くのは、逆効果だからだ。

だれだって褒められたい。

僕だって褒められたい。

褒められたい人生でありたい。

そして、たまになじられたい。

褒められるばかりでは、こそばゆくて仕方がないというのもあるし、褒められることに慣れてしまうと、褒められたことに対する感謝が無くなってしまう。

だから、適度になじられたいのだ。

詰問されたいのだ。

もちろん、相手は美女に限る。

美女というと、多くの人は勘違いしているようだが、ここで言う美女とは、僕にとっての美女であって、世間一般で言うところの美女では無い。

現在の僕の美女の定義は、S氏のことである。

S氏は歳の頃、40代前半。

相対的に見れば、ふくよかな体型であり、長い黒髪が美しく、メガネをかけた麗人である。

世間一般で見れば、美人と称されることは無いだろうが、僕にとってはこの上なく心惹かれる女性だ。

何が言いたいのか。

そうこれは告白なのだ。

つまり、ラブレターとも言える。

自分をさらけ出してこその文学であるならば、己の性的な嗜好を晒すことこそが、物書きが最初にすべきことのように感じてならない。

特に日本においては、性的なものを忌避する傾向にある。

だからこそ、自分を晒し者にするのが、物書きにおける最大の栄誉だろう。

そう考えて世の中の文学を見渡してみると、現状の文学はなんとお行儀の良いことだろうと思えてならない。

皆が美辞麗句を並べ立て、むしろ自分を隠すような文学が蔓延っている。

そう僕は感じているのだが、どうだろうか?

と、文学的な文章も書いたし、面白さに対する考察や現状の文学の分析という点では論文的でもあったが、遺書と呼べるかというと、あまりにも物足りなさを感じるのは、自分だけではあるまい。

そこで僕はここに宣言する。

次の日曜日に僕はS氏に告白をしよう。

ただ、すでに結果は見えている。

僕は無職で、日々自堕落に生きているだけの人間だから、誰かから好いてもらえるような人間ではない。

そもそも冒頭で3連休などと如何にも働いているように書いたのだが、本当は毎日が日曜日なのだ。

ド底辺の人間。

つまり、僕は次の日曜日に告白し、失恋し、そして失意の底で人生を終えることになるだろう。

人生を終えるというと、自らの命を断つと思われるかもしれないが、そこは安心して欲しい。

自ら命を断てるほど、意思の強い人間ではないし、ビビリだし、意気地なしだし、逃げることにかけては若君に負けず劣らずの人間だからだ。

とにかく、嫌なことからずっと逃げてきた人間なのである。

では、人生を終えるとはどういう意味なのか。

それは、文章の中の僕が終わるということだ。

つまり、この物語が終わるということ。

書いている僕は確かに僕だけど、実際の僕ではない。

それが文学というものなのだ。

戦争では多くの人が亡くなったが、文学の世界ではもっと多くの人間が、サクッと亡くなっている。

物書きは大量殺人鬼でもあるのだ。

そういう意味で、僕は僕の人生を終わらせることができる。

だから、次に書く物語の僕は、この物語の僕かもしれないけれど、違う僕かもしれない。

この物語の僕だったら、その時はS氏とよろしくしているということだが、そうなったときは、きっと文章を書くようなエネルギーはないだろう。

そういう意味では、やはりこれは遺書なんだと思う。

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