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序章 おまけ


 ――中戸園子が東伯探偵事務所に一回目の訪問をして十四時間後。

 

 中戸はこの日、午前十時頃に探偵事務所を訪ねて追い返されていたのだが、常駐している警察官の北堂に『十四時間後を逃すと次はまたいつになるかわからないから夜中に来るように』と言われていた。


 中戸は東伯医師からの紹介状を手に、再び探偵事務所が入っているレトロビルへと足を運ぶ。

 時刻は間もなく零時になろうかというような真夜中だ。

 そんなレトロビルの中はオニオンスープの美味しそうな匂いが立ち込めている。

 この匂いの出どころは安易に想像ができた。三階にある東伯カイリ事務所に向かう途中の階段には、鼻先をくすぐる美味しそうな匂いが漂っていたからだった。


 三階に着くと扉を開けながら中戸園子は声をかける。

「こんばんは……中戸です」

 声は元々小さいのか? いや、そうではない。

 夜中だから配慮しているのだ……おそらく。


「あ。ホンマに来たんや」

 目を丸くした北堂が彼女を出迎えた。

「え? だって、北堂さんが来た方がいいって言ったじゃないですか」

 今朝のカイリではないが、中戸も北堂には呆れてしまう。

「冗談、冗談。待ってたんやで?」

 入ってすぐのソファーに中戸が目をやると、昼間とはまた違う色のパジャマを着た東伯カイリがオニオンスープとハイジの白パンを食していた。

「座り。中戸さんも食べるか?」とにっかりと白い歯を見せて北堂は、ソファーへ座るように彼女を促した。


 中戸はカイリの目の前に、荷物を置いて座る。

「……私はいいです。晩ご飯は食べましたから。東伯さん、こんばんは……」

 カイリは中戸に目もくれず、食事を続けている。

「食事中にすみません」

 遠慮がちに彼女がそう声をかけても、黙食。

「中戸さん、もうちょっと待ったってな。もうすぐ食べ終わると思うから」

「はい」

 そう中戸に声をかけると、北堂はキッチンへと戻っていった。


 少し待つだけなのだが、人が食事をしている目の前に座るのは妙に居心地が悪い。

 中戸はそう思ったのだろう。

 先に履歴書と東伯先生の書いた紹介状をカバンから取り出し用意すると、ローテーブルの上に置いて待つことにした。


 それにしても、静かだ。

 ふと中戸の視線は自然に目の前の青年、東伯カイリへと注がれる。

 黙して、音をあまりたてず、行儀よく食事するカイリの姿は見惚れてしまうほどに美しい。

 長いまつ毛を伏せたカイリは、オニオンスープをのせたスープスプーンを口元へと運び、香ばしく焼けたチーズの香りをも楽しんでいるようだった。

 食事を心から堪能しているのだ。


 ここは大阪淀屋橋。

 御堂筋からほんの少し離れているし、そらに浮かぶように走る阪神高速道路からも若干距離がある。比較的、この場所は夜と土日は静かなのかもしれないなと中戸は思う。

 昼間は人通りも多くて、何だか騒がしいビジネス街にあるのに、真夜中であるということと、目の前に美しい男がお行儀よく食事をしているだけでこんなにも優雅だ。

 先ほどまでの居心地の悪さが、いつの間にか無くなっていることに彼女、中戸園子も気が付く。

 そこへ、北堂が彼女に声をかけた。


「中戸さん、紅茶でええか? 悪いな、コーヒー切らしてて」

「いえ、ありがとうございます……!」

 その上、紅茶だなんて……やはり優雅だ。と中戸の顔には書いてある。


 目の前に、素敵なティーカップで紅茶が運ばれてくると中戸の表情も華やいだ。

 夜中だからカイリさんはスープとパンだけなのかな。ときっと中戸は思いながら紅茶に砂糖を二つ入れ、スプーンで砂糖を溶かすためにカップの中をカチャカチャと混ぜ始める。

 カイリはふと食事をしていた顔を上げて、彼女にぼそりと言う。

「音、立てへん方がええ」

「え?」

「女の子が紅茶を混ぜる時に、カチャカチャ音を立てん方がええでって言ったんや」

 中戸はしまったと言わんばかりの顔をして、小さく「すみません」と言った。


 食事を終えたカイリはその場に立ち上がり、一人用のお盆にのせた済んだ食器を持って立ち上がる。

「いつき、ごちそうさま。今日のオニオンスープ、チーズを変えた? めっちゃうまかったわ!」

「おう、そうか! グリュイエールチーズとエメンタールチーズの二種類を使用したんや。玉ねぎは淡路島産やで。濃厚やったやろ?」

 満面の笑みでいつきを見るカイリは、自分の食べたお皿はキッチンまで運ぶ主義の様だ。

 今のやり取りで二人の仲の良さが伺える。


 キッチンから戻ってくるとカイリは、ローテーブルの上に出された履歴書と紹介状を手にする。

 そして、それらを封から出し、広げてしげしげと見つめ始めた。

 そして、しばらくの間を置いて、彼が唐突に口を開いた。


「中戸園子さん、二十九歳」

「はい、そうです」

「……採用」

「え……採用!? 本当ですか!」

「いいも何も……伯父さんの紹介状に、こんなに君のことが書いてあるやん。もし断ったら伯父さんのお小言が何時間に及ぶかわからへん」

「ほら」とカイリが、その紹介状を中戸にも見せる。

 そこには、前職の詳細の他にも中戸のいいところがびっちりと書いてあった。

「す、すごい……いつの間に私のことこんなに……?」


「どれどれ? わぁ! 中戸さん、駅前で困ったおばあさんがいた所へ素早く駆け寄ったって書いてあるやん。それに、拾得物を交番へも届けたんか? なになに? 電車の中で席も譲ったんかいな!」

「ええ、まあ……でも当たり前の事ですよね?」

「今時、この大阪にそんな善人おらんで!」

 何だか、警察官に褒められるとやや嬉しくもあるが変な気分になったのだろう。

 中戸は愛想笑いをしている。大阪は悪人だらけ……そんなはずはない。

 しかし、いつ、私を見ていたんだろうと不思議に思う中戸。

 そういえば、大阪に着てすぐ、おばあさんに声をかけたことも、落とし物を交番へ持っていったことも確かにある。電車の席を譲るなんて日常茶飯事だ。


 すると、カイリが履歴書と紹介状をたたみ、封筒へとなおし始めた。

 そして――顔を上げて中戸を真正面から見る。

「もうひとつ採用の理由があるとするなら、君のそういう姿勢やな。僕は、探偵業もサービス業やと思うてる。せやから、困った人に寄り添えるとか嘘がつけない姿勢って大事やと思うねん。それに……」

「それに? 何ですか?」

「見る目もありそうやし、小さい割に力ありそうやし。文武両道やねんやろ……?」

 見る目があるというのは、今朝中戸がカイリの来ていたバジャマの素材を言い当てたからに他ならない。

「はぁ……まあ」と曖昧な返事をしたが、すぐに彼女の目が見開いた――


「これから大変なこともあると思うけど、よろしく」

 まさか、カイリから握手を求められるとは思っていなかった中戸。

 思いがけず差し出された手を取る彼女は、とても嬉しそうにしていた。


「ほな、これから一杯飲みに行きますか!」

「なんで、そうなるんや!?」

「ええやないか。俺もこんな時間までここにおって、パッと行きたい気分なんや」

「……中戸さんは、大丈夫なん?」

 カイリといつきの視線が、中戸へと注がれる……

「はい! もちろんです!」

「そうと決まったら、中戸さんの歓迎会やな! 俺着替えて来るわ! カイリ、いつものところ先に行っといて!」

 そう言うと、北堂は満面の笑みで事務所を出ていった。


 この日。

 深夜、北新地にて『中戸さんの歓迎会』という名目で行われた飲み会は、朝日が昇るまで行われた。


 ビジネスマンの通勤ラッシュが始まる少し前の大阪の朝の情報番組では、天気予報の後、朝陽が東から差し込む映像に、大阪市役所前の御堂筋を歩く二人と背負われているパジャマを着た一人が映し出されていたことを三人は知らない。


 後日、大阪府警の誰ぞに「見ましたよ! また新地で飲んでたんですか?」と北堂が言われたのは言うまでもない。


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