序章 東伯カイリ探偵事務所
この場所は、いつか観た映画の一場面に似ている――
ざわつく店内には、金髪の美人を口説く男や、カウンターのマスターにビールを注文する恰幅のいい初老の男がいて、艶やかな黒人女性は小さな舞台で歌い、彼女を取り巻くように踊る男たちは笑いあっていた。
オールディーズが遠くに聞こえるアメリカンスタイルの、このバーには、今夜もそれぞれがそれぞれの時間を楽しんでいる景色が広がっている。
カウンターの中のボトル棚は天井まで届き、上にあるボトルを取るための梯子は、マスターのすぐ後ろに立てかけていた。
白髪交じりのマスターは、僕が店に来たことに気がついて笑顔を向ける。
「He's already here.(もういるよ)」
しゃがれたマスターのその声も、いつも同じだ。
事件を抱える僕が眠るとだいたい、この店に入ったところから夢が始まる。
そして僕がここへ来る目的は、もう一人の僕に会うためだった。
ピーナッツの殻がそのまま捨ててあるような油じみた床を踏みしめて、店の奥へと歩いていくと、そこには半小部屋になったテーブルが一つあり、もう一人の僕が座っている。
僕はそれを知っていて、毎回会いに来ているんだ。
もう一人の僕は、やってきた僕を見つけて頬杖をついて笑う……
「入眠、早かったんやな」とその僕は僕を見て微笑んだ。
「手伝ってくれや。今回も難解なんや」と僕は答える。
「仕方ないなぁ。ほな……朝まで謎解きを楽しみますか」
テーブルに備え付けの引き出しから、彼は一枚の紙とペンを取り出す。
そして今夜も、断片的な事実と記憶を頼りに、二人の僕は夢の中で事件の全貌を解き明かす――
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ここは、大阪淀屋橋にある『東伯カイリ探偵事務所』である。
大阪の淀屋橋界隈は、あちこちにレトロな建造物が残っていて、建造物マニアにはたまらない街だ。
そのとあるレトロな一棟の建物の中にこの事務所はあった。
アンティーク加工を施した看板のかかる、事務所の古い扉がギィと軋み音をたてて開く。
そっと顔を覗かせたのは、若い女性。
「あのぉ……」と女性が声をかけるも、事務所の中からの反応は無い。
そりゃそうだ、蚊の鳴くようなと比喩できるほどのか細い声なのだから、誰か居たとしても聞こえやしないだろう。
ここの主が今いるのか、いないのかはひとまず置いといて様子を見守ろう。
彼女は、おどおどとした様子で事務所内の様子を伺いながら二歩ほど中へと進んだ。
事務所を入ってすぐのところには、革張りのソファーの応接セットがあり、奥には窓が半分見えるが、部屋を半分隠すように応接セットのすぐ向こうには、病室のように天井から白いカーテンがぶら下がり、その向こうを窺い知ることはできない。
すると、スーパーの袋を持った警察官の制服を着た男が、女性の背後に立った。
突然、背の高い人影がゆらりと視界の隅に入った女性は「きゃぁ!」と驚き、慌ててこの場を取り繕うような言葉を口にする。
「すみません! 私、あやしい者ではありません! あ、あの……ここに、東伯カイリさんはいらっしゃいますか?」
そう尋ねる女性に、警察官は申し訳なさそうな顔をしながら返事をした。
「……依頼ですか? あいにく、大きな事件を解決したばかりで、今寝たところなんですよ」
「今寝た? あ、いえ。依頼じゃありません! 私、中戸園子といいます。この事務所で助手をするようにって言われて来たんですけど……」
「なんや。依頼じゃないんか。わ、それ東伯先生からの紹介状やないか!」
中戸と名乗った女性は彼に何度も頷く。
そして、その手には紹介状を持っていた。
さすがに、中戸は警察官がここに居ることに違和感を覚えたのだろう、続けてこう尋ねた。
「ところで、どうして探偵事務所に警察官がいるんですか?」
「おっ、中戸さん。ええ質問やな。俺はここの探偵カイリとは幼馴染やねん。それだけやなくて、カイリは警察の捜査協力者でもあってな、まあ、面倒をみているというか、何と言うか……せやけど、ほぼ飯作ったり、掃除したりでなぁ……」
「警察官が? 料理を?」
「そう。おかしいやろ? 俺もおかしいって上に言うてるんやけどな。全然聞いてくれへん」
中戸は、眉間にシワを寄せたまま、まだ疑問があるとでも言いたげに警察官を見上げたが、何となくこの警察官に聞いても疑問の答えは帰ってこない気がして黙した。
そんな風に考えているとはつゆしらず、警察官の彼は中戸園子に笑顔で握手を求めてきた。
場の流れで、中戸は警察官の握手を受け入れる――
「俺は、北堂いつき。よろしくやで。……あ! 中戸さんが来たということは、もしかして……俺がもう料理や掃除をしなくてもええっちゅうことやないか!? うわぁ、東伯先生Nice jobやないかー!」
何を言い出すかと思ったら、この警察官。
中戸が来たことで、どうやら今までしてきた家事を自分ではなく中戸がすると思っている様子。
中戸はパッと彼との握手を解消して、彼の想像していることを否定する。
「いやいやいや! ちょっと待ってください! 私は助手であって、家政婦じゃないですよ!」と、中戸はついに大きな声を出してしまった。
すると、白いカーテンがジャッと音をたてて勢いよく開くーー!
カーテンの向こうには天涯付きのベッド……が存在していて、中戸はその光景を見て目を丸くする。
「……えっと、ここって事務所ですよね?」
探偵事務所には似つかわしくない家具がそこにあるのだ、つい確認してしまうのが普通だろう。
彼女は、目の前の光景をどう頭の中で処理しようかと動揺していたが、そんなことはお構いなく、その天涯付きベッドに座る青年はさも不機嫌そうに口を開いた。
「うるさいんやけど」
ムスッとした様子の男性が北堂と中戸を交互に睨みつける。
ムスッとしてはいるが、アイドル並みに整った顔の青年だ。
青年の着ている紺色のパジャマが、そこいらで売っているような安物ではないと中戸は思ったのか「あのテロンとした生地は絶対にシルクだ」と呟いた。
「ごめんごめん。この子、新しい助手らしいで。ほら、東伯先生からの紹介状持ってきてる」
北堂の声が嬉しそうに弾んでいる。
反対に、青年は半ば呆れたといわんばかりの様子。
「伯父さんの、紹介? まったく……ところで、いつき。その子、家事はできへんと思うで」
「……へ?」
「見てみ。彼女の手、お前も警察官ならわかるやろ? 拳が平や。空手でもしているかのような手や。それに荒れた感じもしーひんから水仕事なんてしてない……せやな、人は殴るかもしれへんなぁ。せやけど料理をする手ではない。それに、鞄から黒帯が出てる」
その言葉を聞いて、中戸は驚き再び丸くなっていた目を見開いた。
確かに自分の持っている鞄の中には空手の道着が入っている、青年の言う事はまさしく図星だったのだ。と同時に、家事担当継続確定の北堂はガックシと肩を落としていた。
そんな北堂の顔を見て、青年はにんまりと笑みを浮かべる。
「いつき。僕、起きたら美味しいオニオンスープが飲みたいなぁ」
「はいはい。わかってるで。だから、買い物に行ってきたんやないか」
そして、ぶつぶつと文句を言いながら、北堂はキッチンへと入っていった。
青年は、中戸を見ると作った笑顔でこう言った。
「ということなんで、中戸さん。悪いんやけど14時間後にまた出直してくれる? その頃だとたぶん起きてると思うので。あ、あと君の見る目なかなかええわ。そう、このパジャマはシルクで五万円、大正解やな。さて、もう僕の頭の中はパンパンや、何も考えられへん。じゃあ、おやすみなさい……ええ夢が見られますように♪」
ポカンとする中戸をよそに、青年はカーテンを勢いよく閉めると「ふわぁぁぁ」とあくびを一つして再び眠りにつく。
「え、あっ……そんなぁ……!」
情けない声を出した中戸園子に北堂が「じゃ、十四時間後に待ってるわ」と声をかけた。
この後、14時間後に中戸は無事面談を終え、この事務所で仕事をすることが決まる。
天涯付きベッドで眠りについた青年の名は『東伯カイリ』。
この探偵事務所の主で、探偵だ。




