恋の形
私をあなたの生きる意味にして欲しい。こんな事を思ってしまう程人を好きになるなんて思ってもなかった。
あの人に出会うまでちゃんとした恋をした事がなかった。それまでは少し焦っていた。友達に彼氏が出来ると羨ましくなったし、私も彼氏が欲しいと思っていた。なのに告白されて初めて付き合った人とは一か月で別れた。友達が彼氏の話しをしているのを聞いていると人に自慢する為に大袈裟に言ってるんだろうなって思ってた。おやすみの四文字が愛おしくなるなんて私には理解出来なかった。でも今は分かる。たった四文字でも好きな人が自分の為にメッセージを送ってくれるなんて幸せ以外の感情なんて湧かない。
私がそんな風に思える人と出会ったのは半年前。出会ったって言い方は間違っている。最初は一方的に見たが正解だ。
大学二回生の時にデパートの食品売り場でバイトを始めた。私はレジでその人を初めて見たのは一週間の研修期間が終わった時だった。一人で入るのは緊張するなって思いながらバックヤードを歩いているとその人とすれ違った。何に惹かれたのか分からない。本能的に私は振り返っていた。その人の後ろ姿しか見えなかったけど、私の緊張のドキドキは別のドキドキに変わっていた。
その人の名前を知ったのは働き始めて一か月後。提出しないといけない書類があってマネージャーを探していた時の事。
「川岸さん誰か探してる?」
声を掛けてくれたのは指導係をしてくれた川上さん。
「友田マネージャーを」
「あぁ、マネージャーなら喫煙所に居たけど。私と入れ違いだったから今から行けば会えると思うよ」
その時はうわっ、喫煙所って思った。私はタバコの匂いが嫌いだ。まぁ、好きな人なんてほぼ居ないんだろうけど。待っとこうかなって思ったけど、いつ戻ってくるか分からないし、渡せば帰れる。マネージャーが喫煙所からどこへ行くかは分からない。そうなると余計に時間を食ってしまう可能性がある。それならもう渡しに行った方がいいと思って行く事にした。
室内の喫煙所は想像の五倍はタバコ臭かった。よくこんな中に居られるなって思いながらマネージャーの姿を探しているとあの人の後ろ姿が見えた。一度見ただけなのにあの人だって直ぐに分かった。ビックリするぐらい緊張した。マネージャーはその人の斜め前に居る。ちゃんと顔が見たい。でもジッと見るのは失礼だって思って横目で見ようって思ってたけど、いきなりその人が後ろを向いた。私の体温は一気に上がった。歩き方合ってる?って思うぐらい考えないと歩けない。それでも名札に書かれている三橋って文字を確認した。ミハシなのかミツハシなのか。とりあえず私はミハシさんって呼ぶ事にする。メチャクチャカッコイイ訳じゃない。それでも私はその人に惹かれた。恋愛経験がほとんどない私でもこれが人を好きになるって事なんだって直ぐに分かるぐらいドキドキしている。私は恋愛に向いていないと思っていた。でもそうじゃない。本気で好きになれる人と今まで出会ってなかっただけだ。
「ねぇ、タバコって美味しいの?」
幼馴染の涼太の家の前を通りかかったら涼太がバルコニーでタバコを吸っていたから柵越しに聞いた。
「いきなりなに?」
「タバコって美味しいのかなって思って」
「答えになってない答えだな。でも、タバコとか吸うもんじゃないよ」
「そう思うのに吸うんだ?」
「話し長くなりそうだしこっち来いよ」
確かにちょっと立ち話って感じじゃ終わらなさそうだ。小さい頃から何度も来ている家だから遠慮なく入ってバルコニーにあるイスに座る。涼太の家は五人家族でもれなく全員喫煙者だからバルコニーにはお店の前でしか見た事のない様な足つきの灰皿とそれを囲む様に家族全員分のイスが用意されている。
「ってか結菜、タバコの匂いこの世で一番嫌いだろ?」
「そこまで大袈裟じゃないよ。おじちゃんもおばちゃんも私が小っちゃい時から吸ってたんだからどっちかって言うと慣れてるぐらいだよ」
正しくは大人になるにつれて我慢できるぐらいには変化しただけど、ここはそう言っておく。
「でも吸おうと思った事はないだろ?」
「それはね」
「好きな奴でも出来た?」
「好きって言うよりは気になるぐらい」
なんで分かるの?なんて驚いたりはしない。逆に分かってくれなかったら驚くぐらいだ。
「どんな奴?」
「デパートで働いてる人で歳は多分四十前。で、ちょっと丸顔でいい雰囲気の人」
「なにそれ?なんかボヤっとしてね?」
「ちゃんと顔見た事ないから」
「あれか。ちょっとすれ違って気になってるパターンか」
「そう。そのパターン」
「で、そいつがタバコを吸ってると」
「正解」
ここまで分かってくれるって楽だなって思うけど、それと同時に隠し事出来ないなって気持ちにもなる。まぁ、涼太に隠す事なんてよっぽどじゃないとないからいいかって自己解決する。
「喫煙所行ったら会えるかなって」
ミハシさんはどこで働いてるんだろうと思って何度かバイト前に売り場を歩いたけど、見つける事が出来なかった。もう会えるのは喫煙所しかないって思ったけど、タバコを吸うのはなって抵抗もあった。そんな事を考えてたから涼太がタバコを吸っている姿を見てつい声を掛けてしまった。
「結菜はさ、そいつと会いたいだけなのかそいつが吸ってるから自分も吸ってみたいのかどっち?」
「とりあえずそいつって呼ぶの止めてよ」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ」
「ミハシさん、もしくはミツハシさん」
「そっからなのな」
「そう。数字の三にブリッジの橋で三橋って書く事は知ってるけど、読み方は分かんない」
「じゃあ短い方でミハシさんな。で、そのミハシさんと会いたいだけなのかミハシさんが吸うから結菜も吸いたいのかどっち?」
「とりあえず会いたいが最優先」
「って事はあれだな?ちゃんと顔見たら思ってた程じゃないって事もありえんのか?」
「それはないとは言い切れないけど、多分ない」
「なにそれ?運命ってやつ?」
なんとなく分かってくれるんだろうなって気持ちはあったけど、私自身分かって欲しいって思ってた気持ちがどういうものかは分かってなかった。それが運命って言葉を聞いて、あぁ、そうか。これが運命なのかって言葉に出来なかった気持ちが形になった気がした。
「ちなみに涼太は彼女がタバコ吸ってたら嬉しい?」
今、涼太が付き合ってるのは私の友達。だから彼女が居ると知っててもこうやって気軽に話し掛ける事が出来る。いくら幼馴染とは言え、面識のない彼女だったらさすがにちょっとは遠慮する。
「いや、俺はどっちでもいいかも。吸ってない方がイメージはいいよなって思うけど、自分が吸ってるのに相手に吸わないで欲しいって言うのは違うって思うし、吸ってたら吸ってたで気軽に吸いに行けるからいいなって思う。でも間違いなく言えんのは喫煙所コミュニティは絶対にあるって事」
「肩身が狭い者同士強い絆で結ばれる的な?」
「うーん、それもあるけど、喫煙所にいるメンツってほとんど同じで、タバコ吸ってる時ってなんか開放的な気分になるから仲良くもないのについ話し掛けたりするんだよな」
「そんなの聞いたら私も吸いたくなるじゃん」
「でも不味いぜ?」
タバコを吸ってる人って皆美味しそうに吸ってるからその言葉は意外だった。実際涼太もビールのCMでメチャクチャ美味しそうに飲んでる人ばりに美味しそうに吸っている。
「不味いのに吸ってるの?」
そう言えば私は最初に涼太にタバコは美味しいのか?と話し掛けた。ようやくその答えが返って来た。
「今は美味いって思ってるけど、初めて吸った時はなんでこんな不味いもん親父もお袋も吸ってんだよって思ったからな」
「不味いから美味しくなるまでの間に止めようと思った事はないの?」
「親父にこの美味さが分からないなんて子供だなって言われたからもう意地だったな」
「変な意地」
「でもさ、結菜もミハシさんに絶対に会えるって分かってたら意地でも吸うだろ?」
「それはそうかも」
「って事で一本吸ってみる?」
一度試してみようかなと手を伸ばした所でベチンという音が聞こえ、その音の後に涼太の痛てぇって声が聞こえた。
「あんた結菜ちゃんになんて事させようとしてるの」
バルコニーに続いてるリビングから出て来たのは涼太のお母さんだった。私は小さい頃からずっとおばちゃんって呼んでいる。どうやらそのおばちゃんが涼太の頭を叩いた様だ。音からして結構痛そうな感じだったけど、いつもの事なのか涼太は口では痛いって言ったけど、今は平然とした顔をしている。
「ちげーよ。結菜がタバコって美味いのか?って聞いて来たからじゃあ一本吸ってみる?って聞いたんだよ」
「えっ、結菜ちゃん好きな人でも出来た?」
おばちゃんがタバコに火を点けながら聞いて来た。一口吸って煙を吐いた顔は誰が見ても美味しそうに見える。そして私がタバコを吸いたいって言ったら簡単に好きな人が出来たってバレるんだなって笑った。笑ったのを肯定と捉えられて
「好きな人がタバコ吸ってたら吸いたくなる気持ち分かるわ」
と言われた。
「俺には分かんねぇけど」
「それは男と女の違い」
「だとしてもよく分かんねぇ」
「もし、涼太がタバコ吸ってなかったとして、キレイな年上の人を好きになってその人がタバコを吸ってたらカッコいいな。自分も吸ってみようかなって思わない?」
涼太のタイプは小柄な可愛い顔をした子。タバコが似合わない様な子。だからこういう例えを使った。
「それは思うかも。俺が吸ってなかったら百パー思う。ってかお袋も気持ち分かんなら俺叩かれ損じゃね?」
「気持ちは分かるけど、吸わせるのは違うでしょ」
タバコを美味しいと思っていてもタバコは吸う物ではないと言う。そうなればタバコって一体どんな味がするんだろうって余計に気になって来る。
「じゃあ電子タバコは?まだマシだろ」
「相手の人はどっちのタバコ?」
電子タバコとそうじゃないタバコで何の違いがあるんだろうって首を傾げる。そんな事考えた事なかったし、この前はミハシさんは吸い終わって出て行く所だった。だからミハシさんがどんなタバコを吸ってるかは知らなかった。
「知ってるのはタバコを吸ってるって事だけだけど、重要な事なの?」
おばちゃんとは歳が離れた友達って感じだから敬語は使わない。
「もしも相手が紙巻タバコを吸っていたとして結菜ちゃんが電子だったらちょっとライター貸してって言われる可能性がなくなるでしょ?」
「いや、ライターないとかありえないだろ」
「意外とあるでしょ。持っていても火が点かないとかカバンに入れっぱなしでタバコだけ持って来たとか」
「あー、まぁ、出すの面倒だから貸しては俺もあるな」
「とにかく誰かにライターを借りるって事はあるの。涼太、ちょっとお茶入れて来て」
「俺が?」
「結菜ちゃんには頼めないでしょ」
この流れはきっと女同士の話しをしようとしている。涼太もそれに気付かない程ニブくないから、文句を言いながらも家の中に入って行った。
「私はタバコ吸いなよとは言わないけど、タバコがきっかけで恋が始まる事はあるって事だけは言っておく」
そう言われて何も察しない程、私もニブくはない。
「もしかして?」
「そう。もしかして。お父さんとは喫煙所で出会ったの。ライター貸してって言われて貸したライターが旅先のホテルで貰ったライターで、俺もここ言った事ありますって話しが弾んで今に至るって訳」
「そうだったんだ。そんなきっかけもあるのか」
「だから万が一の時の為に吸わなくてもライターは持っていても損はないよ。何がきっかけになるなんて分かんないんだから。可能性は多い方がいいでしょ?」
「でも吸わないのにライター持ってるって変じゃない?」
「ライターなんてタバコを吸う為だけの物じゃないから大丈夫」
それもそうか。理由なんていくらでも作れる。もしもライターを持っている事でミハシさんと話すきっかけが出来るなら絶対に持っておきたい。ミハシさんが電子タバコなら持っていても意味はないかもしれないけど。そしてやっぱりタバコを吸ってみたいって気持ちになる。ミハシさんが好きな味を私も知りたい。
「普通のお茶だけど」
涼太が私好みに氷をいっぱい入れたグラスを渡してくれる。冷たい飲み物というよりは氷の音が好きだった。
「ありがとう」
「結菜ちゃんまたご飯でも食べにおいで。で、また女子トークしよう」
「ありがとうございます」
「もう女子って年齢じゃねーだろ」
涼太はギリギリ私にしか聞こえない声で言った。私からしたら恋バナをする女性って年齢関係なく女の子って感じがする。
「親父とお袋の出会いって結構ロマンチックだったんだな」
おばちゃんが完全に家の中に入ったのを確認して涼太が言った。喫煙所で出会うのがロマンチックなのかは分からないけど、涼太がそう思うのなら別に私が何かを言う必要はない。とにかく喫煙所から恋が始まると知れたのは収穫だ。
やっぱり一度はタバコを吸ってみたい。そう思ってコンビニに行ったけど、種類が多過ぎて結局買えなかった。どうせ吸うのならミハシさんと同じタバコがいい。でもミハシさんが吸ってるタバコを知るには喫煙所に行くしかないからタバコは買っておくべきだ。直接だとまたおばちゃんに止められてしまうかもしれないから涼太にメッセージを送ったけど、『結菜がタバコ吸い始めたらお袋に殺される』って返って来た。涼太が教えてくれなくても私は吸うよって送ったら『ノーコメント』って返って来た。それほどまでにタバコは悪なのだろうか。それでも私はミハシさんに会える可能性を信じてタバコを吸うって決めた。
散々止められたからか二十歳を過ぎているけどタバコを買うのは悪い事をしているみたいでドキドキした。結局ネットで調べて吸いやすいと書かれていた銘柄を選んだ。どんな感じなのか分からないから最初の一本は部屋で吸う事にした。いきなり喫煙所に行って盛大にむせたりしたら恥ずかし過ぎる。
火を点ける瞬間はこれでミハシさんに近付けるってワクワクしたけど、一口吸ってそのワクワクはあまりの不味さに一瞬で消え去った。確かに涼太も不味いって言ってたけど、あんなに美味しそうに吸ってるから冗談だと思ってた。むせたりはしなかったけど、口に残る後味が気持ち悪い。もうダメだと一口しか吸っていないタバコを消して歯を磨きに行った。
「それ、頑張る方向間違ってる」
一番の友達である春陽に事の顛末を話すと呆れた様にそう言われた。
「でも、喫煙所に行くのが一番会える可能性高いんだよ?春陽も私と同じ立場ならそうしない?」
「私だったらまずどこで働いてるか探すかな」
「探したけどいなかったからタバコって考えになったの」
「もうこれ以上ないってぐらいに探した?」
「いや、そこまでは」
「同じ所で働いてるんだから絶対にどこかにはいるんだし、もっと必死になって探すべきだよ。もしくは喫煙所近くで待ち伏せするか」
「ずっと喫煙所の近くにいたら変な人って思われる。それに」
今から言うのが一番重要な所だった。
「それに?」
「もしもバッタリ会ったとしても声掛けられない」
そう。私が必死になってミハシさんを探さない理由はそこにあった。見つけたとしてどうすればいいんだろうってずっと考えていた。結婚してるかもしれない人にいきなり連絡先は聞けない。例え独身だったとしても気になってますなんてもちろん言えない。
「喫煙所でさり気なく姿を見れるのが一番幸せなんだよ」
「その人と付き合いたいとか思わないの?」
「だってまだどんな人か分かんないし」
「どんな人か分からないのにタバコ吸おうとしてるってよっぽどじゃない?」
「その人とまた会うきっかけが欲しいだけ。会うって言うより見るって言う方が正しいかもだけど。会えないままずっと気になるより会って自分の気持ちをちゃんと知った方がいいでしょ?あー、話してたら会いたくてしょうがなくなってきた」
日々、ミハシさんへの想いを募らせていたけど、口にした事で気持ちが抑えきれなくなってきた。
「ってか結菜がここまで人の事気にするの初めてじゃない?」
「そうなんだよね」
「私、今まで結菜って人を好きにならないんだと思ってた」
「私も自分でそう思ってた。ってか好きってもっと軽い物だと思ってた」
「外で彼氏が彼女の頭撫でてるのとか見た時すごい顔しかめてたもんね」
「だって外であんな事するなんてありえなくない?見てるこっちが恥ずかしいんだけど。そんなに仲がいいの見せつけたいの?って思う」
正直、今まで手を繋ぐ事すらよく人前で出来るなって思ってた。でも、好きで堪らない相手が直ぐ近くに居たらそうなっても不思議じゃないんだなって今なら思える。
「あれは見せつけてるんじゃなくて好きが溢れるとああなるの。もう自分たちの世界に入ってるから周りなんか気にならないし、気にしない。もしも結菜が気になってる人がそういうタイプだったら受け入れられる?」
絶対にそんなタイプじゃないって思うけど、そうやって言い切れる程ミハシさんの事を知ってる訳じゃない。でも
「それはなしではないかもしれない」
って結論になった。ちょっと想像したら案外悪くないって思ってしまった。
「元彼の時はありえないぐらいの嫌悪感示してたのに」
一か月しか付き合っていない元彼。別れた理由はスキンシップが多過ぎるから。いきなり頬に触れられた時はゾクッとした。雰囲気のある所だったら分かるけど、普通に買い物をしている時だったから思わず後ずさりしてしまった。
「やっぱり見た目って大事なんだね」
「別に見た目が好きな訳じゃないよ」
「見た目が好きじゃなかったら一目惚れしないでしょ」
「雰囲気がメッチャいいの。思わず振り向いちゃう感じ。もう後ろ姿すらいいと思える」
「それって見た目が好きって事じゃないの?」
「雰囲気って見た目に入る?」
「辞書で調べたら意味は違うだろうけど、恋愛においてはイコールだよ」
恋愛においてはイコール。恋愛になると言葉の意味さえ変わってしまう。恋をするってとてつもないパワーなんだ。そりゃ愛と平和って叫ばれる訳だ。
「結菜がそこまで言う人なんてどんな人か見てみたいな」
「私もまた見たい。ってか会いたい。出来るなら話してみたい」
何の接点もない人と知り合いになってそこから関係が進むってどれぐらいの確率だろうか。まだ私はミハシさんとすれ違っただけ。向こうは私の存在を知らない。まだ私は恋の入り口の何百メートルも前に居る感じだ。
あんなに不味かったタバコも一箱吸い切ると慣れて来て、何なら吸いたいと思う様になって来た。これならもういいだろうと遂に私は喫煙所デビューをする事にした。
前にミハシさんを見たのは土曜日の夕方。忙しいなら休憩時間がズレる事も多いだろうけど、大体は似たような時間だろう。ってかそうであって欲しい。そう思いながらドアを開けた。ここの喫煙所は完全に外から見えない様になっている。窓の一つでもついていたらミハシさんが居るか確認出来るし、こんなにもドキドキしなくて済むのにって思いながら中に入る。本当は中を見回してミハシさんを探したいけど、そんなあからさまな事は出来ない。喫煙所は私の部屋と同じぐらいだから六畳ぐらい。ここにミハシさんが居ればさすがに視界には入るはずだ。そう思ってるのに私の視界はビックリするぐらい狭くなっている。ミハシさんの姿を見たら心臓が止まってしまうと思ってるみたいだ。会いたいけど、会いたくない。そんな気持ちが視界の狭さになって表れてるのかもしれない。
ミハシさんの姿を見た訳でもないし、会えると決まった訳でもないのに緊張してタバコを持つ手が少し震える。これは恋なのかそれとも別の緊張なのか。最初はあんなに不味いと思っていたのに今はタバコの味がしない。あぁ、ダメだ。もう頭の中がミハシさん以外入る余地がなくなってる。挙動不審にならない様に平静を装ってスマホを見る。
さすがにミハシさんが来るまで喫煙所に居られる訳じゃないからタバコは一本だけ。最後に勇気を振り絞って室内を見回したけど、ミハシさんの姿はなかった。まぁ、そんなに上手くはいかないよなって喫煙所を出ようとドアに手を掛けたら外から誰かがドアノブを回す気配があった。あっ、て思うのと扉が開くのが同時だった。なんとかぶつからない様に避けたけど、入って来ようとしている人は私に気付く様子もなく思いっきりドアを開けた。
「おっ、ビックリした。ゴメン」
ようやく私の存在に気付き驚きの声を上げた。でも、それ以上に私は驚いていた。入って来たのはミハシさんだった。遠目で見られるだけで幸せだと思っていたのにまさかこんな間近で見れるなんて。一瞬で体温が上がる。そして何故か分からないけど、泣きそうになる。私はミハシさんが好き。頭で考えるよりも身体がそう感じていた。細胞単位でそう感じていた。これが好きって感情なら私は初めて人を好きになった。
私が固まっている間にミハシさんは奥へと入って行った。ほんの一瞬の出来事だったのに私は熱に浮かされていた。
『私はミハシさんが好き』そう春陽にメッセージを送ると『本人に言いなよ』って返って来た。私の気持ちをミハシさんに伝える時なんて来るのだろうか。まだ顔と声しか知らない。それでも自信を持って好きって言える。もしもミハシさんの性格が最悪だったらって考えた事がある。それでも受け入れられるだろうなって思った。キレイ事なんだろうけど、実際に目にした訳じゃないから言えるって言われるんだろうけど、今はそう思うんだからしょうがない。
前までは嫌なお客さんもいるし、ミスしないか緊張するしでバイトに行く足は重かったけど、今はそれ以上にミハシさんに会えるかもしれないって期待の方が大きい。好きな人がいるって楽しい。会えないと寂しいって言っている人の気持ちなんて分からなかったけど、今なら分かる。一目見るだけで幸せな気持ちになる。この気持ちはテレビで好きな芸能人を見る時に似ている。好きなアイドルグループの一番好きな人を目で追う感覚。アップで映ったり、思わぬ所で画面の端に映っているのを見つける幸せ。ミハシさんを見ると胸がギュッとなるけど、感覚的には同じだ。ただ見ているだけで幸せって感覚も私には理解出来なかったけど、今なら痛いぐらいに分かる。
一回会ってからそれまで見かけなかったのが嘘みたいにミハシさんを見かける様になった。と言っても私のバイトは多くて週四回。その内一日に見かけるって感じ。見かけるのはいつも喫煙所か喫煙所までの道のりだから私がタバコを吸い始めたのは正解って事になる。吸い始めなかったら私はまだミハシさんを一回見ただけで終わってたかもしれない。
本気で人を好きになってこういう事って本当にあるんだって知った事が三つある。まずは一瞬で体温が上がる事。本当に顔が真っ赤になってるんじゃないかって思うぐらいに熱くなる。二つ目は鼓動が速くなる事。少女マンガにあるドキドキって表現は物語を盛り上げる為に使われていると思っていたけど、違った。好きな人を見ると本当にドキドキするし、胸がギュッと締め付けられる。三つ目は好きな人の姿を見ると泣きそうになる事。これは自分でも理由が分からない。見ているだけが悲しいのか好きすぎて堪らないのか。もうこんな気持ちになるなら思い切って話し掛けてみよう。そう思ったけど、拒絶されたら今のこの感情を失ってしまう。そう思うと一歩踏み出す事が出来なかった。
次の一歩はミハシさんが吸ってるタバコと同じタバコを吸う事。ミハシさんはどんな味が好きなんだろう。って私結構ストーカー?ただ見つめてこっそり同じタバコを吸おうとしているのって傍から見たらただのヤバイ奴なんじゃ?いや、私がこんなにも人を好きになるのが初めてだから知らなかっただけで、意外と皆そうなのかもしれない。
「あれ?川岸さんって吸う人だっけ?」
そう声を掛けて来たのはバイト仲間の二条さん。二条さんは歳が一つ上で、バイト歴も私より長い。私からしたら完全に先輩なんだけど、二条さんは私の事を友達だと思ってる。だから私も出来るだけ気楽に話そうと思ってるけど、一個上って思えないぐらい仕草も見た目も大人っぽくて何か緊張してしまう。
「最近吸い始めたんです」
前から吸ってましたって嘘をついてしまえば小さい嘘が積み重なってしまうと正直に言う事にした。正直に言う事に抵抗があったのは涼太のお母さんみたいに好きな人って連想されるのが嫌だったから。さすがに同じ所で働いている人に知られるのは嫌だし、もしかしたら二条さんもって可能性もある。
「色々ストレス溜まるもんね」
そっちにいってくれて良かった。そうですねって合わせておく。
「でも売り場出る前には吸わない様にした方がいいよ」
「なんでですか?」
「昔、従業員がタバコ臭いってクレームあったんだって」
「あっ、だからここのドアの前に消臭スプレー置いてるんですね」
「そういう事。でも皆、タバコを吸うのは個人の自由だって言って無視してるんだけどね。それでもしょうもない事でクレーム入れられるの嫌でしょ?」
「それはそうですね。気を付けます」
二条さんがスマホで時間を確認して
「ヤバっ、私行くね。お疲れ」
と慌てて出て行った。私も帰ろうかなって思ってタバコの火を消した途端、ドアが開いてミハシさんが入って来た。二条さんと話していなかったら私はもう少し早くここを出ていた。とんでもない幸運を二条さんはもたらしてくれた。このチャンスを逃してはいけないと二本目のタバコに火を点けた。この喫煙所は奥に座って吸えるスペース、手前が立って吸うスペースになっている。どうかミハシさんの知り合いが奥に座っていません様に。ミハシさんが私の近くに来てくれます様にって願っていたら願いが届いたのかは分からないけど、ミハシさんは私の斜め前に立った。一瞬で体温が上がって体が固まる。もう自分で自分をコントロール出来なくなる。見ているとバレない様にミハシさんが取り出したタバコを見る。受験勉強の時よりも必死にそのパッケージを頭に叩き込む。
「灰、落ちるよ」
その言葉が私に掛けられていると気付くのに時間が掛かった。ミハシさんが私の前に移動して私のタバコを指さしてもう一度同じ事を言われてようやく気付いた。
「あっ、すいません」
慌てて灰皿に灰を落とす。頭の中は大パニックだった。
「深刻な考え事?」
「いえ、単にボーっとしてただけです」
髪の毛ちゃんとしてたっけ?化粧崩れてないかな?って心配になる。でも例え乱れていたとしても今更どうしようもないって事に気付く。
「ミツハシさん」
ミツハシさんだった。三橋と書いてミツハシさん。そしてまた初めて知った事が一つ。誰かが呼ぶ好きな人の名前ってとんでもなく心地いい。
「ちょっとトラブったんで、戻って来て欲しいです」
三橋さんは火を点けたばかりのタバコを名残惜しそうな顔で見ながら消して
「悩みならいつでも聞くよ」
って私の顔を見て言った。今、私の顔は誰が見ても真っ赤になってると思う。顔が熱い。恋ってこんな気持ちになるんだ。なれるんだ。私は今、とんでもなく幸せだ。
帰り道、さっきの出来事を何度も脳内でリピート再生していた。何より嬉しかったのがまた話すきっかけを貰った事。もしかしたらそんな事言ったっけ?って言われる可能性もあるけど、そうだとしても話しかけるきっかけがあるという事実は変わらない。
「なにニヤケてんだよ」
その声でしまったと真顔に戻る。自分でもだらしない顔をしている自覚はあったから家が近付いて来たら気を付けないとって思ってたのに。幸せ過ぎて涼太の家の前って事に全く気付いていなかった。柵越しに涼太が身を乗り出している。その表情でこれは多分言わなくてもバレてる。それなら全部話そうって決めた。いや、聞いてもらいたいって思った。
「ミハシさんと進展あったのか?」
「ミツハシさんだった」
「そういう事な」
バルコニーで涼太が取り出したタバコを見てあって思った。
「そのタバコなんてやつ?」
「なに?三橋さんも吸ってた?」
「パッケージは同じだけど色が違う」
「あー、じゃあ画像送ってやるよ」
送られて来た画像にはコンビニで言う時の名称まで書いてあった。
「ありがとう。コンビニで必死に探さないといけないって思ってたから助かる」
「で、名前知った後は?」
「いつでも悩み聞いてくれるって」
「へー、結構進んでんじゃん」
「うん、でも次いつ会えるかは分かんないんだけど」
「なんだそれ。連絡先の交換は?」
「してない」
「それでどうやって悩み聞いてくれんだよ?」
「たまたま会った時かな」
「いつたまたま会えんだよ?」
「それは私が知りたい」
二人同時にため息を吐く。私は憂いのため息。涼太は呆れたようなため息だ。
「指輪はしてたのか?」
「してなかった」
パニック状態だったけど、そこはちゃんと確認した。
「まぁ、指輪してないだけで結婚してる可能性もあるけどな」
「それはちゃんと分かってる」
「俺は三橋さんの事結菜から聞いてるだけだから無責任な発言に聞こえるかもだけどさ、ってかそうとしか聞こえないと思うけど、三橋さんワンチャン狙ってんじゃないの?」
普段はそんなに吸わなくても大丈夫だけど、涼太が美味しそうに吸ってるのを見ていたら私も吸いたくなって来た。そう思って私も吸い始めたけど、涼太は何も言わなかった。あんなに不味いって思ってたのに三橋さんと喋るきっかけになったからかやけに美味しく感じた。
「狙ってるって?」
「結婚してるけど、誰かと関係持とうとしてる的な」
「そんなんじゃないといいな」
「そんなんじゃないって言い切らないのな」
「言い切りたいけど、言い切れる程三橋さんの事知らないから。でもそんなんじゃないよ」
「結局言うのな」
「好きになった人の事を最初から疑いの目で見るの嫌でしょ?」
「それはそうかもな」
「そこは否定しないんだ?」
「だって自分の好きな人を何も知らない奴に否定されんの嫌だろ?」
「さっきはあんな事言ったのに」
涼太の言った事は可能性としてはあるからムカついたりはしなかったけど、否定的じゃない言葉の方がやっぱりいい。
「思った事を言っただけで別に否定したい訳じゃねーし。でも暴走すんなよ」
「それは……」
続く言葉が出て来なかった。大丈夫って言い切れないし、分からないっていうのも頼りない。もっと盲目に三橋さんはそんな人じゃないって言うべきだろうか。でも、そう言わない事で私はギリギリ理性を保てている気もする。
「涼太は本気で人を好きになった事ある?」
「本気って言うのは俺基準でいい?」
「いいよ」
人によって、性別によって本気の感じ方は違って当然だ。
「今だったら莉奈が居ればそれだけでいいって思う。それが俺の本気」
その人が居ればそれだけでいいって本当に真っ直ぐで温かい気持ちだと思う。
「私はさ、三橋さんで人を好きになるって気持ちを知った。今までは他の人の本気をバカにしてたし、冷ややかな目で見てた」
別にここまで言う必要はないんだけど、気持ちが抑えきれなくなって言ってしまった。
「一生一緒に居ようとかサムいって思ってた?」
「それは結婚を考えるならアリな考えだと思う。ただ一緒に居られるだけでいいとかおはようってメッセージだけでその日一日幸せになれるとか全く理解出来なかった」
「今は理解出来んだ?」
「うん、一緒に居られてメッセージを送ってもらえるって考えただけで幸せな気持ちになれる」
「良かったな」
「なにが?」
「そういう気持ちを持てて」
「良かったの?」
「そういう気持ちを持てるって幸せだろ?」
「言われてみればそうかも」
バイトに行くのもここに三橋さんが居るかもって思うだけで幸せになる。居なかったらなんて考えない。三橋さんに会いたい。会えるかもしれない。そう考えただけで胸がギュッとなる。少女マンガみたいな恋って本当にあるんだって何回も思った。
「好きになるって抑えがきかないのは分かってるけど、一個だけ忠告」
涼太があまりにも真剣な顔をしたから思わず姿勢を正していた。
「もう相当深い所までいってるかもしれないけど、ちゃんと引き返せる気持ちの間に三橋さんの事知っとけよ」
「それは結婚してるかって事?」
「一番はそこ。もう後に引き返せないぐらいになったら結菜だけの問題じゃなくなるからな。周りの人を巻き込む事態だけは避けろよ」
確かにそうだ。何も知らないでどんどん三橋さんへの気持ちが強くなってどうにもならないぐらいになったら、例え相手が居たとしてもどんな行動に出るかなんて自分でも分からない。新しい気持ちを知っていっている途中だから今後の気持ちなんて分かるはずもなかった。
三橋さんを好きになってから読む少女マンガは共感の嵐だった。前まではサラッと読んでいたけど、今は一ページをじっくりと味わいながら読んでいる。自分の知らない気持ちに主人公がなっていたりすると私もこんな気持ちになるのかな?なんて考えたりしてしまう。まさか二十歳を過ぎてからこんな気持ちになるなんて思ってもなかった。今なら友達と恋バナだって楽しく出来る。
浮かれる一方、涼太の言葉がずっと頭にあった。涼太があそこまで言うって私にその気配があるって事だと思う。ってか、絶対に大丈夫って言い切れない時点であるって事になる。無理かもしれないけど、一旦この気持ちは置いておこう。そして三橋さんの事をちゃんと知ろう。
一歩進んだら次の一歩までは早かった。珍しく喫煙所じゃなくてバックヤードで会った。
「悩みは解決した?」
あまりにも普通に話し掛けられたからビックリした。そして突然過ぎて言葉が出て来なかった。
「いや、別に」
もっと明るく「悩んでなんてなかったですよ」とか真面目な顔で「あなたの事で悩んでます」なんて言えたらいいのに。いや、真面目な顔であなたの事で悩んでますは痛すぎか。
「こっちに歩いてるって事はもう上がる時間?」
「そうです」
「じゃあ一服しに行こうか」
えっ?って戸惑っている内に三橋さんは歩き出す。私ついて行っていいんだよね?って思ってると三橋さんが振り向いた。その目はおいでって誘われてる感じがして、私は飼い主に呼ばれた犬みたいに三橋さんの元へと急いだ。
「あっ、私タバコ持ってない」
喫煙所に着いてさぁ吸おうってタイミングでまだ着替える前でタバコを持っていないって事に気付いた。
「俺のあるから大丈夫」
はいって差し出されたけど、直ぐに手を伸ばす事が出来なかった。涼太に教えてもらったからいつでも三橋さんと同じ味が吸えると会えなくて寂しくなった時に吸おうってまだ買っていなかった。それがまさか本人から貰える展開になるなんて。
「これ嫌い?」
「分からないです」
「じゃあ一回試してみなよ」
「ありがとうございます」
自分のタバコに火を点けた後に私にも火を向けて来たから慌ててタバコをくわえる。三橋さんとの距離が近くて、全力疾走した後みたいに鼓動が速くなる。あれだけ同じタバコを吸いたいと思っていたのにあまりにも緊張してもったいない事に全く味がしなかった。ギリギリの所で手の震えが抑えられているのが幸いだ。
「美味い?」
「味しないです」
嘘をついた所で何にもならないから正直に答える。
「なに?緊張してる?」
「はい」
「一人暮らし?」
「実家です」
聞かれるままに答えてるけど、話しの流れおかしくない?って状況が理解出来ずにいた。
「晩飯は家で食べる?」
「はい」
「じゃあ今日も飯はある訳だ」
「そうですね」
「ならお茶にしとくか」
「はい。いや、えっ?」
えっ、これってご飯なかったらご飯に誘ってもらえた?いや、そもそもどういう状況?周りに聞いてる人いないよね?って頭の中が大パニックになる。
「俺ももう上がりなんだよね」
「そうなんですね」
「もう行くしかないよね」
そうなんですか?って言いそうになったけど、ここは素直に頷いた方がいいと少しだけ残っていた冷静さで判断する。
「そうですね」
三橋さんはそう来なくっちゃみたいな顔をした。その顔を見た瞬間、胸がギュッとなる。その顔を見せてくれてありがとうって気持ちになる。
「結構強引に誘ったけど、時間平気?」
「大丈夫です」
デパートの近くは誰かに見られるかもって三橋さんの車で少し離れた所へ行った。一緒に車乗ってるの見られる方がまずくない?って思ったけど、三橋さんが気にしてないみたいだからいいかって思った。それに車にはちゃんとちょっと離れた所で乗せてもらった。お父さん以外の男の人の車に乗せてもらうのは初めてで大人って感じだなって嬉しくなった。
「吸ってくれていいよ」
三橋さんが灰皿を指さした。
「今は大丈夫です」
「今更だけど名前は?」
聞かれて私は一方的に三橋さんの名前を知ってるだけなんだって思い出す。
「川岸結菜です」
「ここ最近見かける様になった気がするんだけど前から居た?」
「いえ、吸い始めて日が浅いんで」
「吸い始めたきっかけは?」
あなたです。って言えたらいいけど、さすがにそんな勇気はないし、三橋さんの事をほとんど知らないのに言えるはずもない。
「もしかして俺だったりして」
明らかに冗談って分かる口調で言ったからいくらでも誤魔化せた。さっきそんな勇気はないって思ったのが嘘みたいに
「そうです」
と答えていた。本能が今行けって言ってる感じがしての言葉だった。このチャンスを逃してはいけない。そんな気持ちになっていた。結婚してるか大事な事を確かめていない。知らないといけないのに知りたくないと思った。もしも結婚していたら私の好意も行為もルール違反って事になる。何も知らずにいたい。ただこの気持ちを持ち続けたい。誰かを傷つける事になるかもしれない。でも結婚してる人を好きになってはいけないって法律で決まってる訳じゃない。人としては最低だけど膨らみ続ける好きって気持ちを抑えるのは難しい。
「えっと」
私の発言が本気か冗談か分からないみたいで三橋さんは戸惑った様子を見せた。
「本気です」
もう後には退けない。退く時が来るとしたら三橋さんに拒絶された時だ。
「今日はお茶でいい?」
今日はって事は次があるって事だ。まずは第一関門突破だ。
「はい」
春陽には努力する方向間違ってるって言われたけど、ちゃんと合ってた。三橋さんをよく見かける様になった時もそう思ったけど、今はもっと強くそう思う。
知り合いに見られたくなくて最寄り駅の一つ前まで送ってもらった。
「じゃあまた」
またって言葉に思わずニヤケてしまう。
「ありがとうございました」
三橋さんの車が見えなくなるまで立っていた。今までの時間は夢だったのかな?って思うぐらい頭も身体もフワフワしている。それでも記憶はちゃんとある。三橋さんは正弥って名前で三十七歳。紳士服売り場で働いている。私が三橋さんを探してデパートを回った時、場違いだと思って紳士服売り場には行かなかった。それが間違っていた。どこを探してもいないんだからその可能性に行きつくべきだった。でも、最終的に今があるんだからそれでいい。
三橋さんは友達に写真を見せると優しそうだねって言われるタイプ。カッコイイねとは言われない。デパートの規定で短く揃えられた髪にタレ目気味の目。清潔さと優しさが表れているのがいいなって思う。温かい感じがして私まで温かくなる。
三橋さんが私に質問してそれに答えて私も同じ質問をするって流れだった。彼氏いる?って聞かれなかったのはいないと思われてるのかいても関係ないと思っているのか。もしくはそういう対象として見られていないのか。でも、対象外の私と二人でお茶に行くっていうのはないと思う。そんなの時間もお金も無駄だ。それに連絡先も交換した。ここまで来たら三橋さんもって考えてもいいと思う。
涼太の家の前を通ったけど、庭には誰の姿もなかった。今日の事を話したいって気持ちはあるけど、結婚してるか聞いてないって事は言えない。きっと涼太の事だから私の表情で直ぐにバレる。だから居なくて良かったって気持ちもある。とりあえず今日は帰って三橋さんにお礼のメッセージを送る事にする。
帰ってご飯を食べてお風呂に入って頭と心を落ち着かせてからスマホを手に取った。本当に嬉しい事に三橋さんから先にメッセージが届いていた。『無事に帰れた?』たった一行のシンプルなメッセージだったけど、一文字一文字が愛おしくて何回も読んだ。手書きの文字じゃないのにそこから温かさが伝わって来る。『今日はありがとうございました。帰って後は寝るだけです』可愛げも面白味もない文章にこれでいいんだろうかって気持ちが強くなる。だからと言って可愛げのある返事の仕方なんて分からないんだけど。
三橋さんにこれからも些細な事でメッセージを送りたいし、送ってもらいたい。それならちゃんと素の自分で居るべきだと覚悟を決めて送信ボタンを押した。
返事が返って来るまでまた私は一行を何度も読んだ。本当に恋をするとバカみたいな行動をしてしまう。これって結構共感してもらえる事なんだろうか。前までの私だったら絶対に考えられなかった。人を好きになるって簡単に自分を変えてしまう事なんだ。なんて考えてたら三橋さんから返事が来た。トーク画面を開いていたから直ぐに既読がついてしまう。返事を待っていたみたいになってしまったけど、実際そうだし、三橋さんにもそう思ってもらえたら私の気持ちが伝わっていいなって思った。『今度は飯でも』ってシンプルな文章に『楽しみにしています』って私もシンプルに返す。日にちは決まっていないけど、その日が来るまで頑張ろうって思える。でも楽しみにすると同時に三橋さんの事しか考えられなくなって来た。幸せな事なんだけど、浮かれ過ぎて自分で自分が恥ずかしくなって来る。やっぱりこういう時は人に話しを聞いてもらうに限る。
「なんか聞いててこっちが恥ずかしくなって来たんだけど」
次の日、授業終わりに春陽を大学近くのカフェに呼び出していた。確かに春陽は好きで堪らないって気持ちを出すタイプじゃないけど、それでも同じテンション感で話しを聞いてもらえると思ってた。でも想像に反して春陽はちょっと引いた反応だった。
「でもさ、その三橋さんって人とリアルに結婚とか考えられるの?」
「いきなりそこいく?」
「だって相手、四十前でしょ?四十で子供産まれたら子供が成人した時還暦だよ?ちゃんと考えた方が良くない?」
正直、ただ浮かれていたい。でもそういう訳にもいかない。いや、いかない訳でもないか。ただ浮かれてるのもアリだ。その後の事はその時に考えればいい。せっかくこんな気持ちになれたんだから今はこの気持ちを楽しみたい。これが結婚と恋愛は違うってやつなのかもしれない。
「別に付き合ってる訳じゃないんだし今は考えなくてもいいかな。それに別に還暦で子供が二十歳って全然アリだと思うし。そういう春陽はちゃんと考えてるの?」
「考えてない」
「なんだ。人の事言えないじゃん」
「年上の人を好きになったらちゃんと考えるよ」
「好きって感情だけじゃダメなの?」
「ダメではないけど、ちゃんと考えた方がいい事もあるよって話し。でも最終、結菜がいいならいいと思う」
「誰かに何かを言われた所で止まるものでもないしね」
「余計な事言ってゴメン。今から存分に話したいだけ話して」
そう言われてもさっきの春陽の顔を思い出すと少し控えめにしようって気持ちになる。
「あー、ダメだ」
人を本気で好きになって知った事四つ目。好きな人の事を話してるだけで好きって気持ちがどんどん膨れて堪らなくなる。今まで毎日でも会いたいって聞くと毎日は聞くだけでしんどいって思ってたけど、これも今なら分かる。その人の事を話したら姿が浮かんで実物に会いたくなる。
「最初から暴走してたのに何を今更」
「だって春陽、引いてたから」
「ビックリはしたけど、引いてないから安心して喋っていいよ」
どうやら顔に出てたのは無自覚の様だ。どんなに気を付けても喋ったら感情は高ぶるし、抑えが効かなくなってくる。それが分かった今、もう春陽の言葉に甘えるしかなかった。
「結局好きになるのに年齢は関係ないって私は思うよ」
「さっきはあんな事言ってたのに」
「後で気付くよりもさきにこういう考え方もあるんだって知っといた方がいいでしょ?」
「まぁ、それは確かに」
「にしても結菜がそこまで人を好きになるなんてね。結局、結菜が一番に結婚しそうとは思ってたけど」
「そんな事思ってたんだ」
「意外とそういう人の方が結婚早いんだろうなってぐらいだけど」
「恋愛経験少ない人って事?」
「そうそう。経験少ない人の方がこの人って決めるの早そうだなって。まぁ、私の考えだけどね」
「それって数少ないチャンスを逃しちゃいけないって思ってるって事なんじゃないの?この人の次なんて現れないかもしれないって焦りみたいな感じ」
現に今の私がそうだ。三橋さん以上に好きになれる人に出会える気がしない。きっとそんな事はないって言われるかもしれない。でもそれは第三者の意見であって当事者からするとそうは思えない。
「今度写真見せてね」
「感想に困ると思うよ」
「カッコ良いとかじゃなくて優しそうとかそういう雰囲気は分かるでしょ?結菜がそこまで好きになった人がどんな人なのか見てみたい」
「じゃあもしも写真撮ったら送る」
もしもその時が来るとしたらどんなタイミングだろう。やっぱり二人で出掛けた時?ってそれはそうか。デパートで会って写真撮らせて下さいはただの変人だ。周りの目もある。どうせならご飯じゃなくてどこかへ遊びに行ってそこで撮りたい。あー、もうこんな事考えるのは痛いって分かってるけど、楽しくて妄想が止まらなくなる。
「ちなみにさ、この事は」
「分かってる。誰にも言わない」
「じゃなくて聞かれたら言ってくれていいから」
「そっちなんだ」
「自分から好きな人出来たって言うより、春陽から聞いたんだけどって聞かれた方が喋りやすいから」
「そういう事ね」
恋をするってテーマパークに行った後の気持ちに似ている。楽しかった思い出を繰り返し思い出してまた行きたいって気持ちになる。今の私が正にそうだ。三橋さんとの時間を何度も脳内でリピート再生して早く会いたいなって思ってる。
三橋さんとはよく喫煙所で会う様になった。正しくは会う様にした。三橋さんにシフトを送ると休憩時間はある程度調整出来るらしく、私が行くタイミングに合わせて来てくれる。三橋さんはよく喫煙所で会う子みたいな感じで軽く話し掛けてくれるけど、周りの目があるから親しげに話したりはしない。
三橋さんの顔見知りが来たら、私はただここに居ただけですみたいな感じでそっと気配を消す。喋れなくて悲しいとは思わない。同じ場所で同じ時間を過ごせるだけで幸せだし、私以外の人と話してる三橋さんを見れるのが嬉しい。そうやって私の幸せな日々が積み重なっていった。
待ちに待った一緒にご飯に行く日は前回のお茶からちょうど一か月が経った頃に実現した。個室の居酒屋を三橋さんが予約してくれた。お酒を飲むから三橋さんも電車で来るって言ったけど、念の為に時間をずらして現地で待ち合わせた。私の方が先だったから「三橋で予約してます」って言って入ったけど、言う時にすごくドキドキした。別に自分の名前以外で入るのは初めてじゃない。それでも好きな人の名字を口にするってそれだけで嬉しくなる。
「先に食べてていいって言ったのに」
三十分後に来た三橋さんは来るなりそう言った。急いで来ましたみたいな感じが乱れた髪の毛から伝わって来てすごくいい。
「メニュー見てたら食べたいのいっぱいあったからちょっとずつ食べたいなって思いまして。ちゃんと飲み物は先にいただいてます」
「別に俺、冷えてる飯でも平気だから今度からは先に食べてなよ」
当たり前の様に今度って言ってもらえた事が嬉しい。
「でも先に食べた所で後はずっと三橋さんの食べてる姿眺めるだけになるなら待って一緒に食べた方が良くないですか?」
「食べてる俺に魅力ない?」
「いや、そういう事じゃないです。同じ時間共有しながら食べた方が楽しいって事です」
慌てて言った言葉に三橋さんは笑ってタバコに火を点けた。今時、禁煙の店多くて選択肢限られるって言ってたけど、このお店はすごく雰囲気がいい。限られた選択肢の中で一番いい所を選んでくれたのかな?って考えるだけで幸せな気持ちになる。
「吸う?」
三橋さんがタバコの箱を差し出して聞いて来た。
「それともこっち?」
そう言って三橋さんは自分が吸っていたタバコの吸い口を私の方に向けた。戸惑ったのは一瞬で私は身を乗り出して口で受け取った。ビックリする事に恥ずかしい気持ちは一切なくて幸せな気持ちで満たされていた。
「好きなの頼みなよ」
「嫌いな食べ物とかありますか?」
「ほぼない」
「ほぼってなんですか?頼んでからそれは食べられないとか言われるの嫌なんですけど」
「ミントとかタピオカとか若い子が好きそうなのが無理」
「それは味的になのか若い子の流行りに乗りたくないからなのかどっちですか?」
「味と見た目。なんでこんなの美味いって思うんだろうって思う物が好きだろ?」
それならここでは何を頼んでも大丈夫だろうとタブレットで料理を選ぶ。
「飲み物は何にしますか?」
「生。結菜ちゃんは何飲んでるの?」
さり気なく呼ばれた名前に分かりやすく嬉しさが顔に出るのが自分でも分かった。誰かが好きな人の名前を呼ぶのが心地よく感じる以上に好きな人が自分の名前を呼んでくれるってとてつもなく心地いい。
「ファジーネーブルです」
「いかにもって感じだね」
「ビールとか日本酒とか飲める方がいいですか?」
「俺が飲むのを止めないなら何でもいいよ。でもタピオカとか飲まれるのは無理」
「私が飲んでるのも無理なんですか?」
「あれは本当に見た目も無理だから」
「それは分からなくもないです。私も最初これが美味しいの?って思いましたから」
「それでも飲むんだ?」
「最終的に美味しいって思ったんで。三橋さんは好きな食べ物はなんですか?」
その質問に三橋さんは私の目をジッと見て来て、いたたまれなくなって思わず目を逸らす。一体何の視線なんだろう。
「肉」
「いかにもって感じですね」
私の言葉に三橋さんは自分のお腹を見た。
「あっ、そういう意味じゃないです」
「いかにもって言うから」
「男の人だなって事です」
「まぁ、どっちでもいかにもって感じか」
確かに三橋さんはスマートではない。でも太っているっていう程でもない。ただ将来的に危なそうな感じはする。太ってもハゲても私の三橋さんへの気持ちは変わらないのだろうか。今の自分に問いただした所でイエス以外の答えなんて出ないから無駄な事は考えない事にする。
本気で人を好きになって知った事五つ目?もう初めて知る事が多くて何個目か忘れてしまった。美味しい物を好きな人と食べるとさらに美味しく感じる事。初めて来たお店だから元々の味は分からない。それでも料理の味に幸せな感情が上乗せされて、この世にこんなに美味しい物があったんだって感動した。三橋さんの食べっぷりもいい。手料理作ったら同じ感じで食べてくれるのかな?ってまた妄想が始まってしまう。
当たり前の様に三橋さんにお会計をしてもらって、満たされたお腹と心を持って店を出た。
「まだ時間ある?」
これは友達とカラオケに行く様な流れではない。多分そういう流れだろうなって思いながら
「終電までなら」
って答える。三橋さんが初めての人になるなら私は幸せだ。
予想に反して連れて来られたのはカラオケだった。って事はなく、予想通りの流れだった。ホテルにお金を掛けるのはもったいないといつも旅行に行っても安いビジネスホテルに泊まる。狭くても設備が整っていなくても安いからって諦めがつく。でもここは値段は一緒ぐらいなのに広くて豪華だ。一つ欠点を上げるとするならお風呂が部屋から丸見えって所。そう思ってお風呂を見ていたからか
「シャワー浴びる?」
って三橋さんに聞かれた。こういう時ってどうすればいいんだろうって悩んだから三橋さんに同じ質問をした。
「俺はいいかな」
「じゃあ私も大丈夫です」
そう言うと三橋さんは私の頬に触れた。大きくて少しカサついている手はビックリするぐらい温かい。タバコの味がするキスをして、押し倒される様にベッドに寝ころぶ。
お互い好きって言った訳じゃない。それでも私は三橋さんを求めているし、三橋さんも私を求めてくれている。言葉にしなくても気持ちが通じ合っている。それってなんて幸せなんだろう。一目見れただけでその日一日が幸せになった。それが今は触れあっている。幸せ過ぎて死ぬんじゃないかってぐらいに幸せだ。
ベッドに腰かけて三橋さんがタバコを吸い始めたから横に座るとまた吸い口を向けられた。口で受け取ろうとしたけど、三橋さんが引っ張る感覚があったから口を離すと三橋さんが一口吸ってまた私に吸い口を向けて来た。これは交互に吸うパターンみたいだ。あぁ、もう本当に幸せ過ぎて溶けそうだ。そんな事を思っていたら
「俺、結婚してるんだよね」
って最高の気持ちに最悪な言葉が突きつけられた。三橋さんはそういう人だった。関係を持つ前なら諦められたと思う。でももう今となって無理だ。私は後には退けない。不倫とか愛人とかそういうのは嫌だ。関係を続けるって事は結果的にそうなるって事なんだけど、私が三橋さんと会う時、三橋さんが私と会ってる時、そんなドロッとした言葉で関係を表したくない。
「三橋さんの生きる意味を私にしてくれるならそれでいいです」
私が一番じゃなくてもいい。ずっと三橋さんの側に居られなくていい。三橋さんがしんどい時や悲しい時に一番に思い出すのが私であればいい。私が居るから明日が来るのが楽しみになる。そんな存在になりたい。もしかしたらそういう存在が一番贅沢なポジションなのかもしれない。それでも私はそれを望む。
三橋さんは返事をする代わりにタバコを消して私にキスをする。さっきよりも強い気持ちを感じた。同じタバコを吸ったのに三橋さんの味がするって思った。そうやって私がまた幸せを感じているとまたベッドに押し倒された。一瞬、終電って思ったけど、もうどうでも良かった。今は全力で三橋さんの気持ちを受け止めたい。好きって気持ちの形は人それぞれでいい。そう思いながら三橋さんの体温を感じていた。