第5話:マストアイテム「制汗スプレー」
男女別に行われた体育の授業が終わると、制汗スプレーの匂いが教室中に充満していた。
「また匂いきついって先生に怒られるからちょっと換気するよー」
隣のクラスの風紀委員の犬神さんがみんなに聞こえる声で断ってから、換気のために窓を少しだけ開けた。本当はもっと窓を開けてもよいのだろうが、風でカーテンがなびいてしまうと、向かい側の棟から着替え姿が丸見えになってしまう恐れがある。工夫して着替えることで、誰も下着姿になっているわけではないが、必要以上に警戒してしまうのが元男子すなわち今の自分たち女子なのだ。
「あっ、竜ちゃん、その制汗スプレー新作のやつ!?」
「ん、そう。ちょっと高かったけど買っちまった」
竜二も制汗スプレー愛用者の一人である。
誰かに汗臭いと言われるのは正直、耐えられない。
竜二はくさい子と言われないよう、常に身だしなみを意識していた。制汗スプレーはいつの間にか竜二達元男子の必須アイテムになっていたのである。
制汗スプレーをこんなにも使うようになったのはいつからだろう?
小学生高学年のころにはすでに身だしなみを意識していた気もするし、もしかしたら中学に入ってみんなが制汗スプレーを使いだしたのを見てからかもしれない。くわしい時期は忘れたが、身体がより大人の女性らしくなっていく第二次性徴が、竜二たち元男子の意識を確実に変えていったことは間違いなかった。
「そういえば男子ってなんで、制汗スプレーあんまり使わないんだろー?」
「そういや、制汗スプレーの匂いを何とかしなさいって叱られたん、うちらだけやったしな」
信二が言うように制汗スプレーに関して注意を受けたのは自分たち女子生徒だけだった。過度なコスメの使用は校則で禁止されているので、女子の甘くいい香りは主にこの制汗スプレーだといっても過言ではなかった。
「男子くさいのにねっ」
男子がくさいのは竜二も完全同意だ。男子こそ制汗スプレーを多用するべきと思うのだが…当の男子は8歳まで女子だったはずなのに、どういうわけか、制汗スプレーをあまり使わないらしい。
「どうせまたすぐ汗かくし…身だしなみなんて別にどうだっていいだろ?女子は元男子のくせにいちいち気にしすぎなんだよ」
「わざわざ金かけて、買う理由が全くわからねぇし!」
元女子であるはずの男子たちがそんなことを談笑しているのを偶然耳にしてしまった時、竜二はおもわず耳を疑ったほどだ。もちろん、全員が全員でないと信じたいが、全体的にみると身だしなみに無頓着な傾向があるのは事実のようで、あっちでシュッシュ、こっちでシュッシュしている竜二たち女子からすると男子は理解できない生き物なのだ。8歳の時に性転換することなく自分があのまま男子だったら、「あのようにはなっていない!」と信じてやまない竜二だった。
「ほんと!まぁ、うざい父親よりましだけど…」
竜二は父親のことが大嫌いだった。
「竜ちゃんのお父さん、過保護そうだもんねー」
「過保護つーか、とにかくいちいち、細かいんだよ。『それどこで買った?』とか『どこ行く?何時に帰る?誰と行く?』とか…おまけに超臭いし!」
正直、生理的に受け入れられない。小学生のときはむしろ好きだったはずなのに、どういうわけか最近は本当に無理だった。
「…まぁ、竜ちゃんかわいいし心配してるんだとおもうよー」
「あいつに限ってありえない」
竜二は明人の言葉を直ちに否定した。あんな父親の思考回路など全く理解できそうになかった。
「そうかなぁ?」
明人は首をかしげているが、あの匂いを嗅いだら明人でも悶絶するだろう。
とにかく、まじでうざく、一番嫌いな大人が父親だった。
あぁ、思い出したらイライラしてきた。
「そういえば竜ちゃんってバイトしてたんだっけ?」
明人が話題を変えた。
「駅前のカフェで春休みとか土日に…最近なにかとお金かかるし…」
竜二はスカートの左側についているファスナーを慣れた手つきで上げながら嘆いた。コスメに無駄に種類の多い下着や服代、町中で誘惑してくるスイーツ代などお金はかかりまくりだ。大好きな乙女ゲームだって買いたい。
お小遣いではやりくりできなくなったので、竜二はバイトを始めていたのである。
「だよねー。服もいっぱいいるしねー」
「じゃぁ、竜ちゃんは明日もバイトー?」
「ん?なんで…?」
「そろそろ夏服だしーよければ皆で服買いに行かないかなーって」
そうか。もうそんな時期か…。
親には「去年買ったのがあるでしょ?」と言われるかもしれないが、流行りの服を着たいのが高校生なのだ。それに周りの人はみんなおしゃれだ。自分だけ…去年の服…というのはあくまで竜二の主観であるが…ちょっと嫌だった。
「明日は確か、シフトもねぇし…大丈夫だな…おれも新しい服買いたい」
バイト代も入ったし、そんなに高くない服なら十分買えそうだった。竜二は今しがたはいたスカートがめくれてしまわないようウエスト部分を押さえながら、ゆっくりと体操服のジャージを脱いでいく。
少し面倒な着替え方にも感じられるがスカートをはいてからジャージを脱ぐのは別に今にはじまったことではない。それにどちらかといえば面倒なのはブラウスの方で…こちらも下着が露出してしまわないよう、言葉では説明しがたいが、一度、重ね着してから慎重に脱いでいくのだ。みんなそうしているし、いくら同性だけとはいえ、どこで誰の目があるかわからない教室なので、どうしても着替えは慎重にならざるをえなかった。
「良ちゃんも服買いたいって言ってたしー、明日10時にいつもの場所でどう?」
「ぼくも服買いに行きたいっ」
「ごめん。うちは彼に付き合うから明日はパスさせてもらうわー」
少しだけ申し訳なさそうに信二が言った。ちらっとデートだと自慢しているようにも聞こえるが…さらっとしており嫌味に聞こえないのが、信二のすごいところだ。
「じゃぁ、明日の休みにいつもの場所に10時でっ!」
「ところで竜ちゃんのバイト先ってエンジェルだよね。あそこ制服可愛いよねー」
洋服が大好きな明人が嬉しそうに言った。
「まぁ、可愛いのは…認めるけど…口調も直されるし」
周囲の大人は”女らしさ”や”男らしさ”にうるさいが、なぜか口調に関しては元女子ほど元男子は注意されない。だから竜二は一人称を”おれ”としてもそれほど咎められなかったし、よほど汚い言葉を使わない限り大目に見てもらえていた。
とはいえ、それは学校や家の中だけだ。
社会にでれば…、特に接客業ともなれば丁寧な言葉遣いを求められる。語尾にも気を付けなければならないし、一人称を”おれ”などとした日には即クビになっても文句は言えない。
もっともこれは男子でも同じことだが…。
「エンジェルの制服ってどんなのっ?」
知らないのか良太が聞いた。
「超ミニのメイド服…スカート可愛いんだよねぇー」
「ミニっ?竜二がっ?」
良太が信じられないといった表情を見せた。竜二は少し悩んでから、事実を正直に話すことにした。
「いや一応あれ、キュロットスカートだし」
…(沈黙)…
「…ヱー!?」
明人がこの世の終わりのような顔をした。
「だから、中が半ズボンみたいになってて」
だれもキュロットスカートの説明は求めていないだろうが、竜二は説明した。キュロットスカートがどういうものかは全員、性別適応特別講習で嫌というほど習っていた。
「それほんとに!?わたし絶対超ミニだと思ったんだけど」
明人のがっかりはなんとなくわかるようなわからないような気がしたが、もしあれが本当にミニスカートだったら絶対に竜二はそこをバイト先に選ばなかっただろう。万に一つにも他人に下着を見られるなんて恥ずかしくて無理すぎる。
「なんだ。やっぱりかっ。変だと思ったんだよねっ。恥ずかしがり屋の竜二がミニスカートなんてっ」
活動報告も書いています。
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