序序
1
草間はカルボナーラを待っている。
先週、幼馴染の姫咲にこのイタリアンを教えてもらい、この店のカルボナーラにしっかりハマっている。1日だけ行くのを我慢できたが、ほぼ毎日通っている状態だ。
店員さんからもさすがにこの短期間に毎日来店し同じものを注文する若者に、すこし変わった人、、のレッテルが貼られていることだろう。
草間は決してグルメではない。ハマればしばらくそればかり食べるような偏食というより変食家な一面があり
、そこし前までは親子丼にハマってあらゆるお店で親子丼を注文し姫咲に呆れられていた。
今日も昼まで仕事をした後、姫咲と出かける待ち合わせ場所にこの店を指定した。昼食にカルボナーラを食べながら彼女を待つ予定だった。姫咲と合流したら草間が師事する脚本家、作家である堂坂辰馬の自宅を訪問する予定になっていた。堂坂邸は天ヶ原市の中心から離れており草間たちの住む桜区からは電車とバスを乗り継いで1時間ほどの場所にある。
堂坂は草間が学生の頃から、作家デビューし今に至るまで世話になった人物で、なにかと草間を気にかけてくれていた。テレビドラマの脚本から、小説の執筆、講演など多忙を極める人気作家のため今日の訪問は1ヶ月前から予定されてたもので草間も彼に会うのは一年ぶりだった。
堂坂から自宅に招かれたのはメールだった、執筆中の作品について草間の学生時代の専攻科目が関係するらしく意見を聞きたいとのことだった。
姫咲も堂坂とは草間を介して面識があり、彼の小説のファンでもあるため今日も同行することになった。
草間の元へカルボナーラが運ばれてきたのとほぼ同じくして姫咲が店内に入ってきた。
すぐに草間を見つけ、手をすこし草間に向け見つけましたと合図を送りスタスタと草間の元へくるなり、
「また、食べてる」と呆れたように一言。
「ご飯は食べたの?」
「ええ、というか、朝がすこし遅かったのでお昼は大丈夫です、それよりやっぱり傘持ってきてないですね、奈由汰君の分までもってきましたよ」
「堂坂先生とは奈由汰君もしばらくぶりなんでしょう?お元気かしら、テレビで拝見することが多かったからけっこうお疲れじゃないかしら」姫咲は話題の完結を見ずにどんどん喋る。
「あ、そうだった降るんだった、今朝までは憶えてたんだけどな、ありがとう」こういう細かいところで彼女にはなかなか頭が上がらなくなっていく、、
どうだろうね。タフな1人だからあんまりかわらないんじゃないかなと後の話題には簡単な返答をするがもちろんあんまり聞いていない。
「奈由汰君は先生のご自宅は初めてじゃないんでしょう?素敵なご自宅なのかしら、私のお友達の中にも堂坂先生のファンの子がいて、つい言ってしまいそうでヒヤヒヤでしたよ」
「一度だけね、でも何年も前だし、あんまり憶えてないな、大きなお宅だったのは憶えてる」
「今日は奈由汰君に新作についての意見を聞きたいってことでしたよね?」すごいですね、と今回の訪問について姫咲が確認をする。「そうらしいんだけどね、メールで済むような気もするけど、わざわざどうしたんだろうね」草間はカルボナーラを食べながら姫咲の会話の相手をしていた。
早々に草間は食事を済ませ、食後の珈琲に手をつけた時だった。
「そういえば、面白い小説見つけたんです」
と姫咲はなにやらニヤニヤしながら、携帯を開き操作している。
大方の予想はついていた。おそらく草間の書いた本を見つけたといいだすのだろう。草間は姫咲にも自身の家族にもペンネームを教えていない。自分の本を見せたがらない。
作家になってからというもの姫咲はこうして書店にいっては草間の本を探しているようで、今日もそんなとこだろう。と草間は考えていた。
あった、あった。と姫咲は携帯の画面を草間に向ける。表情を見るとどうやら相当自信があるようだが、その携帯画面には、
〜LOVE STATION〜愛の終着
鉄人と人魚姫の物語。
Wrihting 草門由奈
これは、、声にならないとはこのことである。草間は飲み掛けの珈琲を吹きかけそうになり、その反応を見るや
「いくら書店を探しても見つけられないわけですよ、携帯小説専門ならね!恥ずかしがる気持ちはわかりますよ」
「いや、ちょっと待って」
「言いたくない、隠したくなる気持ちもわかります!誰も奈由汰君がこんな素敵なラブストーリーを書くなんて思わないし、まして女性として本を出してるなんて盲点でした!でも自信持って良いと思いますよ、私もお友達から教えてもらって読んだんですけど、若い子の中ではすごい流行ってるらしいです!共感を得ているんですよ!」
いやいやいや、どんな物語かはわからないが、タイトルからして僕が書くわけない、
「姫咲ちゃん、誤解だよ、俺じゃないよその人」明らかに動揺しているのが自分でもわかった。逆効果であった。
姫咲は目を細め、だがしっかりと口元はにやつかせながら「普段そこまで否定することなんかないのに、逆に怪しい」
もちろん草間の本ではなかったが、
草門由奈、クサカドユウナ、筆者の名前のせいだ、随分迷惑なペンネームだな。際どい。考え方が突飛な姫咲なら誤解しても仕方ない材料だった。
「たしかに、まさかラブストーリーで女性の名前でだしてたらバレるとは思いませんよね、本当に奈由汰君の本を持ってきたら、正直に認める約束でしょ?焦ってるのわかるわ」
「いや、あまりに名前がニアミスすぎてびっくりしてるんだよ、それに僕が書けると思うかい?その、ラブストーリーを、、それになんだい?鉄人と人魚姫って」
ま、堂坂先生に聞いちゃえばわかる話ですよ、と姫咲は問いただすのを諦めたが、未だ確信をもっているようだ。だが堂坂に確認するのは草間にとっても好都合だ。それが手っ取り早い。
4月も終わりにさしかかった週末の昼下がり、
窓の外に広がる青空は、なるほど、
遠い西の空にはすでに暗い雨雲が広がりつつあった。
2
男は歩き続けていた。足取りは重い。
市街から続く大きな県道、このあたりまでくれば道路沿いの店も点々として、見晴らしが良く、目を向ければ田畑が見わたせる。天ヶ原という地名がまさにしっくりくる片田舎の道だ。かれこれ2時間近く歩き続けている。
途中で止まることもなかった。通り過ぎる車の数もあきらかに減り、空気の匂いも変わった。目的地まではあともう2時間はかかるだろう、だがこの男にはそれだけの時間が必要だった。公共の乗り物は使わずに歩いたのはそれだけ時間をかけたかったからに他ならない、自身の人生を振り返り、これからやろうとしていることをすこしでも遅らせるため、目的地は男にとってのゴールではなかった。一歩一歩近づくにつれて息辛さが増していく、次第に汗ばんだ身体は芯から冷えていくのを感じていた。
怖くて仕方がない、逃げたくて仕方がない。
だが足は確実に歩みを進める。
自分の精神状態が正常ではないことも自覚していた。だが男に選択肢はなかった。一つの選択しか思いつかなかった。
ふと歩いてきた方角へ身体を向け、自身の通ってきた道路を見渡すと、西の空には雨雲が迫ってきていた。引き返すことはもうできない、急に胸の奥で寒気が増した気がした。男は鼻から大きく息を吸い込み、大きな雨雲から逃げながらも確実に分かりきった薄暗い闇へと歩をすすめた。