プロローグ
1プロローグ
部屋の外からは自動車のエンジン音。鳥の囀り、下校中なのか、ワイワイと賑やかな子供たちの笑い声や駆ける音。
内からはコーヒーメーカーがしっかり働いてる音に、壁にかけてある時計の秒針の音まで、意識すればうるさくもあるがいたって静かな部屋に彼はいた。
正午をつげる町内アナウンスがなっているのに気づき、読んでいた雑誌から時刻を確認するため時計へと視線を送る。
コーヒーを一杯飲む間の小休憩のつもりだったが、思いの外読み耽ってしまったようだ。「夢と現実のパラドックス」
昨夜も良くない夢を見たからか、無意識に読み進めていたようだ。一応科学雑誌の類に入る書籍で立派な脳科学のコーナーであったがたまに際どい研究内容が取り上げられることがあり堅すぎない感じが彼は好きで購読している。
4月も初め、世間では学生達が新年度を迎え新しい生活が始まり希望から活気を生み始め、心なしか日中の日差しも優しく明るい。新卒の社会人に関しては希望と、多少ならずの不安と怠さもあるのが正直なところだろう。
そんなこのシーズンならではの心地好い春の陽気にあたりながら彼だけはいつも通りの日常の中にいた。
コーヒーポッドにある残りをカップに継ぎ足し、すっかり煮詰まって味も色も濃くなってしまっているがかろうじでコーヒーと呼べるものを片手に書斎へと戻った。
彼は草間奈由汰24歳。
毎朝6時には起床し、シャワーを済ませたらすぐにお昼まで仕事を進めて。昼食をとるかとらないかは日によるが、予定がなければそのまま日が沈むまでパソコンに向かっていた。そんな生活を始めて2年。仕事に向かっている時だけはキーボードを叩く音だけが彼を包み外界からは遮断される。自動車のエンジン音や鳥の囀り、子供たちの笑い声や駆ける音、ましてや秒針の音など皆無である。彼は自身の集中力を高める術を自覚している。仕事を続ける上では不可欠な技術であり、そうでなければやっていけない環境がそれを向上させた。その1つが珈琲だ。季節を問わずホットコーヒーを手元におくことが第一の条件である。草間の持論だが味覚と嗅覚同時に珈琲を感じることで集中を高める作用があると思い込んでいる。二つ目はキーボード、これも持論だが自分の好みにあったタッチ音の反復リズムが集中をさらに加速させる。石炭を配られ一定のジョイント音と共に加速する蒸気機関車のように暗い集中の海へ潜っていく。
脳内で想像力膨らませ膨大な活字を紡ぎ緻密な物語を創りあげる。
彼の仕事は小説作家である。
2
人口150万人を誇る海に面した政令指定都市、「天ヶ原市」《あまがはらし》
主だった観光地もなく、一昔前までは多少名の知れた大学や施設がある程度でよくある地方都市レベルの街だったが、行政による条例やインフラの整備、行政主導による企業誘致などあらゆる都市開発計画が功を奏し有数の都市となった。
なかでも教育支援の分野での改革で私立校の増加に伴い、全国から多く学生があつまる人気の都市として知られるようになった。それもあってか市の中心繁華街の青葉区では若年層向けの施設の充実がすこぶる進んでいる。その青葉区に隣接する桜区はベッドタウンとして一般に認知されている通り、閑静な住宅街や自然公園など、市内でも不動産などは人気の絶えないエリアで、天ヶ原の若年層たちの憧れの対象でもあった。草間はそんな桜区の天ヶ原自然公園をはさんだ向かいのマンションの一室に居を構えていた。
家の外では子供たちの笑い声や小鳥の囀りは息を潜め、早めの退社組みが帰路につき始める、すこしばかりの疲れと哀愁の気配を帯びた頃。
部屋の外、玄関からの物音が草間の目を久方ぶりにディスプレイから外させた。
誰が入ってきたかは見当がついていた。そんな時間か、とディスプレイの隅に表示された時刻を確認する。
けっこうな時間ノンストップで書き進めていたようである、日が沈みかけ照明をつけてない書斎は薄暗くなっていた。
「あっれ、真っ暗!今日はまだお仕事中でした?」
書斎の扉をすこしだけ開け顔だけ覗くような仕草で一人の女性が聞く。
大丈夫だよ、そう返して再びパソコンに身体を向けた時
そういえば!と彼女が切り出した。
「また玄関の鍵開けっぱなしでしたよ!なーんで閉めないのかなぁ、ここに来るたび言ってる気がするわ」
「泥棒に入られてからじゃ遅いですからね、それから電気はつけないと目悪くしちゃいますよ!子供じゃないんですか
ら」と照明のスイッチをつけると書斎の扉を開けたまま、居間へと向きを変えまだ草間に何か話している。
「あと、ちゃんと食べてます?まさかコーヒーしかまだ口にしてないんじゃないの?」仕事中であることを自分で確認したはずなのだが彼女はまだ話し続けている。
んー、と適当な感じで相槌をいれるがもちろん草間の小さな声は居間にいる彼女には届くはずもなく、彼女は一人で喋っている。今日はもう仕事はできないことを悟り、キリの良いところでデスクから腰を上げ部屋の照明のスイッチを消し扉閉めて書斎を後にした。
彼女は天宮姫咲天ヶ原市の大学に通う19才だ。
草間とは幼馴染という間柄で、彼らの親同士が深く親交があり小さい頃から2人は兄妹のように育ってきた。
幼少の頃から明るく溌剌としていて好奇心旺盛かつ文武両道、外見も今時らしい大学生だ。所謂お嬢様育ちなとこほがあり言葉遣いや仕草はそれらしいが、草間の前ではとにかく「喋りたいっ娘」で現在の草間が寡黙な性格になったのはよく喋る姫咲と子供のころから育ってきたのが要因だろうと自己分析している。
この歳になってもこうして暇になると草間の家にやってきては世話を焼いては喋っては帰っていく。
「あ、あったシグリ!これこれ!」
上機嫌な姫咲は冷蔵庫の中からパプアニューギニア産のコーヒー豆をとりだし、淹れても良いか尋ねてはいたが、返事を聞く前にもう開封していた。
草間はソファに腰を下ろしタバコに火をつけた。
こうして彼女が来たということは、どこか食事でも行くぞということだろう。さて何を食べに行こうか、豆をゴリゴリとミルで粉砕しながらまだなにやら話している姫咲の言葉に
「んー」とか、「んっ」とかはっきりしない相槌をいれながら夕飯について思案していた。思えば今日は食事をとっていない、(せっかくならカレー屋さんとか良いな)
「友達に美味しいパスタのお店教えてもらったんです。今から行きません?実はもう予約してあるんです」姫咲はそう言って草間に笑顔をむけていた。草間の返事を待つその一瞬、コーヒー豆を砕く音だけが妙に響いていた。
「いいよ」……