第9話 幼なじみが部活に乗り込んでくる
部室に入ると、綴利先輩が机と一体化していた。
天板に顔を近づけて、臭いを追尾する警察犬のように、すんすんと鼻を鳴らしている。
「……何やってるんですか先輩」
「食べ物と女の匂いがする」
綴利先輩は警察犬のポーズのままそう言った。
俺は戦慄した。
昼休みにここで栞と弁当を食べたのは確かだが、臭いの強いおかずはなかった。栞も香水の類などはつけていない。それなのになぜ、残り香に気づくのか。
「更科がときどきおやつを食べてるから、その臭いじゃないですか」
「違うんだよ、もっとこう、濃密な、肉の臭いが……」
冷凍食品のハンバーグごときで『濃密な肉の臭い』とか言わないでほしい。純文学のエロ表現みたいじゃないか。
「そして、まだ青い若葉のような少女の薫りが……」
「綴利先輩それわざと言ってませんか?」
俺は耐えきれなくなってツッコミを入れてしまう。
「ふふふ……、馬脚を現したねブンショー君。この馬並み男め」
綴利先輩は警察犬のポーズを解いて顔を上げた。眼球をひと回りさせて、長い前髪のすき間からこちらに視線を向けてくる。
「人を性欲の権化みたいに言わないでください」
「部室に女の子を連れ込んで、あんなことやこんなことをしていたんだろう?」
こちらを見据える黒々とした瞳は、自分の言葉への確信に満ちていた。
気圧された俺は、あっさり事実を吐いてしまう。
「違います。詠早と昼飯を食べただけですから。決していかがわしいことをしていたわけじゃ……」
「ほう、幼なじみとお昼ご飯を、まとめてぺろりと……」
「詠早と、一緒に、昼飯を食べたんです」
俺は訂正する。日本語は難しい。
いや、今の誤解は明らかにわざとなのだろうが。
というか、ぺろりって表現なんか古いな……。
先輩の本気とも冗談ともつかない追及に、俺はもうたじたじである。
「綴利先輩、そのあたりで許してあげたらどうですか? ブンショーさん、たじたじになってますよ」
窓辺の席で傍観していた更科が、声を震わせながら割り込んでくる。
というか、たじたじって表現も古いな……。
「もっと早く止めに入ってくれよ」
「ごめんなさい、だって面白くて」
更科は口元を押さえて、くすくすと笑っている。実に上品な所作なのだが、丈の合わない白衣とぶ厚い黒縁メガネというコーディネイトのせいでいろいろと台無しだ。これが流行りの残念美人という属性だろうか。
「詠早さんとの関係は良好みたいですね」
「そうなのか?」
俺はしらばっくれるが、更科は『逃がしませんよ』とばかりにメガネを持ち上げる。
「ここ最近、お二人が一緒にいるところをよく見かけますから」
「一度や二度の目撃情報で熱愛を報じる週刊誌みたいなことを言わないでくれ」
「やっぱり『さよリト』の影響でしょうか?」
「いや――」
「おや、理桜ちゃんも読んでくれているのかい?」
更科に押され気味のところに、綴利先輩が話に入ってきた。しかし、助け船という感じが全くしない。
「はい、詠早さんに猛烈にプッシュされたので」
「あの子はなかなか情熱的だよねえ」
「主人公とヒロインが、ブンショーさんと詠早さんなのだと思いながら読み進めると、いろいろと捗ります」
「ふむ、それは重畳。この先の方向性について、何かリクエストはあるかな?」
「いえいえ、そんな野暮は申しません。綴利先輩の思うさま書き綴ってください。わたしはいち読者として、それを見届けるだけです」
二人の話を横目にため息をつく。『さよリト』の話で盛り上がるのは構わないが、これだけは言っておかなければならない。
「どうでもいいけど、綴利先輩が作者で、俺が元ネタを提供してるってこと、詠早にはぜったい黙っててくれよ」
「それは……、あいつのことは俺が守る的な宣言ですか?」
更科の声は少し弾んでいた。
この子はエセ理系女子のくせに乙女チックなところがある。
「違う、逆だ。あいつから俺自身を守るために、この話は秘密にしなきゃならないんだよ」
「どういうことですか?」
「考えてもみろ。『さよリト』はあいつと俺の昔話が元になってるんだ。あいつの立場からすれば、思い出を勝手に引用されたようなものだろ」
「著作権的にもマズそうですね」
「1、法廷闘争。2、その前に鉄拳制裁。3、女子の間に噂が広がって社会的死……」
「2のあとで3、という流れが有力ですね」
「楽しそうに言わないでくれ」
「でも、すごく学園ラブコメの主人公っぽい末路ですよ」
「一話完結型のギャグ回なら許されるかもしれんが」
「想さんも何かご意見ありませんか?」
更科が隅っこの机で作業中の円居に声をかけると、
「……は、恥が多い」
とだけつぶやいてノートパソコンの影に隠れてしまった。
俺たちは顔を見合わせ、小声でやり取りをする。
「俺、円居になんか悪いことしたか?」
「幼なじみの秘密を売って先輩の気を引こうとしている――」
「ぐ……」
「今のブンショーさんは、そう思われても仕方がないんじゃないでしょうか」
俺は言い訳をするように、あるいは救いを求めるように、綴利先輩を見やった。
しかし先輩は先ほどから会話には加わらず、チラチラと入口の方を気にしていた。
「どうかしたんですか先輩」
ただ話題を逸らせるだけでもありがたい。俺は先輩に声をかけた。
「外に何者かの気配がある」
綴利先輩は前髪のすき間から、ぎょろりと戸口を見据えている。
「五感が鋭いんですね」
動作は鈍いのに。
「文芸部のスパイでしょうか」
更科がノリノリで口元を隠す。こんな弱小文化部に、諜報に値する秘密など存在しないのだが、そこはそれ、俺は特殊部隊よろしく壁伝いに戸口まで移動し、素早く取っ手を引いた。
「わっ」
姿を見せた曲者が声を発した。
あわててその場から飛びのくが、もう遅い。
「……何やってるんだ詠早」
壁に張り付いていた栞は、やがて何事もなかったかのように堂々と部室に入ってくる。
まさか、と俺は心の中で身構える。迎えに来ちゃった、などと言い出すのではないか。いつもの幼なじみ的言動――その一環なのではないかと。
こちらの警戒をよそに、栞は「失礼します」とだけ告げると、俺の脇を抜けて綴利先輩の隣に立った。
座ったままの先輩を、急角度で見下ろす栞。
「綴利先輩」
「……ん?」
綴利先輩は強い光を照らされたかのように目を細める。
たしかに、栞が陽なら綴利先輩は陰なのかもしれない。
外見的にも、性質的にもだ。
二人と別々に接しているときは、そんな違いなど気にならないが、今のように向き合っているのを見ると、妙に緊張してしまう。
光と闇。善と悪。右と左。
そんな宿命の戦いめいた雰囲気を感じてしまうからだろうか。
それとも単に、俺に後ろ暗いところがあるせいなのか。
「――いいえ、ツヅリセツ先生」
栞は綴利先輩をペンネームで呼んだ。
呼び方を変えた意図はわからないが、その声は少しうわずっている。
「なんだい」
対する綴利先輩は相変わらずユルい。泰然自若、とあえて格好いい言葉を使っておこう。
剣豪同士の果し合いのごとく、部室の空気が張り詰めていく。
この勝負、自然体の綴利先輩に分があると見ていいのだろうか。
あるいは、今にも飛びかからんばかりに気が逸っている栞が、その勢いに任せて一気呵成に畳みかけるのか。
一秒にも一分にも感じられる沈黙を破り、先手を取ったのは栞だった。
「先生の中短編28作品、ぜんぶ読みました。すごく面白かったです!」