第21話 あなたはあの子を特別視しすぎている
「悩んでいるわね、若者よ」
振り返ると、不敵な笑みを浮かべた古井河先生が立っていた。
左手を頬にそえて、右手で左の肘を押さえる、変則的な腕組みをしている。
「先生。どうしたんですか」
「それはこちらのセリフよ。綴利さんが走っているところなんて初めて見たわ」
「ああ、それで」
注意しにきたということだろうか。
高校生にもなると、中学生とは違い、廊下を走るだけでもよく目立つ。それが普段はおとなしい綴利先輩ならばなおさらだろう。
「あいにく先輩はもういませんけど」
「わかっているわ。それに、廊下を走るくらいどうってことないの。それは青春の疾走なんだから」
「はあ」
「青春とは駆け抜けるものなのよ」
古井河先生はかつんとヒールを鳴らして、ベランダの手すりに背中を預けた。
青春は駆け抜けるもの、か。
走るのに適さない靴をはいた人が言うと、逆に説得力を感じる。
「駆け抜けてゴールしたあと、過ぎ去った日々を振り返ってる人のセリフですね完全に」
「……ふふ、軽口をたたく元気は残っているようね」
先生は口元を引きつらせるが、すぐに立て直して、余裕ぶった笑みを浮かべる。このノリはなんなのだろう。ここへ来たのは、単に走っている先輩を見つけて気になったから、というだけではないのかもしれない。
「もしかして、さっきの話、聞いてました?」
「青春とはすれ違うものなのよ」
「やっぱり……」
「それで、天地君、あなたはどうするつもりなの?」
「どうするも何も、そばにいるには力不足だって言われて、突き放されたばかりなんですけど」
「私の小説がキミを傷つけてしまう……ね。綴利さんも案外、芝居がかったことを言うのね」
「面白がってるんですか?」
「言葉はいつも十分ではないわ。だから、その先を読まないと。綴利さんがあなたを遠ざけたのは、嫌っているからではないのよ」
「それくらい、わかってます」
応じる声は、自覚できる程度には不機嫌だった。
古井河先生は拗ねた子供をあやすように軽く笑う。
「でも、あなたが諦めてしまったら、綴利さんは本当にひとりぼっちになってしまう」
俺にもまだできることがあるかのような、そんな言い方だった。
「小説は一人で書くものだけど、だからといって独りになってしまう必要なんてないの。書き合って、読み合って、刺激し合って――切磋琢磨していくこともできるはずよ」
古井河先生の話がとても魅力的に聞こえたから、つい想像してしまった。あの穏やかな部室で、俺がいて、更科と円居がいて、そして綴利先輩がいて。みんなと一緒に、ああだこうだと意見を交わしながら小説を書けたなら。それは素晴らしい充実した毎日なのだろう。
だけど、それが成立し難いことを、俺は身をもって知ってしまっている。
「それは……、並の小説書きの話でしょう。ツヅリセツにそういう相手が必要とは思えません」
天才に仲間は不要、それどころか理解者すら邪魔なだけだ。
それが、一般人の見上げる天才のイメージで。
俺たちと同じ一般人の古井河先生には、否定できないと思っていた。
しかし、
「いいえ、必要よ」
先生は断言した。
「なんで……、先生に天才の何がわかるんですか」
「あなたはあの子を特別視しすぎているわね……」
とあきれ顔でため息をつく古井河先生。
「先生にも天才のことはわからないわよ。この前の創作討論で話したとおりにね。でも、綴利さんの言葉なら、はっきりと聞いたわ」
「……何を」
「あの子は〝つらい〟と口にしたでしょう。それに〝うれしい〟とも」
「あ――」
天才らしからぬ感情的な言葉を、俺は確かに綴利先輩の口から聞いていた。ほんの数分前だ。それをどうして見落としていたのだろう。
「綴利説乃は、何事にも動じない、小説を書くだけの機械ではないの。後輩が慕ってくれたらうれしいし、傷つけるのはつらいのよ。だから、あなたを遠ざけるけれど、本当は、そうしたくはない。綴利さんはそう言いたかったはずよ」
頬が熱くなるのを感じて、俺は先生から顔をそむけた。
ついさっきまで偉そうなことを言っていた自分が恥ずかしい。いろんなことをわかったつもりで、何もわかっていなかった。相手のことを考えているつもりで、自分のことしか考えていなかった。俺はなんて視野の狭いやつなのだろう。
「だけどこの際、綴利さんの気持ちは置いておきましょう」
深い穴に埋めたくなるような反省心が、行き場を失くしてしまう。
「ここまで煽っといてそんな……」
「他人のことはどうでもいいの。あなたの行動なんだから、あなたの気持ちが第一よ。あなたはいったいどうしたいの? 天地文章君」
人を思いやれ、相手の気持ちを考えろ、という風なことを言っていたくせに、古井河先生は一転して、俺にわがままになれと言う。
「……先輩に、追いつきたいです」
手すりに干されたタオルみたいになってグラウンドを見下ろしながら、ようやくしぼり出したのは、そんな女々しい言葉だった。
「ふふっ……」
含み笑いとともに、髪をくしゃくしゃとかき混ぜられる。頭を撫でられているのはわかっていて、恥ずかしさも大いに感じていたが、なぜか振り払う気になれない。
「子供扱いしないでくださいよ」
口先だけの反発が、夕方の校舎に染み込んでいく。
さらに十数秒ほどこの状況が続き、ポン、と軽く頭を叩かれたのがお終いのサイン。
身体を起こして手すりから離れる。向き合った先生がニヤリと笑った。
「よーし、多少はマシな顔になったわね」
「持ち上げ方が中途半端……」
「まだ難題が残っているから、不安なのも仕方がないけれど」
古井河先生の指摘は正しい。精神状態が持ち直しただけで、現状は何も変わっていないのだ。口先だけで何を言っても、きっと綴利先輩には届かない。さきほどの別れ際と同じように、さみしげな笑顔で聞き流されるだけだ。それでも、
「まだ何か、アドバイスが要るかしら?」
「いえ、あとは自分で考えてみます」
さすがに一から十まで教わるのは、ささやかなプライドが許さなかった。
先生の申し出をきっぱり断る。
俺の反応など予想済みだったのだろう、古井河先生は驚くでもなく、軽く肩をすくめてみせる。
「その意気よ、強がりもまた青春だから」
「ちょっと青春に執着しすぎじゃないですかね……」




