第13話 アクアリウムの幻想
空腹を感じたので、館内に併設されたレストランへ入った。
昼どきで空いている席は少なかったが、どうにか二人掛けのテーブルに座ることができた。
「ここのメニューはシュールだね」
メニューを開きながら綴利先輩がつぶやく。
最初の見開きページでは、近海で採れた鮮魚をふんだんに使った海鮮丼や、刺身盛り合わせ定食などがオススメですと、写真入りでアピールされていた。
それらは確かに新鮮そうで、食欲をそそる写真だった。
しかし、ここは水族館だ。生きた魚がたくさん泳いでいる水族館なのだ。
「まさかこれは〝海の仲間たち〟の……」
「先輩、それ以上は」
「ああ、知らない方がいいこともある。私はおとなしくサンドイッチを選択するよ」
「俺もパスタにしときます」
俺たちは示し合わせて魚介の絡まないメニューを注文した。
「……先輩、無理してませんか」
率直にそう尋ねる。
料理が運ばれてくるまでに、疑問を片付けておきたかった。
窓の外を眺めていた先輩は、数秒ほどの間を置いてこちらを向く。
「無理、というと?」
「さっきのアシカにペンギン、あと、ふれあいコーナーでも。カワイイを連呼しすぎです」
「ああ、それな」
それな?
「私がカワイイと口にするのは不自然だと、キミは感じたわけだ」
「はい」
「まるで私が、新入社員と話を合わせるために若者言葉を使っている、アラサー先輩社員のようだと、そう言いたいわけだ」
「いや、そこまでは……」
「私にカワイイは作れないと」
「えぇ……」
先輩は次から次へと自己否定を繰り出してくる。
フォローが追いつかず困り果てていると、そんな俺のうろたえっぷりがおかしかったのか、くくっ、と先輩が噴き出した。
「別に無理はしていないよ。自然体とも言い切れないけれどね」
「どっちですか」
「こういう場所ではしゃぐ女子高生、というものを演じてみただけさ」
「……それって、『さよリト』のためにですか?」
「ああ」
とうなずく先輩に、俺は息をのんだ。
俺は今、尊敬するツヅリセツのキャラクター創作法を聞いているのだ。
「先輩はそうやってキャラクターを作るんですか」
「いや、基本はつまみ食いさ」
「つまみぐい?」
「この前、キミにもしたじゃないか」
綴利先輩は右手を顔の高さまで持ち上げて、動物の口のように指を動かす。
栞が転校してきたあの日と、同じ仕草。
「思い出を聞いて、それを取り込むってことですか」
「ああ」
「要するに、知り合いや身近な人をモチーフにするんですよね」
「別に特別なことじゃないだろう?」
言われて、拍子抜けしてしまった。確かにありふれたキャラクター創作法だ。この登場人物にはモデルがいる、なんて作家もよくインタビューで語っているし、俺も実際にやったことがある。
先輩のキャラクターづくりが、ごく普通の手法なのはショックだった。
何か、俺の知らない秘密の方法論を用いているのなら、まだ納得できたかもしれない。
自分とそう変わらないやり方をしているのに、キャラクターの魅力がまるで違うというのは、根本的な才能の差なのだと、そう言われたような気分になる。
「カワイイはもうおしまい。午後からはクラゲのようにのんびり行くつもりさ」
綴利先輩は自嘲するように言って肩をすくめる。
確かに先輩は華やかなカワイイからは縁遠い人かもしれない。だけど、運ばれてきたサンドイッチを両手で持って、その先端をリスのように少しずつかじっていく姿は、間違いなく愛嬌があると思う。
「なんだいブンショー君、人が食事しているのをじろじろ見るものじゃないよ」
「すいません」
苦笑いを返しながら、パスタをフォークで巻き取っていく。
◆◇◆◇◆◇◆◇
体験型のコーナーばかりだった前半とはうって変わって、水族館の後半はとても静かだった。
照明の明るさを落としたうす暗い通路に、壁と一体化した水槽が並んでおり、順路に沿ってそれらの展示をのぞいていく。
各水槽のヌシは、擬態した魚や甲殻類、おとなしい色合いのサンゴ、1匹で水槽を占拠している巨大魚、浮遊するクラゲなど。非常に地味な展示ばかりのゾーンである。子供の姿は全くないし、大人の姿もほとんどない。
カワイイはもうおしまい宣言のとおり、綴利先輩は黙ってじっくり展示を見ていた。
アクリル窓にぺたりと張りつき、ひとつの水槽につき数分もかけている。どんな些細なことも見逃すまいと目を見開いている。すぐ隣で横顔を見ていても、先輩は身じろぎひとつしない。
水槽を見つめる先輩の瞳には覚えがある。
すべての情報を吸収しようと貪欲に見開かれた、ブラックホールのように黒々とした瞳に見つめられて――俺は、思い出を引きずり出されたのだ。
最初はいつもと同じ『さよならリトルガーデン』への原作提供だった。
あるとき俺は、母さんが大切にしていた花瓶を、うっかり落として割ってしまった。
途方に暮れて栞に相談すると、同じ花瓶を買ってすり替えればいいという、子供らしい浅はかなアイディアが出される。それに従って二人で慣れないデパートへ行き、高価な花瓶を買おうとするものの、所持金が足りずに右往左往する――そんな、今にして思えばほほえましい失敗談である。
話をした俺自身、ずっとそういう風に記憶していたのだ。
ところが。
『それは本当にキミの不注意だったのかな?』
綴利先輩は静かに問いかけてくる。
『以前、お母さんが参観日に来られなかった、という話をしていたじゃないか。キミはそれが内心ショックだった。だからその当てつけで、お母さんが大切にしていた花瓶を、乱暴に扱ってしまったんじゃないかな』
『割るつもりなんてなかった? ああ、わかるよ。ほんのちょっと、雑に扱っただけ。そうしたら手が滑って花瓶が倒れて、不幸にもカーペットを敷いていない、硬い床に落ちてしまった。それだけのことなんだろう』
ゆっくりとした語り口に炙り出されるように、当時の感情がよみがえる。
花瓶を割った瞬間、頭に浮かんだ言葉は『ごめんなさい』ではなく『わざとじゃない!』だった。
母さんへの不満が、雑な動作となって表れていた。
それを自覚していたから、ひどく焦ってしまい、栞のあんな悪だくみのような提案に乗ってしまったのだ。なけなしのお年玉貯金を崩してまで、花瓶を買い直そうとした。
母さんのためではなく、自分の保身のために。
『なるほど。記憶というのはそうやって、都合の良いように変わっていくんだね』
勉強になるなあ、と綴利先輩は満足げにうなずいていた。
先輩はこちらの言葉の違和感を見逃さない。いくつもの問いかけで揺さぶって、俺自身も忘れていたような記憶の変化を、白日の下に晒してしまう。
わずかなヒントから真実を見抜く、名探偵のような慧眼。
それは本来、とても怖いもののはずなのに、同時に強く引きつけられる。
「……あれ」
考えごとに没頭していたせいか、気づくと先輩の気配がない。振り返ると、いまだに三つ後方の水槽の前にいた。
薄暗い通路のなか、黒づくめの上に羽織った真っ白なショールが、ぼんやりと浮かんでいる。
――クラゲのようにのんびり行くつもりさ。
不意に先輩の言葉がよみがえった。
淡い光に照らされる姿は幻想的で、海の月と書いて海月と読む、そんな豆知識を思い出した。
綴利説乃は、水面に映る月のように不確かだ。
「せんぱ――」
ぺしっ、と綴利先輩が水槽の窓を叩いた。
見間違いではない。
ぺしっ、ぺしっ。
弱々しい音が、二度、三度と聞こえてくる。
『まどをたたいておさかなさんたちをびっくりさせないでね!』
という注意書きなどお構いなしの蛮行だった。
「ちょ、何やってるんですか」
あわてて歩み寄って声をかける。
幻想的な雰囲気はきれいさっぱり消滅していた。
「魚が擬態しているらしいんだけど、ちっとも見つからなくてね」
「子供じゃないんだからこらえてくださいよ」
「小説書きたる者、衝動を我慢してはいけない……」
「そういうのはキーボードに叩きつけてください」
涙目で口をとがらせ、赤くなった手のひらをさする先輩に、あれやこれやと小言を言いながら、俺は呆れよりも安心を感じている。




