第11話 アクアリウムの休日
海風を浴びていた。
四月も後半に入った日曜日。
約束の時間よりも少し早めに目的地に着いた俺は、道路沿いの防波堤に身を乗り出して、しばらく海を見ていた。濃厚な潮の匂い、海鳥の鳴き声、寄せては返す波音。
五感で海を感じていると、ふと、2メートルほど隣に人の気配が現れる。
「海を見ていたのかい」
のんびりとしておだやかで、まるで海のような声だった。
「はい」
と俺は前を向いたまま答える。
「空の蒼と海の碧が交わる水平線や、波涛を超えて外国へ向かう船や、水面の下を揺蕩っているかもしれない魚たちを?」
「そういうのも、まあ、少しは」
「……あまり興味がないのかな?」
「そういうスケールの大きなものより――」
俺はすぐ下を指さす。
防波堤に当たっては砕ける波、不規則に浮き沈みする浮遊ゴミ、波消しブロックの上を移動している甲殻類。近くにあって、せわしなく動くものたち。
「――ああいうものの方に、つい目が行くんですよ」
「なるほど、キミらしいなあ」
「……え?」
それはどういう、と問いを挟むよりも早く話が流れる。
「ここは気持ちがいいね。私はあまり開けた場所は得意ではないんだけど、ここはいい。波の音も、海風も、磯の香りも、陽射しの熱も、みんな心地いいよ……」
「そうですね」
俺はふと、春休みにぐうぜん部室で先輩と二人きりになったことを思い出した。
西日が差してあたたかな窓辺を、大きな毛布みたいに共有して、ただ黙って文庫本を開いていたひととき。お互いがページをめくる音だけが、柱時計の秒針のようにひっそりと聞こえていた。
何ひとつ共通点のないこの場所で、俺は、あのときのようにおだやかな気分だった。先輩も同じように感じてくれているのだろうか。
「もう少し、ゆっくりしていきますか」
かたわらの綴利先輩に問いかける。
「ぐう……」
返事は寝息だった。
綴利先輩は防波堤に顔をうずめて眠っていた。ほとんど一体化するみたいにぺたりと張り付いている。
「――えぇ!? ちょ、どうやるんですかそれ?」
「……むう、うるさいなぁブンショー君」
綴利先輩はむくりと顔を起こす。
「こんなところで寝ないでくださいよ。……ああ、頬に砂粒がついてる」
「しまった……、跡が残らないかな」
「若いから大丈夫ですよ」
「肌年齢35歳って言われたんだけど」
「……じゃあしっかりケアしましょう」
「冗談だよ」
「え?」
「それを疑わなかったことで、キミが私をどういう風に見ているのかがよくわかったよ」
「えぇ……、そんな男を試すみたいな罠を仕掛けないでください」
「ほうほう、私のキャラではないと?」
綴利先輩は前髪のすき間で目を細めて、ジトッとした視線を向けてくる。どうしたんだろう今日の先輩は。やけに絡んでくるな。季節外れの海に素足で入ったとき、いつの間にかからまっている海藻みたいだ。
「とりあえず防波堤から離れてください。服も汚れますって」
「ああ、それはいけない。せっかく理桜ちゃんが見立ててくれたんだから、綺麗にしてないと申し訳ないね」
寄りかかっていた防波堤から離れると、全身を手のひらではたいて、服についた砂粒を落としていく。
そのとき初めて先輩の服装をはっきり見たのだが、思わず絶句してしまった。
センスがどうというほど俺は女子の服に詳しくはない。単純に色合いの問題だ。
ロングスカートのワンピースと、品のいいデザインのハンドバッグ。どれもオシャレではあるのだが、いかんせん色がいけない。すべて黒。黒一色だった。黒子のバイトの帰りか、あるいは葬式の帰りかというくらいに黒い。黒衣の未亡人。そんな言葉が浮かんでしまう。
「これで砂は取れたかな」
「そんなことよりもっと早めに気を付けてほしいところがあるんですけど」
「このコーディネイトがご不満かい?」
「更科が見立てたって言ってましたけど……」
あいつのセンスがヤバいということだろうか。
「あの子はもっと色合いをどうの、小物をどうのと、いろいろお仕着せしてくるからね、服装に関しては、私にだって譲れない一線があるのさ」
綴利先輩は胸を張った。が、すぐに猫背に戻る。
この黒づくめファッション、どうやら更科のおすすめを無視して強行したものらしい。
いろいろ言いたいことはあったが、相手の服装に口出しできるような関係ではない。制服で来なかっただけマシか。
スカートのすそを軽く持ち上げ、満足げな表情の綴利先輩。
そこでふと、ハンドバッグの端から、白い布がはみ出ているのに気がついた。黒一色のなかにポツンと白があるとよく目立つ。
「なんですか、それ」
「あ、ああ、これはただのハンカチーフだよ」
ただのと言いながらも、先輩はあわててハンドバッグを遠ざける。俺は反射的に、その白いハンカチーフの端をつかんでいた。
「……ちょっと失礼」
「ああっ」
引っ張ると、するする出てくる白い布。
思ったよりも長かったそれを、先輩の目の前に差し出す。
「これ、ショールですよね」
ストールとかボレロとか、ほかにも似たような名前違いの衣類があるが、俺には違いがよくわからない。とにかく女性が肩に羽織る衣類である。
「私は気を抜くとすぐ服が真っ黒になるらしいから、せめてこれだけでも持っていってと強引に渡されたんだよ」
「なるほど、黒の対になるワンポイントですか。確かにこれを羽織るだけでも全体の印象がガラリと変わりますよ」
「何さ、キミまでそんなファッションアドバイザーみたいなことを言い出して」
「なんで隠してたんですか」
「白い布なんて目立つものを身に着けるのは恥ずかしいじゃないか」
「黒一色の方がよっぽど悪目立ちしますよ」
それに無頓着な先輩も可愛いのだけれど。
「ちょっと動かないでください」
俺は先輩の背後に回り込むと、真っ白なショールをその猫背の撫で肩に羽織らせる。
先輩は嫌々ながら仕方なくといった様子で、ショールを前で結んだ。
そして振り向いて、肩ごしにジトッとした視線を向けてくる。
「キミは実にキザったらしいことをするね」
「でもやっぱり、こっちの方が似合ってますよ。写真撮って比べてみましょうか?」
「この格好をするだけで恥ずかしいのに、それが電子記録に残るなんて恐ろしいよ。私に画像流出の恐怖におびえながら生きていけというのかい?」
「んな大げさな」
先輩のたわ言に軽く応じつつも、俺は胸中で舌打ちする。ナチュラルに先輩のお宝画像を手に入れられると思ったのだが、どうでもいいところでガードが堅い。
それでも、今日は俺のペースで来ているという手ごたえがあった。
こちらが何かを企てたわけではなく、先輩が勝手にペースを乱しているだけなのだとしても、悪くはない雰囲気だ。
開けた場所は苦手だと先輩は言っていたが、そういう地の利もあるのではないか。物語部の部室以外の場所は、すべて先輩にとって敵地なのかもしれなかった。
黒のワンピースに白のショールで完全装備と相成った綴利先輩。
まだ高校生の外出時の服装としては違和感が残るが、なんだかんだ言いながらも気に入ったようで、その場でゆっくり回って身なりを確認していた。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
俺は歩き出しながら声をかけた。情景描写ばかりだと退屈してしまうからな。
しかし、綴利先輩は逆にその場でうつむいてしまう。
「実は、恥ずかしながら、こういうことは初めてなんだ」
「俺だって、そうですよ」
俺は海の方を向いて、先輩を見ないようにする。
「本当かい? キミはこういうことに慣れていると思っていたよ」
「そんな積極的に見えますか?」
「私よりはね」
「先輩と比べたらオオサンショウウオだって積極的ですよ」
「ふふ……、言ってくれるじゃないか」
「ともかく、その……、初めて同士ってやつです」
「実に滑稽なフレーズだね」
「笑わないでくださいよ、こっちだって緊張してるんですから」
「そうか……、それはよかった」
「よかった?」
「こんな気持ちが私だけじゃないのなら、少し安心できるからね。……お手やわらかに頼むよ」
先輩はうつむいたまま、長い前髪のすき間から上目遣いで俺を見た。数メートルに開いてしまった距離を縮めるために、小走りに駆け寄ってくる。
「では行こうか。……初めての取材に」
「はい、取材に……」
話は数日前、栞に女子部員たちを寝取られたあの日までさかのぼる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
綴利先輩から原作の提供を依頼された俺は、すぐには応じずに、一計を案じた。
「俺から提案なんですが」
「なんだい?」
「象徴的な思い出の一つに、遠足を楽しみにしていたヒロインが熱を出して行けなくなる、というのがあるんですよ」
「ほう、おいしい話じゃないか」
「でしょう」
綴利先輩と目を合わせ、ニヤリと笑ってうなずきあう。
数年の時を経て再会した二人が、あのとき果たせなかった約束をやり直そうとする――ベタであるがゆえに避けて通れないイベントである。
「ちなみにその場所は?」
「烏浜です」
「ああ」
綴利先輩は得心したという顔でうなずく。
烏浜は、近隣ではメジャーな観光スポットだ。砂浜から望む太平洋の美しさには定評があり、県外からの観光客も多く訪れている。
しかし、遠足の目的地となるからには、勉学につながる理由が必要だ。
烏浜には水族館がある。全国各地にある有名水族館とは比べるべくもない、ちっぽけな施設だ。市内の中高生のほとんどが、遠足で一度はこの水族館を訪れたことがある。そして皆が口をそろえる。一回行けばもう十分だと。
「取材って、大切だと思いませんか」
俺は敢えてそう提案した。
「先輩も行ったことあるかもしれませんけど、記憶がだいぶおぼろげになってるでしょう。それに、小学生と高校生とじゃ、水族館で受ける印象も変わるはずです。その違いを描写するためにも、もう一度行っておいた方がいいんじゃないですか」
綴利先輩に向かって、小説の描写を説くなんておこがましい。
釈迦に説法。河童に水練。イチローに打撃理論。
それらのことわざと同じことを俺は今やっているのだ。
自覚はある。
綴利先輩は、小説を書くにあたって取材のたぐいを一切しない。
全方位への知識が豊富だから調べものをする必要がない――というわけではない。特殊な知識を必要としない作品しか書かないからだ。ときどき専門的な職業の人間が出てくる話もあるが、ぜんぶ想像で書ききってしまう。それでもそれらしく読めてしまうのがすごいところなのだが。
「展示内容だって変わってるかもしれませんし」
「確かにそうだね」
「ほかにも――え? 今なんて?」
「キミの言うことにも一理ある。あるんだけど……、遠出は苦手なんだよねぇ」
机にぺたりと顔をうずめる綴利先輩。長い黒髪がわさわさと机を覆って、禍々しい何かを召喚中のようにも見える。
綴利先輩のつぶやきに、反射的に生唾を飲み込んだ。
こんなに簡単にチャンスが転がり込んできてもいいのだろうか。何かの罠じゃないのかと不安を感じつつも、乗らないわけにはいかない。
「だったら、俺が付き添いましょうか?」
――そうやって俺は、週末の取材の約束を取り付けたのだった。




