第1話 転校生と部活の先輩
「詠早栞です」
夜遅くまで小説を書いていたせいで寝ぼけていた頭が、その名前を聞いた瞬間に目覚めた。
一学期初日の、二年三組の教室。
黒板の前に立つ彼女は、転校生という肩書きに加えて、見た目の可愛さからも注目を浴びていた。
「こっちには小学校のころまで住んでいて、久しぶりに帰ってきました。昔と比べて、いろいろ変わったところも多いと思うので、もしよかったら教えてください。よろしくお願いします」
栗色に染められたやわらかそうな髪の毛や、膝上丈の短いスカートなど、一見すると派手で遊んでいそうな外見だが、その割におじぎは綺麗だった。両手をそろえて礼儀ただしく、深々と頭を下げる。
そのギャップがまたウケたのか、クラスメイトたちの反応は良好だった。
お愛想ではない大きな拍手の音が響くなか、お調子者の男子が「俺が案内するぞー」などと声を上げる。栞はそれらを軽やかに受け流して笑顔を浮かべている。
そんな転校生の余裕が、俺と目を合わせた瞬間にゆらいだ。
表情を引きつらせて、口元がわずかに動く。
なんと言ったのかは誰も聞き取れなかったようだ。
栞はすぐに表情を取り繕うと、担任が指示した席へ歩いていく。
話題の美少女転校生、詠早栞。
彼女はこの俺――天地文章の幼なじみだ。
さきほどのつぶやきは〝ブンショー〟で間違いないはず。
下の名前の音読み。昔からのあだ名だ。
外見や雰囲気が以前とはずいぶん変わっていたので、名前を見るまで栞だとわからなかった。俺の知っている栞は、人前であんなに堂々としゃべるようなタイプではなかったのだ。
休み時間になるたびに、栞の席にはクラスメイトが集まっていた。
飛び交う質問に、栞はひとつひとつ、丁寧に答えている。ときに真面目に、ときにユーモアを交えて。そこに人見知り気味だったあのころの面影はない。
時間は人は変えるものだと、月日の流れを感じる午前中であった。
栞と実際に言葉を交わしたのは、その日の昼休みのことだ。
廊下を歩いていると、窓辺にぽつんと立っている栞を見つけた。
「久しぶりだな、詠早」
幼なじみとはいえ、さすがにいきなり下の名前で呼ぶ度胸はない。
「……天地君」
栞もまた、俺を名字で呼んだ。それはいい。
気になったのは栞の態度だ。
こちらと目を合わそうとしないし、表情も硬い。赤の他人に話しかけられたかのように、壁のある反応だ。クラスで愛想を振りまいていた転校生と同一人物とは思えなかった。
とても再会を喜んだり、昔話に花を咲かせるような雰囲気ではない。何をしゃべればいいのかわからなくなって、中途半端に口を開けたまま突っ立っていると、
「詠早さん、お待たせー」
とクラスの女子数名がガヤガヤとしゃべりながら近づいてきた。
そのうちの一人が、俺と栞を交互に見て首をかしげる。
「あれぇ、詠早さん、どうしたの? 知り合い?」
「うん、小学校のときの同級生。こんなところで会うと思ってなくて、びっくりして話しかけたの。ね、天地君」
「あ、ああ……」
俺はこくこくと首振り人形のようにうなずく。
「ていうか、天地君もクラスメイトだよ」
「あ、そうだったんだぁ、ゴメンね」
栞のフォローに、ゆるふわ系の女子はちょこんと首をかしげる。
「いや……」
俺はこくこくと首振り人形のようにうなずく。周りにほかの女子がいる状態で、幼なじみと話をすることに抵抗感があった。端的に言って気恥ずかしい。
一方がそんな調子だから、会話はそこで途切れてしまう。栞を吸収した女子グループは、やってきたときと同じようにガヤガヤとしゃべりながら遠ざかっていった。
その背中を眺めながら、栞のよそよそしい態度を思い返す。
あいつはまだ、あのことを根に持っているのだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
放課後、俺は数年ぶりに再会した幼なじみにもういちど声をかけることもなく、まっすぐ物語部の部室にやってきた。
物語部、である。
『物語(主に文字媒体のもの)と親しむことによって想像力を育み、感受性の豊かな人間となることを目標とする』
部の設立届にはそんな建前が書かれてあったはずだ。
要するに、小説を読んだり書いたりするだけの、文芸部もどきの部活動だ。そこに俺は所属している。
部長はすでに来ていた。
机に突っ伏して眠っている、黒いモップみたいな塊がそれだ。
唯一の先輩部員がこの体たらくな時点で、物語部という部活のやる気のほどがわかろうというものだ。
「先輩、綴利先輩、起きてください」
十秒ほど肩を揺すり続けると、ようやく反応があった。
「むう……、おや、ブンショー君」
綴利説乃先輩はノロノロと上半身を起こした。その顔にはボリュームのある長い黒髪がまとわりついている。相変わらず、井戸から出てくる幽霊のような姿だ。
「ったく、新学期早々だらしのない……、……先輩?」
俺は小言を途中でストップした。先輩が黒髪のすき間から、眠そうな目でこちらを見つめ続けていたからだ。眠りを妨げられてお怒りなのかと思っていたが、
「キミは……、いったい何を怒っているのかな?」
と逆に聞かれてしまう。
「怒ってる? 俺が?」
「怒りというより、憤りかな。いちど沸騰したスープを、弱火でコトコト煮込んでいるみたいな」
「いや、その喩えはどうでもいいんですけど……」
「まあそう言わずに聞いておくれよ、わたしが言いたかったのはね、強火で一気に熱して沸騰させた状態が怒りで、そのあと弱火にしてポコポコ小さい泡が立つくらいの状態を憤りと、そういう風に表現したかったのさ」
「ちょ、解説しなくていいですから」
俺は慌てて先輩を止めた。
伝わらなかった喩えを改めて説明するというのは恥ずかしい。解説を聞かされているだけで居たたまれなくなる。
「そのつれない態度……、やはり、機嫌がよくないみたいだね」
「そういうわけじゃ」
「ささ、先輩に事情を話してみたまえ」
綴利先輩は人差し指でちょいちょいと自分の顔を指さす。
「どうしたんですか、いつになく積極的じゃないですか」
「たまには先輩風を吹かせたいのさ」
よくわからない理由だったが、俺は事情を説明することにした。
先輩と話をする時間が増えるのは単純にうれしいし、先輩の顔を見られる時間が増えるのも素直にうれしいし、先輩が俺のことを考えてくれる時間が増えるのが率直にうれしい。俺は先輩の真正面に腰かけた。
詠早栞についてのあれこれをひととおり話し終えると、綴利先輩はニヤニヤ笑いを浮かべる。
「幼なじみの女の子、ねえ。まさかそんな相手がいたなんて、キミも隅に置けないじゃないか」
「フィクションに出てくるような都合のいい存在じゃないですから」
「確かに話を聞くかぎりでは、過去の思い出という共通の話題で盛り上がってキャッキャウフフ、でも俺たち、もうあの頃みたいな子供じゃないんだぜ……、的な展開を期待できる相手じゃなさそうだ」
どういう展開を妄想をしているのだろう。ちょっと先が気になってしまう。イヤラシイ話を先輩の口から聞いてみたかったが、俺は紳士なのでこちらから要求することはできない。
「まあ、そういうことです。赤の他人みたいな扱いだったんですよ。知り合いだったぶん、その冷たさがよけいにショックで」
軽く弱音を吐いてみせる。
先輩風を吹かせたいという先輩に、弱みを見せる後輩の鑑。どうですか綴利先輩、優しい言葉とかかけたくなりませんか?
「ふむ……、じゃあ、そんな幼なじみはいらないね」
ところが、綴利先輩の口から出てきたのは、優しさとは真逆の、殺し屋のごとくクールでドライな言葉だった。
「――え?」
綴利先輩は右手を顔の高さにかかげ、指先でぱくぱくと口を動かすようなジェスチャをする。
「詠早さんとの思い出は、わたしが食べてあげよう」