9話 ベッド
午前七時半。早番スタッフに引き継ぎをして、アパートの駐輪場にバイクを停める。
七月の日の出は早く、既に太陽が高い。町にはあくびを噛みしめながら歩く学生服の若者や、スーツを着たサラリーマンで行きかっている。
俺はもう飯食ってシャワー浴びて寝るだけなので、こういう時に少しだけ優越感を覚える。
結局昨晩も客は少なかったし、大抵の客は宿泊利用だったので回転率も遅く清掃も少なく済んだ。
「おかえりなさい……っ!」
「あ、ああ……ただいま」
部屋に入ると渚がひょこひょこと玄関までやってくる。
家に帰ると誰かが待ってくれている。随分と久しぶりなその感覚は、悪いものではない。
「朝飯にするか」
「は、はい」
渚が来てからちゃんとした飯を作ろうと、色々と買っておいた。
フライパンにオリーブ油を引いて、ベーコンを焼きその上に卵を落とす。その間に食パンをトースターモードにした電子レンジで焼き、スーパーの総菜売り場で買ったポテトサラダを盛りつけ、焼き上がったベーコンエッグもポテトサラダの隣に乗せる。
ぽいぽいぽいと、マヨネーズやらケチャップやら塩コショウやらを指の間に挟み、バターやジャム瓶も空いた手に乗せ、足裏で冷蔵庫の戸を締めてコタツテーブルの上に置いた。
――チン。と焼き上がった食パンも取り出し完成。
平日の朝食だ。これだけありゃ十分だろう。
「好きなのかけな」
「はい、いただきます」
俺は食パンにバター、ベーコンエッグに塩コショウをかけ、パンに齧りついた。
渚もイチゴジャムと醤油を手に取り、はむはむと小さな口でパンをくわえる。
食べ終わったら汚れがこびり付かない内に洗って、バスタオルを取り出しシャワーを浴びる。
「ふわああああ……ねむ」
シャワーを浴びて体の汚れを落としたと同時に、どっと疲れが押し寄せてきた。
この連休は渚の必要なものを買い込んだりと忙しく、何より渚の生活スタイルに合わせて昼型になっていたため、もう丸一日寝ていない。
酷く疲れが溜まっていた。
「太郎さん……私、もう起きてるので、ベッド使ってください」
「いや、布団で良いよ」
「でも……太郎さんは夜お仕事で朝寝るんですよね? じゃあ、夜は私がベッドを使って、朝は太郎さんが使えば、良いのでは……?」
平時であれば「大人が使ったベッドとか変な匂いして使いたくないでしょ?」という項をやんわりと渚に伝えて断ったのだが、今日はいかんせん酷く眠い。
頭がうまく回らず、「じゃあそうするよ」と深く考えずベッドに倒れ込んだ。
久方ぶりに使うベッドは、なんだか甘い匂いがした。
渚の匂いだった。
……。
…………。
………………。
「……う……さん」
………………。
…………。
……。
「……ん」
目を覚ますと、外はもう夕暮れで、随分長い間眠っていたらしい。
視線を感じて顔を向けると、ベッドの縁に小さな手を乗せ、こちらをじっと見つめる渚の顔が、寝起きの視界に入った。
「おはようございます、太郎さん」
「ん……おはよう」
どうして渚が俺の寝顔を観察していたのかは知らないが、別段悪い気はしなかった。不思議なものだ。
「よく眠れたよ」
「それは、とても良かったです」
「多分、ベッドに渚の匂いがしたから、かな」
そう告げると渚は複雑そうに眉を下げ、頬を染めて俯いた。
寝起きなのもあって頭が働かず、変なことを言ってしまったと後悔。
「太郎さんは……どうしてそういうことを、言うんですか……? 変です」
「変な匂いじゃなかったよ。なんだか安心する、いい匂いだった」
「そんなことを聞いているんじゃ、ないんです……っ!」
渚は「太郎さんのバカ……」と言って背を向けてしまったので、俺は「うん、知ってる」とだけ答えた。
そのまた翌朝帰宅すると、朝食を挟みながら渚が、「昨夜はベッドに太郎さんの匂いがしたので……あんまり眠れませんでした」と食パンをもぐもぐしながら言って来たので、
「ごめんね」
と謝罪する。
普段から歳の離れた他人に等しい男女が一緒に暮らすということを意識して、出来る限り気を使っていたのだが、昨日は眠気が最高潮だったがために、その辺りの気遣いが疎かになっていたと反省する。
「でも、別に嫌な匂いじゃなかったです……よ」
最後に渚はそう言うと、食パンの最後の一欠を口に放り込み、ごちそうさまと言ってはベッドに潜り込んでスマホを弄り出してしまった。
どうやら今日はベッドを使わせてはくれないらしい。
少しずつ、渚が自分の意見を主張して来たり、気を使わなくなってきて、少しは気を許してくれているのかなと安堵する。
そうやって嫌なことは嫌と言い、思ったことはすぐ口にしてくれるとありがたいし、子供とは本来そうあるべきだと思う。
今晩も仕事だ。頑張ろう。