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奇想百夜物語「大阪綺譚」  作者: 海馬漂泊
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「虚言癖」美章園3

「いや、ひとから聞いた話なんですけどね、地下鉄のホームから落ちて電車に轢かれたらしいですわ」

 一瞬にして、このテーブルの主導権は黒縁眼鏡に移った。

「検死でそのときアルコールが入ってたことは確かなんですが、近くにおったひとらの話やとふらふらと倒れて落ちたて言うひとと自分で飛び込んだて言うひとがおって、はっきりせんままなんですよ」

「酔っ払って落ちたんでしょうかね?」

「さあ、せやけどちょうど電車が進入してくるときに落ちるのもタイミングよすぎますからなぁ。いやタイミング悪いのか」

 黒縁眼鏡は、コップ酒を味わうようにひと口含んだ。

「せやけど、なんで嘘ばっかり聞かされると死ぬんですか?」

 ちょっと警戒気味だった手塚が引き込まれている。

「それが、やっぱりね、こちらの方が話しておられたように、わたしが聞いた話では、その死んだひとは下請けの小さな会社やってたらしいんですが、上の会社のひとには逆らえへんかったようです。気ぃ弱いんか、おとなしすぎるひとやったんか。いまどきのパワハラっていうやつもあったんでしょうな」

 竜野が軽くうなずく。

「まさに、よう似た話が聞こえてきたもんで、ちょっと声かけてしまいました。その死んだひとも、企画はかってに使われる、金払いは悪いし、請求書を切らしてもらわれへんこともしょっちゅう。それでも仕事はもらわなあかんから、文句も言われへん。うちに帰っても家族には黙って仕事は順調なふり。自分がそんな目に遭ってるだけに従業員や外注先には支払いもちゃんとするし、やさしい人間やったみたいですわ」

 黒縁眼鏡は酒をすすり、なんの断りもなくふたりのおでんをつまんだ。

「新規の仕事あるから、ちょっと手伝ってくれ。すぐに大きい仕事に膨らむから今は辛抱してくれって。さんざん仕事やらされて、あの話は消滅したとかで金も払わない。うちかてもらってないんやと逆に怒鳴られる。ずっと世話になってるとこやから、これはサービスでやらなあかんねんと嘘ばっかり。下請けにしてみれば、仕入れもあるし機械も動かしてる。なによりそのために何週間も何ヶ月もさいて依頼された仕事したのに一銭にもならんことがたびたびあったそうです。仕事の依頼受けてやってるのに、かわいそうですな。たまにまともな仕事がきたと思ったら、絶対おまけにこれもやってくれってただでやらされる仕事がついてきたらしいです。しかもよその下請けが製造したもんにクレームがついて、その直しとかやらされたらしいです。ひとの失敗の尻拭いですよ。もし自分がやらされたら気分悪いやろなとか考えてみたこともないんでしょうな。まあ、しょっちゅう仕事の催促の電話してくるくせに、ちょっとでも都合悪いことあると、まったく電話してきませんし、こちらからはなかなか連絡もつかない。忙しかったらしいですよ、不思議ですな。そうかと思えば、トラブったりすると真っ先に電話かかってくるんですな。自分とこは問題ないから、おまえとこやろとなすりつけてくる。だいたいわたしの知る限り、おいしそうな話を持ちかけてくる新規の仕事は続かないし、大きくなることもないですな。もし大きくなったら、別のところに発注されてます」

 たしかに手塚にも思いあたるふしがある。

「一緒に食事してるとき、いっぺん酔った勢いで文句言うたことあるらしいです。そしたらですよ、次の日から自宅に非通知の無言電話ですわ。これがずっと続いたらしいです。奥さんも怖がったんですが、黙ってたそうです。誰からかなんか証拠ありませんからな。せやけど、文句言うた次の日からずうっとです。通信会社や警察に相談しても事件性もないからって個人情報保護が優先されてなんもしてくれません。しまいには奥さんがご主人の浮気を疑いだす始末。もうこうなったら終わりです。毎晩のようにかかってくる非通知の無言電話。いまさら奥さんにいろいろ説明しても信用してもらえません。家庭も崩壊です。一緒に食事って話が出ましたけど、これもひどい話がありまして。深夜に電話がかかってくるそうです。先方はすでにどっかで食事してお酒も少々入ってる感じでかけてくる。これから、もう1軒飲みに行きたいから付き合ってくれとか言わないんですな。しかし明らかに誘われてるわけなんです。『どうです、もう1軒飲みに行きますか?』と言わせるんですよ。接待させるんですよ。金払わせるんですよ。えげつないですな。いじましいですわ」

 またおでんをつまみ、酒をすすった。

「それから、これもそちらさんがさっきおっしゃってましたけど、他人の噂話、悪口言うひとは同じように自分のこともあちこちに言われてると思て間違いないですからね。人間ひとりつぶすくらい結構たやすいですよ。おもしろおかしい噂話広めたらええんです。しかもヒエラルキーの上層階が『あいつは、あかん』って言うたら、もう『あかん』ことになる。終わりですよ」

 黒縁眼鏡がちょっと悲しげな溜息を漏らすように間を置いた。

「誰にも相談できへんかったんでしょうな。だんだんアルコールの量が増えだしたそうです」

 コップを握っていた竜野の手が引っ込んだ。

「やっぱりストレスで、ほんで飲み過ぎて、落ちた事故ですかね?」

 竜野が訊いた。

「どうでしょ。ただアルコールの量が極端に増えて、まわりから見てもちょっと飲み過ぎなのはあきらかやったそうです。ついには酔い方もひとに迷惑かけるような変な酔い方してたそうですし、パニック障害のような症状まで出てきて病院にも通いはじめてたとこやったそうです」黒節眼鏡は、ちょっと思い出したように「高い崖から下を覗き込んだとき、吸い込まれそうになりませんか」と言った。「毎日毎日、辛い辛い、今日も明日もしんどいとか考え過ぎてると、あの崖の上から覗き込んだときの衝動が増幅されるんやないかと思うんですわ。ほんまに飛び込むつもりやなくても、吸い込まれてしまうんやないかなと」

 手塚も竜野も、黒縁眼鏡の言わんとしていることがわかるような気がした。

「せやから電車が入ってくるタイミングで‥‥‥」

 ありえなくはないと、手塚は思った。

 竜野は無意識に身震いした。

「いや、そちらさんは、こうやっていろいろ打ち明けてお話できるご友人がいてはるからよろしいですわ」

 黒縁眼鏡は、場の空気を悪くしてしまって申し訳ないというように、わざとらしく明るい調子で言った。そしてコップ酒をぐっとあおり、席を立った。

「ちょっと、お手洗い行かしてもらいますね」

 黒縁眼鏡がいなくなり、ふたりだけになってしまうとなんとなく落ち着かなかった。

「ほんまや。おれには、おまえがおってよかったわ」

 竜野も酒をあおって、丁稚風の娘を呼んだ。

「今日は飲も。飲んで全部忘れよ。ほんであの会社辞めたる。決まりや!」

「せやから、飲み過ぎやぞ、今日は。さっきの話聞いてたんか」

 ふと、手塚は黒縁眼鏡のコップが見当たらないことに気づいた。

「あのひと、コップ持って便所行ったんか?」

「検尿しに行ったんちゃうか」

 竜野らしい冗談が出てきた。

 ふたりして大笑いした。

 竜野は、自分で吐き出すだけ吐き出してすっきりしたというより、黒縁眼鏡の話を聞いていただけでなにかふっ切れたようなようすだ。きちんとした身なりの男ではあったが、手塚には、あの黒縁眼鏡の奥にひそむ、笑っているようにも嘆いているようにも見えるとらえどころのない能面のような細い目と、そして図々しく他人のおでんに手を出すしぐさがどうもひっかかっていた。しかしそれも、竜野につられて飲み過ぎた酒と次第にいつもの上機嫌を取り戻してきたようすを見ていると、どうでもよくなっていた。 

 それきり、黒縁眼鏡が席に戻ってくることはなかった。酔ったふたりが最後まで気づくことはなかったが、伝票には一杯分余計にコップ酒がカウントされていた。


 カウンター席のいちばん奥。ふたり組のサラリーマンを相手に、なにやら熱心にシンガポールの話をしている男がいる。

「わたしもおふたりと同じやつお代わりもらおかな」

 その男は、自ら持ってきたコップを振りかざして丁稚風の娘を呼んだ。黒縁眼鏡ではなかったが、代わりに口ひげを生やしていた。

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