第10話「かみかみの詠唱」
沙夜とユアンはお昼を二人で仲良く食べた。ユアンにとって姉と一緒に食事することは本当に稀な事である。実際に最後に一緒に食事をしたのは二週間前の散歩の時なのだ。ここぞとばかりにユアンは姉に甘えて、「あーん」と食べさせてもらったりした。
そしてお昼を食べ終わると、『幻魔』習得を開始した。
本来の予定ではあと一週間は魔力操作に時間をかけるつもりであったのだが、ユアンが今日の午前中だけで魔力操作を身につけることができてしまっま。そのため一週間ほど繰り上げで今から『幻魔』の習得を始めるのだ。
「じゃあ、柚杏行くよ」
ユアンの前に立っている沙夜は、そう言うとあの魔法を詠唱した。その瞬間に沙夜はその場から霧散するように消えた。まるで最初からそこには誰もいなかったかのように。
「おぉ、消えたすごい。わたしもいつもこんな風に消えてたのか〜」
ユアンの目の前から消えた沙夜。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚……、あらゆる知覚手段を持っても認識することができなくなる魔法『幻魔 雲隠れ』である。
「柚杏にとっては一番馴染み深い魔法ですね。庭を散歩するときにいつもかけてた魔法ですよ」
消えた時と同じく音を一切出さずに、その場所に沙夜は現れた。
「魔力操作をすぐできるようになったからといって、この魔法がすぐ習得できるとは限りません。普通の魔法と違い、これは鹿島家の血縁者のみが使うことができる固有魔法です。固有魔法の習得は普通の魔法と比べてとても難しく、血縁者でも習得できない人もいます」
固有魔法の習得難易度はかなり高い。
ただ、その難易度は血の濃さにも左右され、固有魔法を受け継ぐ家の血が濃ければ濃いほど比較的楽に習得できる。
固有魔法をもつ貴族の本家や、部族の長の家が近親婚をして子どもに固有魔法を可能な限り遺伝させるのもそのためだ。
例えば鹿島家は夜定と葵は再従兄妹であり、その子どもである準夜と沙夜は血を濃く受け継いでいる。
しかしユアンの母は女中であるため、半分しか鹿島の血を引いていない。そのため沙夜はユアンが『幻魔』を習得できるのか少し不安であった。とはいえ、鹿島の分家にあたる血筋では半分しか鹿島の血を引いてないことはよくあることだし、それでもしっかり『幻魔』を習得できることのほうが多いため不安は杞憂に終わりそうであるのだが。
「ではまずは詠唱を覚えてください。慣れれば無詠唱もできますが、まずは一語一句しっかり覚えて唱えましょう」
「わかったー、がんばる」
ユアンは胸の前でグッと両手を握りしめる。
こうして魔法授業の午後講座が始まったのだった。
■■■
『幻魔』の習得を始めて3時間ほどたった。
夕方と呼ぶには早いが、それでも日はだいぶ傾いて来ていた。
ユアンは魔法操作と同様に『幻魔』も軽く習得できた……………ということはなかった。
なぜなら――――――
「柚杏……、あなた噛みすぎよ」
「だって、だってむずすぎなんだもん」
なんとか小難しい詠唱を覚えたまでは良かったのだが、それを口にすることがユアンには難しかった。
魔法の詠唱は魔法言語という特別な言語を使う。これは発音やイントネーションが通常言語とやや違うため、人によってはかなり苦手としている。ユアンは特にそれが苦手であるみたいだった。
「もう一度いきますよ。私に続いてください」
沙夜がゆっくりと一節ずつ、魔法を詠唱してユアンがそれを復唱する。
「すゔぃりぷゅーいあ、ぽにぇりゅちゅりる…………やっぱむりー‼︎」
お手上げと言わんばかりにユアンは後ろに倒れこんで、嘆いた。
沙夜はそんな妹の様子を見て、
「まさかこんな所で引っかかるなんて……。この子の場合詠唱が下手なだけだから段階を飛ばして無詠唱からやらせようかしら」
そう口にしたが、すぐ考えを改めた。魔法言語の詠唱はすべての魔法の基礎となる部分である。ここをできるようにならなければすべての魔法を無詠唱で行わなければならなくなる。無詠唱技術は日常魔法か、よほど使い慣れた魔法でなければ行使するのが難しいとされている。
魔法を習いたてのこの機会に、苦手を克服したほうが後々のユアンのためであった。
時間ならたっぷりあるのだ。
「ほら、柚杏起きて。もう一回やってみよ」
「さっきからもう一回もう一回って……。何度やってもできないもん」
「でもね、これができないと魔法使えないんだよ? 柚杏ずっと魔法を使いたいって言ってたでしょ。一緒にがんばりましょ、ね?」
「うぅ〜」
愚図りだしたユアンに沙夜はそっと手を差し出す。
沙夜が差し伸べて来た手を掴み、ユアンはゆっくりと腰をあげ立ち上がる。
そして、立ち上がった直後にユアンはわざとバランスを崩して姉の体へ倒れこむ。
ポフッ
姉の慎ましやかな胸にダイブした。
慎ましくはあるがそれでもふんわりとした大人の女性の胸の天然クッションをユアンは味合う。
「少しきゅうけー」
「ふぅ、困った子ですね」
よしよしと、ユアンの背中を撫でる。
考えてみれば三時間もぶっ通しで詠唱練習をしていたのだ。疲れて当然だ。
それに今日はまだ初日である。
魔力操作をできるようになっただけで大戦果であるため、早めに切り上げても問題ないだろう。
「そうですね。少し早いですけど、今日はもうやめましょうか。一日目ですし、柚杏も疲れたでしょ?」
「うにゅ〜。クタクタ」
「じゃあ私は兄様に任せた仕事の確認とお手伝いに行って来ますね」
「えっ、お姉ちゃん行っちゃうの?」
「少しは兄様を手伝わないとね。全部任せちゃうのは大変でしょ」
「じゃあまだ魔法の練習する‼︎」
ユアンは大好きな姉と一緒にいられる理由を作るためなら、疲れてても頑張れる。
「コラコラ、さっきと言ってること違うでしょ。疲れてるならちゃんと休みなさい。明日も魔法の練習するのですからね」
「むぅ……」
ユアンは姉を引き止めるのはどうやら無理と悟った。
しかし、どうにかしてもっと甘えたかった。
何かいい方法はないかと考える。
「じゃあ夜! 夜に教えて!」
「私を過労死させる気ですか⁉︎」
つい、ツッコミを入れてしまった沙夜。
朝からこの時間までユアンに魔法を教えて、これからは仕事。そして夜はユアンにまた魔法を教える。
母の言う通り多大な負担になりそうであった。まぁ、しかし妹のためなら軽くこなすのがこの姉であるのだが。
「ちょっと。ちょっとでいいからー」
ユアンが上目遣いで、沙夜の顔を覗き込む。
妹がこんなに頼み込んで来るのは魔法を習得したいのもあるが、本音の本音は自分に甘えたいという事であるのを沙夜は理解している。
こんな機会でなければ気軽に会うことはできないのだ。
「しょうがないですね。夜に時間が作れれば来ますね」
「うん‼︎」
沙夜の答えに、ユアンは嬉しそうに満面の笑みで頷いたのだった。
■■■
太陽が沈み、星々と半月よりすこし膨らんだ赤い月が空を彩る。
ユアンは一人で寂しく夕食を食べた後に、自室でゆったりと寝転んでいた。
その顔はすこしニヤついている。
普段ならカルミラがやってくる夜までひとりぼっちで寂しく過ごす時間であるが今日は違う。
昼間に姉と夜に会う約束をしたのだ。そして、姉には言ってないがユアンには一つ目的があった。とあることを姉と一緒にしたかったのだ。
姉の来訪が待ち遠しく、ゴロゴロとベッドの上を転がって遊んでいると、
コンコン
ノック音が聞こえ、ユアンはベッドから跳び上がる。
急いでドアまで行ってそれを開くと、そこには案の定待ち望んでいた姉の姿があった。
「お姉ちゃん‼︎」
「コラコラ、いきなり抱きつかないでください」
抱きつき頭をグリグリと押し付けて、姉の匂いをユアンは嗅ぐ。
以前嗅いだカルミラの匂いも安心するいい匂いだが、姉はフワリと包み込んでくれるような優しい匂いだ。
「お姉ちゃん、まだお風呂入ってないよね?」
「あれ、そんな匂いますか?」
妹にそう言われた沙夜は、自分自身の匂いをクンクンと嗅いでみる。特別汗臭い訳ではないが、妹は気になるのだろうかと不安になる。
「ん? いい匂いだよ」
「そ、そう……」
匂いで妹を不快にしてしまった訳ではなかったので沙夜はひとまず安心する。
しかし匂いが気になったのでなければ何故ユアンは「お風呂に入ったかどうか」を聞いてきたのだろうか、そんな疑問が沙夜の中に浮かぶ。
その答えはすぐに妹の口から出てきた。
「お姉ちゃん、一緒にお風呂入ろ‼︎」
期待で胸を膨らませたユアンがそう提案したのだった。
甘えさせてくれるお姉ちゃんが欲しかった人生でした。
次回、姉妹お風呂回。




