親友 桃山さくらと森下ななみのこと
漆原さんとの会話した後の翌日。
つまらない学校の授業を終えて、モモと七色さんと一緒に帰ろうとしたときのことだ。
「ころくん。今日は久しぶりにななちゃんの家に行かない? ななちゃんのコレクションが増えたみたいなんだって」
そうモモに言われたので「うん。いいよ」と二つ返事で返す。
すると七色さんは「勝手に決めないでほしいね」と抗議した。
「まず私の予定を聞いてから決めてほしいんだが」
「えっ? 何か予定あるの?」
「いや、ないけれど」
「じゃあなんで否定したの!?」
「素直に肯定するのは癪に障ったからね。それに予定がないのを前提に話してたから、イラっとしてね」
二人の漫才を聞きながらカバンに教科書を詰めて帰る準備をする。
昨日の漆原さんとのやりとりのギャップで緩く感じるなあ。
「それはごめんなさい。でも予定がないんでしょ? じゃあ寄ってもいいじゃん」
「いいけれど、そこまで目新しい本はないと思うが。精々二、三十冊ぐらいさ」
「いや、増えてるって言っていいから。下手な大学教授よりも読んでると思う」
ぼくのツッコミに、七色さんは涼しい顔で「そうかい?」と返す。
「それじゃあ、ななちゃんの家に直行だ!」
元気良く声を上げ教室を出て行く。ぼくは立ち上がろうとしたとき、七色さんが手を貸そうとしたのか、腕を目の前に持ってきた。
「ありがとう。助かるよ」
腕を掴んで立ち上がると七色さんは「構わないさ」とクールに返す。
こういうさりげない優しさを持ちたいなあと腕を放して松葉杖を持ちながら思った。
「そういえば、増えたコレクションの中でお気に入りは見つかったの?」
「ああ、ファンタジー物でね。伏見ちゃんが好きそうな小説だった。今日持ってこようと思ったが失念していた。だから桃山ちゃんの誘いは渡りに船だったな」
「へえ。その本の感想はまだ聞かないことにするよ。さあ行こう。早く行かないとモモに何か言われるからさ」
七色さんは「ああ」と頷いて出口の方へ行く。
ぼくもそれに続いて歩き出す。
「遅いよ二人共! あたしたちの時間は待ってくれないよ! さあ急いで急いで!」
階段を下りて、下駄箱の前で案の定、モモが騒いでいた。
「はいはい、そんなテンション上げるな。学校終わりでスタミナが切れてるんだから」
「えー? 学校終わりってテンション上がらない? ななちゃんはどうなの?」
「私は別段上がったりも下がったりもしないな。学校生活なんてルーティンなのだから」
ルーティン。そんな七色さんの考え方は初めて聞いた気がする。
「じゃあ、いつも服の色を統一してるのも、ルーティンなわけ?」
そう訊くと七色さんは「そうだよ」と答えた。
「私の祖父は風水をかじっていてね。どうやら私の運勢は悪いらしくて、その対策らしいんだ」
へえ、これも初めてだ。
「ふうん。だから今日も青色の服を着てるんだ。それ、まるで学校の制服みたいだけど」
モモの疑問に「そうだが」と肯定した。
「学校の制服に似ているのは私の趣味さ。着ている服の色だけで運勢は変わらないと思うが、まあ気休めみたいなものさ」
七色さんも半信半疑みたいなようだ。ぼくはそういうの信じないタイプだったけど、昨日の件もあるし、少しぐらい信じてもいいかもしれない。
「いっつも一緒にいるけど、なかなか訊けなかったんだよねー。ちょっと得した気分だねえ――あ、クロセンだ。こんにちは」
振り返るとそこにはクロセン、担任の黒川先生が居た。歳は二十代後半ぐらい、背の高さが印象に残る容姿で、いつも通りやる気のない顔で、ボサボサの頭を掻きながら「おっす」と声をかけてきた。
「元気そうで何よりだな。これからどこかに行くのか?」
「はい。これから私の家に行くんですよ」
七色さんがそう答えると、黒川先生は一言「そうか」と言った。
「相変わらず両手に花だな伏見。先生も学生時代はモテたけど、一気に二人はなかった。羨ましいな」
「……ツッコミませんよ」
黒川先生はいつもそうやってぼくをからかってくる。ぼくたちはただの友達であって恋人じゃない。当たり前のことなのに何度も言われると辟易する。
それにしても黒川先生は学生時代モテてたんだ。今のよれよれのスーツとか飛び跳ねてる寝癖とか身なりに気をつけていない人が好かれる要素がないと思うんだけど。
「クロセン。そんなにころくんのことイジらないでよ。たまにはセンセイらしくして」
「何を言うんだ桃山。俺はいつも先生らしくしてるぞ。まあいい、お前ら遅くまで森下の厄介になるんじゃないぞ。でないと夜道に通り魔に襲われるかもしれないからな」
通り魔。その単語にぼくはびくりと反応した。昨日の漆原さんの会話を思い出したからだ。
「ええ。気をつけます。桃山ちゃん、伏見ちゃん、今日は六時ぐらいに解散するからね」
「えーっ! そんなんじゃあ全然読めないし話せないじゃん」
「私たちの時間は有限だけれど、それでも今すぐゼロになるわけじゃないさ。また今度来ればいいさ」
諭す七色さんに対してモモは少し不満げにしている。ぼくは「じゃあ急いだほうがいいな」と言った。
「さあ、そろそろ行こうよ。黒川先生さようなら」
ぼくのさようならに二人も合わして「さようなら」と言う。黒川先生は「おう」と返して「それと――」と続ける。
「伏見、この前のテスト赤点ギリギリだぞ。もっと勉強しろよ」
うぬぬ。最後に嫌なことを言われてしまった。モモと七色さんを見るとニヤニヤしている。くそうちくしょうこんちきしょう。
「じゃあ帰り気をつけてな」
黒川先生はそう念を押すと職員室の方へ向かう。ぼくたちはそれを見送った。
「クロセンにからかわれちゃったね。ころくん」
「うっさいなあ。まったく、余計なことを言う先生だよ」
ぼくが心底うんざり言うと、七色さんは「黒川先生の言うとおり、勉強はしたほうがいいよ」と言う。
「黒川先生はああ見えて勉強が得意らしいから、素直に従ったほうがいいね」
「七色さん、どうして黒川先生が勉強得意って知っているんだ?」
ぼくの疑問に七色さんは某有名私立大学の名前を出した。
「それが黒川先生の出身校さ」
「へえ。クロセンってエリートじゃん」
モモが感心したように言う。
「……なんで七色さんはそんなこと知っているんだ?」
普通は担任の出身校なんて知らないだろう。
「ふふふ。内緒さ」
そんな風に誤魔化されたら、すっきりしないなあ。
下駄箱から靴を取り出し外へ出る。そして歩き出す。
七色さんの家は竹波市にあるのでちょっと遠い。良い運動になりそうだ。
「うーん、いい天気だねえ。ようやく暖かくなって気分もいいや。こんな気温だとすぐ眠くなっちゃうねえ。春眠暁を覚えずって本当だねえ」
「桃山ちゃん、春眠暁を覚えずは昼間の睡眠のことじゃなくて夜の睡眠のことを詠った詩の一部だよ?」
「えっ? そうなの?」
「暁とは夜明け前の時間を指すんだ。明け方と言ったほうがいいかな。だから昼間にうとうとしてしまう場合には使わないほうがいいね」
「ふうん。ぼくも知らなかったなあ。でも役不足と同じ感じでみんな間違ってるんじゃない?」
そう訊くと七色さんは厳しい顔をした。
「私はね伏見ちゃん――桃山ちゃんも聞いてほしいんだけど、日本語の乱れについて一言言いたいんだ」
おっと、これは話が長くなるパターンだ。
「いろいろ言いたいけど、まず言いたいのは文頭で『なので』を使うのは間違いだってことだ」
「……ぼくはよく使うけど、それって駄目なの? 使いやすいし、結構便利じゃない」
日記にも使うしね、『なので』。
「そう。便利だからとか言いやすいからとかそんな安易な理由で、美しく崇高な日本語が汚されていくのは許せないんだ。文頭で『なので』を使う小説なんて愚に愚を重ねた愚劣極まりない。もちろん読まないという消極的な対応はしないがね。しかしそういった日本語を正しく使えない文章の書き方の小説は決まって面白くもない。展開が陳腐で構成が稚拙で結末が凡庸だ。つまらなくてたまらないんだ」
「でも、わざと崩してる人もいるじゃない。言葉遊びって言うんでしょ? それはどうなのよ」
モモの何気ない質問で少し冷静になったのか、七色さんは語調を和らげた。
「そうだね。しかし、そういった言葉遊びを小説に取り入れる作家ほど日本語に関しては上手に紡ぎ上げているんだ。まるで上質な絨毯のようにね。そもそもスキルが無ければ言葉遊びは面白く伝えられないからね」
「技巧にこだわって内容が薄い小説もあると思うけど、その辺はどうなのよ?」
モモ、いつになく挑戦的だな……。
「残念ながらそんな小説がないことはないのが現状だね。作家と編集担当が読者への橋渡しが上手くいかない結果として有り得る産廃はあるだろうね。でも現在の日本の出版業界は世界から見ても優秀であるし、そんなものはなかなか見当たらない。幸せなことにね」
「あるのかないのか、はっきりしてほしいなあ。そうやって誤魔化すのはななちゃんの得意技みたいだよね」
「問題を曖昧にして、お茶を濁すのは物事をはっきりさせないことを目的にしているわけではなく、むしろ問題を明確化させることになるということを桃山ちゃんはまだ理解していないのかい?」
「あっはっは。訳が分からないよう」
「それはともかく、『なので』の使い方について教えてよ」
ぼくが話を強引に元に戻すと七色さんは、「ああ、そうだ」と気づいたように言った。
「そうだね。『なので』は文中に使うのが正しい。雨が降りそう『なので』傘を持っていこう、というように使うんだ」
なるほど分かりやすい。だけど今まで接続詞のように日記に書いてあったからなあ。今度から気をつけて書こうとぼくは思った。
「他には何かあるの? 役不足みたいな慣用句。ななちゃんが怒り心頭に発するヤツ」
正しい慣用句でかしこさアピールするモモだった。ていうか今のもそうじゃない?
「そうだね――例えば『敷居が高い』の意味は伏見ちゃん、分かるかい?」
「えっと、自分の身の丈には合わないって意味かな?」
「それは違う。『敷居が高い』は悪事を働いた者がもう一度のその場に訪れるのを忌避することを意味するんだ。分相応の場所という意味は間違ってるんだ」
「へえ、そうなんだ。でも芸能人の旅レポとかよく使ってるの見たことあるよ」
「芸能人は国語できなくても大丈夫な人種だからね。まあしょうがないよ」
おどけたようにモモは言って笑った。
「いくら国語ができなくてもいいが、最低限日本語ができなければレポートする意味がないと私は思う。それに高級旅館で『敷居が高い』と言ったらどんな無礼を働いたのか、逆に興味が湧く。そう思わないかい?」
確かにそうだ。想像すると笑えてくる。ところ構わず暴言吐いたりしたのかな?
「まあ他にたくさんあるが、控えておこう」
「うん? ああ、もう着いちゃうね」
気がついたら、七色さんの家の目の前だった。友達と話していたら時間がよく飛ぶ。しかし、日本語の言い間違いを語る高校生って少し嫌味があるようなないような。
「さあ、あがろう。そういえば良い茶葉が手に入ったんだ。美味しい紅茶を淹れてあげよう」
「あたし砂糖たっぷりが良い! ころくんはどうする?」
「ストレートで。砂糖もミルクも要らない」
「分かった。じゃあ先に部屋に行ってくれ。今、鍵を渡すから」
バックの中から鍵を取り出し、ぼくに預けて玄関のドアを開ける七色さん。そして「ただいま」と言いながら家に入った。
「おじゃまします!」
「おじゃましますー」
それに続いてモモとぼくは家の中に入る。
七色さんの家はぼくの家と比べると二倍くらい大きい。まあぼくとゆめ姉しか暮らしていないからちょうど良いと言えばいいのだけれど。とにかく玄関に三人一緒に入っても余裕がある。
ぼくは靴を脱いであがろうとしたところで「いらっしゃい」と声をかけられた。
その声に反応して前を見ると七色さんのお母さんが居た。
七色さんのお母さん――名前は森下あけみさんだ――がいつものように静かに笑ってぼくたちを出向かえてくれた。
「そしておかえりなさい、ななみ。今日も部屋に篭って読書会かしら」
「ママ、そんな言い方ないんじゃあないか。私たちはそれで十分楽しんでいるのだから」
「そうね。楽しみ方は人それぞれだわ。ところでこころちゃん、脚の具合はどうかしら」
「なんとも言えませんね、今はまだリハビリ中です。でも回復はしてます」
ぼくが答えるとあけみさんは「そう、それは良かったわ」と微笑んだ。
「ママ、あの茶葉使っていい? 二人に飲ませたいんだ」
「ええ、いいわ。ついでにスコーンを焼くから持って行きなさい。焼きたては美味しいから、きっと気に入るわ」
そう言うとあけみさんはおそらく台所の方へ向かった。
……いつもながらいきなり会話を終わらせてどっか行くのはちょっと困るなあ。あけみさんは七色さんと同じくらいミステリアスだけど質が違う気がする。まあ、良い人ではあるんだから、あれこれ言うもんじゃあないかな。
それに美人だしね。
「それでは、ななちゃんの部屋に行こうか」
モモがパンと手を鳴らして置いてあったスリッパを履き、七色さんの部屋に行く。ぼくも同じようにスリッパに履き替え、モモの後に続く。脚を庇うフリを忘れずにして。
「ころくん、早く開けてよう」
「そんなに急かすなよ。今開けるから」
「なあんで、いつもころくんに鍵を渡すのかな。あたしでもいいじゃん」
「モモに渡すぐらいならその辺のおっさんに渡したほうがマシだと思う」
「ひっど! あたしなんかした!?」
「モモはそそっかしいからな。前に貸した本を失くしかけたし……よし、開いたぞ」
ドアを開けて入るとそこには本棚がところ狭しに並んでいる光景が広がった。まるで図書室みたいな内装だが、クローゼットやベットがあるのが、かろうじて私室の態をなしていた。
「この前来たときよりも本が増えてるな」
本棚に手を添えながら呟く。ほんの一週間前はスペースのあった本棚に小説がびっしり詰まっている。羨ましいと思う反面、よくもまあこんなに本を買うことができるなあと呆れてしまう。
「ふむふむ、昔の純文が多いね。でも新書もたくさんあるし、幅が広くなってるね。あ、これあたしが読みたかった恋愛小説だっ!」
目聡く見つけたモモは勝手知ったる他人の家のごとくベットの上に置いてあるクッションを座布団代わりに敷き、読書し始めた。
ぼくもそれに倣って本棚から小説を取る。
タイトルは『蒼くて儚い宝石』という。作者は聞いたことがない人だった。
とりあえず初めに表紙を眺める。男性が女性を後ろから抱きしめている。見た感じ恋愛小説のようだ。次に帯を確認する。『あなたって残酷だわ』と書かれている。これは作中の台詞を引用しているタイプの帯だ。そして裏返してみる。『空前絶後のサスペンス!』という惹句が裏表紙の帯に書かれている。
なるほど、サスペンスか。分かりにくい。
ぼくは改めて表紙を眺めて、それからページをめくり、読み始めた。いきなり冒頭から殺人シーンの描写があり、陰鬱な気持ちになった。それも一思いに殺すのではなく、言葉にするのも、文字に起こすのも嫌になるような残酷な殺し方だった。そして、殺した後は延々と死体を嬲って犯して陵辱する。この人殺しはネクロフィリアのようだ。胸糞悪くて吐き気がするのにページが進む。この作者は読ませる能力が高い。これは持論だが読ませる能力は才能に近い。難解な文章でも読ませる能力があれば読者は面白いと思うし、逆に平易な文章でも読ませる能力がなければ、つまらなくなる場合がある。そしてストーリーの質の良さは比例する。名文が散り込まれている小説ほど物語は面白く感じる。しかし、名文は書こうと思ってるも書けるものではない。読ませる能力と同じで才能が必要だ。
才能。欲しいと願う者ほど熱望して切望する。だが誰も彼もが手に入れられるものではない。その事実に気づいて絶望して失望するのだ。ぼくは陸上選手だったこともあって、このような才能に対してシビアな考えを持っている。分かるのだ、スタートの合図で走り出すとき、隣の人間が自分よりも速いのか遅いのかが。つまり才能があるのかないのか。
百メートルを走りきるのは誰でもできる。しかし誰よりも速く走れる人間は限られてくる。ぼくは限られた人間、選ばれた人間、才能のある人間だった。だけどそれは過去の話で今は別の才能が芽生えつつある普通の高校生だ。まあ『シック』を才能と言ってもいいか分からないが。そして『キャリア』が普通の人間かどうか分からないけど。




