語り部 伏見こころのこと その4
少し過去の話をしよう。過去と言っても一年前ぐらいの話、ぼくがまだ中学生のころの話だ。
ぼくは陸上部に所属していた。理由は単純で脚が速かったからだ。それにゆめ姉やモモに勧められたのもある。
種目は短距離走。
これは自慢になってしまうけど、ぼくは中学一年のときから誰よりも速かった。いつもゴールテープを切っていたのは、ぼくだった。
小学校のころから走るのが得意で、中学生になってからは顧問の高見先生の指導の下、走りのテクニックや練習を積み重ねて、飛躍的にスピードが上昇した。
自分が速くなることを自覚できるのは楽しかった。記録は正直で、新記録が更新されるたびにゆめ姉とモモ、中学一年生から仲良くなった七色さんと一緒になって喜んだ。
ぼくはそれに浮かれてしまった。簡単に言えば思い上がってしまったのだ。今でも思い出すと昔のぼくを殴りたい気持ちで一杯になるくらいだ。
例を挙げれば授業をサボったり、テスト期間中に勉強をしなかったり。
そのせいで成績は散々になった。それでもぼくは気にすることはなかった。本当に愚かだった。愚劣と言っても過言ではない。
モモと七色さんとゆめ姉が真摯な苦言をぼくに呈したのだけど、そんな言葉を聞き容れるほどぼくは賢くなかった。むしろ反発し、ますます乱行を繰り返した。
学校側もぼくの行動を容認した。大会に出れば確実に優勝したし、県の代表に選ばれて全国大会に出場する生徒を擁護しない学校はいない。それが余計にぼくを調子に乗らせ、助長させた。
今から考えると良くモモと七色さんはぼくと縁を切らなかったのだと思う。絶交する選択肢もあったはずだ。だけどしなかった。
二人に感謝しなければならない。中学のころは当然に思っていたけれど、当然じゃなかったんだ。
そんな最低最悪のぼくに、いよいよ天罰が下る。
天罰。そう形容するしかない、傲慢なぼくに対する、まさに天からの裁きだった。
六月の初めに葉桜高校とは雲泥の差のまさしく文武両道を体現した学校である志動高校への推薦入学が決まって、後は最後の大会で結果を残すだけになったときだった。
事件は県大会の決勝で起こった。
以前から右脚に違和感はあった。それでも気にしてなかった。気のせいだと思い込んでいた。
百メートルを最後まで走りきることができなかった。途中で倒れこみ、その場でうずくまってしまった。
激痛の中、観客席が見えた。ゆめ姉が何かを叫んでいた。モモは信じられないって顔をしていた。いつも冷静な七色さんも取り乱していた。高見先生が倒れたぼくに走って近づいてくる。そこでぼくの意識が途絶えた。
気がつくと病室にいた。目覚めたとき目に入ったのは悲しそうな顔をした姉と親友の三人だった。
それが一番辛かった。
「ぼくの脚はどうなったの?」
誰も質問に答えてくれなかった。でもその沈黙が何よりの答えだった。
右脚の腱が完全に切れている。そう主治医の先生が教えてくれた。脚を固めれば歩くことはできるけど、走ることはもうできないらしい。
その宣告を聞いても実感が湧かなかった。泣くことができなかった。辛くて悲しいはずなのに。
そんなぼくの代わりにゆめ姉とモモ、七色さんが泣いてくれたのが、何故か救われた気がした。
それからが地獄の始まりだった。思ったように動かない。歩くどころか立つだけで激痛が走る。そして二度と走ることができないという事実。それらがぼくを苦しめた。
リハビリに耐えることができたのは、ゆめ姉とモモと七色さんの献身的な看護のおかげだった。歩くこともままならないぼくを励まし支え、時には叱ってくれた。
特にモモと七色さんは学校もあるのに、それも受験生だというのに、毎日毎日見舞いに来てくれた。
モモはフルーツの盛り合わせを週一で持ってきたし、七色さんは暇なとき読むようにと本を大量に持ってきた。食べきれないし読みきれないしで大変だった。結局はみんなで食べたり読んだりして時間を過ごした。
こうした穏やかで苦しい時間がゆったりと流れて三ヶ月ぐらい経ったころ。
ぼくは、松葉杖を使ってだけど、再び歩けるまで快復した。
歩けるようになったとき、ぼくは初めて泣くことができた。心のつっかえが取れた、そんな気がした。
泣いたぼくを見て、ゆめ姉も泣いた。泣かせてばかりで申し訳ないなあと反省した。
放課後になって病室に来たモモと七色さんを立って出迎えたら、二人は驚いてフルーツと本をそれぞれぽとりと落とした。
数秒フリーズした後、二人はきゃあきゃあ騒いでぼくを抱きしめた。
勢いが良すぎてベットに倒れこんだ。つまり押し倒される形になったわけで。
「ころくん、ころくん、ころくん――!」
「伏見ちゃん、良く頑張ったね!」
抱きつき癖のあるモモはともかく、七色さんまで抱きついてくるなんて予想もしなかった。今思い出しても恥ずかしい。
五分くらい経ってようやく離れた二人は笑顔でおめでとうと言ってくれた。七色さんは少し恥ずかしがっていた。いつも冷静な七色さんにしてはレアな反応だった。可愛いなと思った。
それから歩く練習を重ねて、やっと松葉杖なしで日常生活に支障が出ないようになったのが、一ヶ月後のことだった。
そしてようやく学校に行けるようになったのは十月の終わりのころだった。
担任の先生から、志動高校への推薦入学が取り消された旨を伝えられた。
衝撃を受けた――という訳ではなかった。予想はしていたし、逆に安心した面もあったりした。進学校でもある志動高校に脚が速いだけしか取り柄がないぼくが勉強に着いていけるとは思えなかったからだ。
仕方がなくぼくは葉桜高校を受験することにした。そこなら近いし、偏差値的に対して勉強しなくても合格できるからだ。
驚いたのは、モモと七色さんが葉桜高校を受験すると言い出したことだった。
七色さんは頭が良い――学内でもトップクラスの学力を持ち、校内テストでも上位をキープしていたし、模試でも偏差値がかなり高かったと思う。
モモも七色さんに負けるがこれまたテストで上位に食い込んでいた。意外と勉強ができる子なのだ。
「どうして葉桜高校を受けるんだい? もしかしてぼくが原因かい?」
そう訊くとモモはいつもの笑顔でこう答えた。
「そうだねえ。ころくんのせいかな。だってころくん馬鹿だから葉桜高校ぐらいしか受かんないでしょ? だけどあたしたち二人ともそんなころくんに惚れちゃってるから、一緒に居たいんだよ」
それに応じて七色さんは言う。
「私たちは伏見ちゃんが大好きで大好きでしょうがないのさ。なに、就職は大学で決まるし高校なんてどこでもいいよ。親友と別れ離れになるほうが辛くてたまらないしね」
ぼくはなんて恵まれてるのだろう。ぼくのことを想ってくれる人がここに二人もいるなんて!
感激したぼくは二人に抱きついたのは心の奥底にしまいたい秘密だ。テンションが高すぎたんだと思いたい。
そんなこんなでぼくたち三人は葉桜高校に入学した。今までの紆余曲折があったせいで、二人――ゆめ姉を含めて三人か――には頭が上がらない。だから高校生活に慣れて、脚の具合が良くなったら
快気祝いに何かしてあげようと密かに計画していた。
なのに――
「どうして、治っちゃったんだろうなあ」
ぼくは大の字になって地べたに寝ころんでいた。走り出して転んで、そのままだ。ジャージが汚れるのは気にしない。
気になることは他にもあるのだ。
さしあたってはぼくの脚のことだ。何故、完全に快復して走れるようになったのか。
「何か奇跡的なことが起こったのかな? でも、そんな上手くいくわけないよな」
ぼくの人生だもの。上手くいったら始めから怪我なんてしないよな。今頃志動高校で青春してるだろうし。
「これからどうしたらいいんだろう」
短く呟く。声に出してみるとますます不安が募る。泣き出したい気分だ。さっき散々泣いたというのに。怪我をしてからぼくは弱くなってる。確実に貧弱になっている。ぼくは駄目な人間だ。
「やっぱり、ゆめ姉に相談したほうがいいか……」
いずれ辿りつくだろう結論を回り道をせず言う。絶対にゆめ姉には言わなければならない。こんなこといつまでも隠しておけない。
ぼくはモモの言うとおり馬鹿だからひょんな拍子に露見してしまうだろう。そのタイミングでバレてしまったら最悪だ。それならばいっそのこと打ち明けるのも一つの手だ。いや一つしかないだろう。ぼくには打ち明けるという選択肢しかないのだ。
「……言いたくないなあ」
今更治ったって遅い。ぼくはモモと七色さんを巻き込んで葉桜高校に入学したんだ。二人は気にしてないって言ってたけど、あんな底辺高校に入学なんかしたくなかっただろうに。特にモモは制服フェチだから、制服が可愛い高校に行きたかったはずだ。それがぼくの怪我が原因で、ぼくの看護が目的で入学したのに治ってしまったら、まるで――
「まるで、踏んだり蹴ったり、弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂だ。言葉じゃあ言い表せないくらい、不幸だ。死にたくなるよ」
いっそ死んでしまえば楽になるのかもしれない。思考が短絡的になってしまう。悪い傾向だ。負のスパイラルだ。ああもう……
「でも、治ったのは嬉しかったな」
そうだ、治ったのだ。また走ることができるのだ。それは喜びを感じていいだろう。また走れるのはそれこそ望外の喜びだ。
誰よりも速かったぼく。だけど走れないって分かったときは深く絶望した。再び走れるなんて希望なんてなかった。走りたいという切望しかなかった。
それが、それが、それが――
「走れるなんて誰が思うんだよ……もう、死にたくなるよ」
モモに禁止されてる口癖をまた呟く。だけど本当に死にたくなる気持ちで一杯だ。いろんな思い出やら現実やらで頭の中がぐちゃぐちゃになって、何も考えられなくなる。
それから十分、二十分経って。
ようやく最初の決意に戻る。
「……決めた。やっぱりゆめ姉に言おう。後は野となれ山となれだ」
モモたちはどんな反応をするだろう。喜んでくれるのかな。もしかして絶交されちゃうのかな。
それは嫌だなと思った。
身体を起こし立ち上がる。付いた砂や土を払う。結構汚れてしまった。まあ、あれだけ転げまわったんだ仕方ない。
「……? あれ? おかしいな……」
違和感に気づく。身体のいろんなところを触ったり叩いたりする。格闘技のレフェリーのように身体検査をする。
どこも痛くない。
痛くない?
痛くないということは怪我をしてないということだ。
おかしい。
あんな転び方をしたのに、どこも怪我をしてないなんて、かなりおかしい。
何故だ? 擦り傷ぐらいあっても不思議じゃないのに。
ジャージを捲って脚を露わにする。
綺麗な肌色。月明かりに照らされて青く光っていて、傷一つない。
不自然だ。転んだとき脚に痛みがあった。あったはずだ。あったはずなのに――
「ありえない……打ち所が良かったってレベルじゃあないぞ……」
不思議というより不気味だ。気味が悪い。ぼくの身体にどんな異常が起きている?
ぼくの身体になんの異変が起こってる?
「……一応、腕も見てみよう」
そう思って、ジャージの裾を捲ろうとして――
ぼくは――狙撃された。
初めは撃たれたとは思わなかった。爆音と共に背中に衝撃が走って内蔵が掻き乱され肋骨が折れ最後に胸部を突き抜けた。撃たれた反動で前面から倒れこむ。身体に風穴が空きそこから鮮血が溢れ出す。見る見るうちに血の水溜りが出来上がった。
「ぐ、がぁぁあああああ!」
ケダモノのような叫び声が出る。自分の喉からこんな声が出るなんて驚きだ。いや、叫び声なんてどうでもいい。
痛い痛い痛い――
痛すぎて転げ回ることもできない。うつ伏せに倒れて動けない。
なんだ? 何が起こったんだ?
頭が混乱して考えがまとまらない。まとまらないけど、これが致命傷だとは分かる。どうしようもない致命傷だと分かってしまう。
ああ、こんなところで死んでしまうのか。
いつもいつでも死にたいと思っていたけど、こんなにも呆気なく味気なく死ぬのは嫌だ。訳の分からないまま死んでいくなんて。
「誰か……助けて……!」
助けを求めるが誰も応えてくれない。人気のない場所を選んだのが間違いだった。
力が抜けていく。意識が薄れていく。もう痛みが消えて何も感じなくなる。
代わりに冷たくて寒くて凍えて無くなる感覚。
そして――
心臓の鼓動が――
「………………………………?」
あれ? おかしいな?
心臓の鼓動が止まらない。止まるどころかむしろ正常に動いて――いる?
「な、なんでだ? ぼくは、死んだはずじゃあ?」
ゆっくりと身体を起こす。血まみれのジャージからぽたぽた血液が垂れる。だけど痛くない。どこも傷ついてない。
傷ついてない?
傷ついてないだって?
奇妙だ。何かがぼくの身体を貫いて――この時点でぼくは狙撃されたと気づいた――死にかけたはずなのに。
よく見ればジャージに穴ができている。その痕を覗くと傷がない。指を突っ込んでみても、粘ついた血液が付着するだけで痛みもない。
怪我が治っていた――
「ぼくの身体、どうなってんだ? 脚が治ったり傷が消えたり、おかしいだろ。異常過ぎる。ホントに何かがどーにかなっちまったのか?」
ぼくは、自分の身体の異常に気を取られ過ぎていた。元々頭が良い人間じゃないから少し考えれば分かることが分からなかった。
狙撃した人物がいる――
そんな単純なことが頭に浮かばなかった。
その事実は自分の身体の異常より大事なことだって分かるはずだ。今すぐ逃げなくちゃいけないことだって分かるはずだ。
だから――
「くふふ。どうしたことでしょう。確実に急所を撃ち抜いたのに。絶対に致命傷であるのに。なんで死なないんですか?」
後ろから近づく影に、もう数mまで迫ってきている声に、ぼくは気づくことができなかった。
「なっ――! 誰だあんた――ぎゃああ!」
振り向いたぼくにかけられたのは声ではなく銃声――銃弾。
一発、二発、三発――
それぞれが左脚、右脚、右腕の関節に容赦なく順番に撃ち込まれる。
二回目からか痛みが先ほどよりも強くなっている。
叫び声を挙げながら転げ回る。
「くふふ。これは面白い。今にも出血多量で死んでも不思議じゃないのに――」
誰かが何かを言っている。ぼくはそんな場合ではなかった。痛みで悶えてまたしても考えられなくなる――
と思ったら痛みが消えた。無くなった。
「…………? はあ?」
「あら。もう回復したんですか」
感心したような声。ぼくはようやく声の主を見ることができた。
そこにいたのは、この国では携帯を禁止されている銃を携えた、二十代後半くらいの大人の女性だった。
背は高い。ぼくは倒れていて判然としないけど、おそらくは七色さんと同じかそれ以上の背。髪は長く腰まであって、紐か何かで縛っていない。何故か烏の濡れ羽色という慣用句が頭に浮かんだ。服装は黒ずくめ。どことなく軍人を想起させるような出で立ちだ。顔色は悪くいつも冴えないぼくよりもなお悪い。青白くてまるで幽霊みたいだ。
そんな特色よりもさらに特徴的なのは――眼だ。黒の中に赤色を混ぜたような瞳。絶対零度の冷たさを表したような瞳。
どんな形容詞でも形容しがたい、どんな名詞でも名状しがたい、瞳。
見ているだけで分かる。これは人殺しの眼だ。
ああ、ぼくはこれから殺されるんだと分かる眼だった。
「そんなに怯えないでくださいよ。初対面なのに怯えられると悲しくなるじゃあないですか。まあ、あなたが人見知りだという可能性も無きにしもあらず、ですけど」
初対面なのに発砲してきた人の言う台詞ではない。その理解不明さがさらに恐怖を増した。
「あ、あんたは何なんだ! どうしてぼくを殺そうと――」
「わたくしですか? わたくしは漆原凛。見ての通り、軍人です」
しれっと自己紹介をされた。見た目は確かに軍人っぽいけど、まさかこの日本で軍人を職業にしてる人と会うのは初めてだ。
自衛隊員なら何度か会ったことあるけど――いや、そんなことはどうでもいい。
「なんで、ぼくを殺そうとするんだ!」
訊けなかった質問を繰り返す。ぼくはパニックになりながらも機を窺っていた。そう逃げられるタイミングを図っていた。
「そうですね。殺そうとしたわけではありません。殺すつもりでした」
細かい訂正を入れてくる、漆原さん――危険極まりない人物に、さん付けするのは気が引けるけど――は物騒なことを言う。まるで近所の子供に挨拶するような気軽さで殺意を言葉にする。
「ううう……」
身体が震える。がちがちと歯の根が鳴る。
痛いのは嫌だ、痛いのは嫌だ、痛いのは嫌だ――
「怯える必要はありませんよ。訊きたいことがあるのです。正直に答えてくれたら解放しますよ」
「訊きたいこと? な、なんなんですか!」
自然と敬語になるぼく。銃を持ってる人に対してはこれがベストの対応だと思うから。
「ええ。あなたが最近話題の通り魔ですか?」
「えっ? ど、どういう――」
「だから、人間解体して楽しんでる変態野郎かどうか訊いてるんですよ。同じことを二度も言わせないでくださいね」
言い方は丁寧だけど言い草は酷かった。慇懃無礼とはこのことを言うんだな。
「ち、違います! そんなことしてません!なんでぼくがそんなこと――誤解です!」
必死になって否定する。信じてもらえるように無実を大声上げてアピールした。
「ふうん。そうですね――」
漆原さんは何かを考える仕草をした。目線を斜め下に動かし銃を持っていない左手を口元に添える。
銃口はこちらを向いていない。
今だ!
ぼくは自分が出来得る限りの俊敏さをもって最小の動作で立ち上がり――後ろへ走り出す。撃たれた両脚と右腕はすでに治っていた。あとは機会だけだった。一瞬だけ注意を逸らせば逃げ切れる。ぼくの脚が完全に快復しているならば逃れられる。それほどぼくは脚に自信がある――
「おっと、どこに行くんですか?」
自信。それが打ち砕かれたのはぼくの俊足よりも速かった。
たった一発。
それだけでぼくの自信とともに足首が撃ち抜かれた。
「ひぃい、ぐぁああ!」
今日何度目か分からない悲鳴をあげる。そしてそのまま前から倒れた。
「なかなか素早いようですけど、わたくしの弾丸のほうが速いようですね。まあ当たり前ですが」
そう言いながらぼくの身体に銃弾を打ち込む。
銃声、銃声、銃声。
「う、ぅううううう」
痛すぎて唸り声しか出ない。
「これぐらいでいいでしょう」
やっと終わった――と思ったところに鋭い痛み。
ナイフで左手の甲を突き刺し地面と固定する。まるで昆虫の標本のようだ。
「さて、落ち着きましたか? 冷静にお話できますか?」
こんだけ痛めつけておいて何が冷静にだ。この人は頭がおかしいと確信した。
「一応、もう一度訊きますね。あなたが犯人ではないんですね」
「……そう、です。犯人じゃあ、ないです」
途切れ途切れ答える。左手が痛すぎて涙が出てくる。
「だったら逃げないでくださいよ。無駄に銃弾を使わせないでください。一体いくらかかると思うんですか。別にわたくしが払うわけではないんですけど。でも無駄遣いは良くありませんね」
そう言ってくふふと笑う。
「もう、降参します。逃げませんから、ナイフを抜いてください……」
「駄目です。まだ答えてほしいことがありますから」
「質問って、なんですか? なんでも答えますから、早く抜いて――」
「素直に答えてくださったら抜きます。約束しますよ。なに、たった二つの質問です」
「わ、分かりました! 早く質問してください!」
「まず一つ目」
漆原さんは一呼吸置いて言う。
「あなた、いつからそんな身体になったんですか?」
その質問の意図は分からなかったけど率直に答える。
「三日前です! 古傷が治ったのが分かったのが三日前です! 怪我がすぐ治るのは今日知りました!」
「なるほどなるほど。まだ『発症』したばかりですね。まさか『保菌者』が街に二人もいるなんて予想だにしませんでした」
意味不明な独り言を口にする漆原さん。少し考えるようにした後、続けて二つ目の質問に移る。
「通り魔に心当たりがありませんか?」
「ないです! あったら警察に言います!」
「あら、健全な市民ですね。分かりました。外しましょう」
約束を守るという言葉は嘘ではなく、質問が終わるやいなやナイフを取ってくれた。図ぼっと音が立てて抜ける。刺されたときも痛かったけど抜くときも痛かった。
「質問は以上です。これからは勧誘の時間ですね」
ぼくが立ち上がるとほぼ同時に漆原さんが声をかけてきた。
「勧誘……?」
「もちろん壺を買えだとか怪しげな宗教サークルとかチャチな勧誘ではありませんよ」
つまらないことを言って、くふふと笑う。
笑いの沸点低すぎだろ。
「あなた――そういえば訊いてませんでしたね。あなたのお名前は?」
「……伏見こころです」
教えるのはどうかなと思ったけどあえて教えた。なぜなら、まだ拳銃を構えていたからだ。
撃たれた傷とナイフで刺された傷はいつの間にか治っていたけど、逃げる気がしなかった。
「良い名前ですね。では改めまして伏見こころさん」
漆原さんは月に照らされながら、人殺しのような眼を輝かせながらぼくに問う。
「わたくしと一緒に――通り魔を殺して街に平和と秩序を取り戻しませんか?」
そんな物騒なことを言った漆原さんは不思議と爽やかな笑顔だった。
こうして、ぼくの物語が始まった。
いや、すでに始まっていて、ようやくぼくが気づいたというほうが正しい。
殺人事件と通り魔。
この二つがぼくの人生をめちゃくちゃにしてしまうなんて――
このときは想像出来なかった。




