通り魔 ???のこと その3
「こころさん、しっかりして――いや、無駄ですね。しばらくそこで放心していてくださいね」
漆原さんがぼくを放置して、黒川に向き合う。黒川はどうでもよさそうに訊く。
「……ところで、俺は殺されるのか?」
「いえ、『シック』の『症状』の程度によっては抹殺しなければなりませんでしたが、感染力も低い『ステージ1』ですので、隔離されるか警察に引き渡すかの二択ですね。まあ後者でしたら確実に死刑になりますから、結局は殺されると思います」
「そうか……それはごめんだな」
「? 何を――」
「ユートピア、俺を助けろ!」
そう叫ぶと、黒川の姿が忽然と消えた。
まるで存在を消したように。
まるで存在を殺したように。
何の痕跡を残さず消えた。
「おやおや、無駄なことを……脚を満足に動かせないのに、どう逃げる気なんでしょうか。まったく――」
逃げる? あいつが逃げるだって?
九人も殺して、七色さんを殺して。
そんなのは許さない。
そんなのは許されない。
誰が許してもぼくは許さない。
逃がさない。
「こころさん、何をする気ですか?」
漆原さんが何か言ってるけど、全然聞こえなかった。聞く気も無かった。正気でもなかった。
ナイフを右手で取り、左手に当てた。
そして――引く。
ぶしゃああと鮮血が辺りに飛び散る。
すぐに治ってしまうので何度も切り裂き血をばら撒いた。
何度も。
何度も何度も。
何度も何度も何度も。
ぼくらが居る路地裏が血だまりになるまで血を流し続けた。
すると、一ヶ所だけ血が付着していないスペースができた。
そこだけが綺麗に穢れてはなかった。
「なるほど、考えましたね」
ぼくの血で汚れてしまった漆原さんはその綺麗なスペースに向けて歩き、そして踏み抜く。
「ぎゃあああ!」
「運よく怪我した場所を踏めたようですね」
踏んだ瞬間、ユートピアとかふざけた『シック』の効力が痛みのせいで切れたのか黒川は姿を現した。
「はあ、はあ、くそっ!」
「貴方のユートピアは純粋すぎる。一切の穢れを許せない貴方の理想の教育と同じで、融通が利かない。姿を消え去る『シック』は飛び散った血液さえも透明にしてしまう。やはり『シック』は便利なものではありません。そう思いませんか? こころさん」
「そうですね……」
血がなくなってもくらくらしない。痛みすら消えた。本当にぼくの身体は『シック』に侵されているんだと実感する。
その事実が――ぼくを苛む。
だってそうだろう? 七色さんを殺したのと同じ『シック』がぼくも持っているんだから。
「伏見! 貴様、殺すぞ!」
黒川は苦しみながらぼくを睨みつける。ぼくは、「だったら殺してみせろよ」と挑発した。
殺せないと分かっているからだ。
「ぼくを殺せるもんか。逆に殺してやりたいよ。七色さんの仇だから――」
「森下か。あいつ、死ぬ前にお前の名前を言ってたぞ!」
その言葉にぼくの身体は硬直する。
「あいつは最期の最期で泣き喚いていたぞ!伏見ちゃん助けてってなあ! 俺はあいつを切り刻んでやった! バラバラにしてやったぞ! ふはははは!」
もう限界だった。ぼくの精神の許容量を超えていた。ぼくは血まみれの穢れた手で顔を覆った。血はもう冷たくなっていた。
その冷たさが、七色さんの死を感じさせていた。
ぼくはもう耐え切れなかった。通り魔だった黒川のことも親友だった七色さんの死も自身の『シック』のことも全て忘れたかった。
でもこれは現実だった。正義のヒーローがいない。悪人だらけの世の中だって自覚したんだ。
この世界に神様はいない。いたとしても助けてくれないのだ。ただ弄んで馬鹿にするだけだ。決して悪人を罰しない。
そう悟ったぼくの目から涙が流れ出た。
ぼくはこのとき悲しくて泣いたのではなった。そして怒りで泣いたわけでもない。
失望。それがぼくが泣いた理由だ。
顔が血まみれになって冷たさを感じられなくなって。
ぼくの張り詰めていた気持ちが途切れてしまった。
喪失感にも、罪悪感にも、怖れにも、後悔にも、この世全ての負の感情にも耐えられなくなった。
覆われた両手の下で「七色さん」と呻いて眼を閉じたのは伏見こころだったけど――
その眼を開いたときには既に『ぼく』じゃなくなっていた。
「漆原さん、すみません」
そう断りを入れてから、ぼくはナイフを手に取った。
「こころさん、それはいけませんよ。それだけは決していけません」
漆原さんはぼくの肩を掴んだ。ぼくが何をする気か分かっている様だ。ぼくはそれを振り払おうとしたけれど、力が強く抑えつけられていた。
「漆原さん、ぼくは後悔しません。だからやらせてください」
「それは大人の役目です。子供がすることではありませんよ」
「分かっています。でもぼくがやらなきゃいけないんです。お願いします。責任はぼくが取りますから」
「責任ですって? こころさんができる責任の取り方なんてたかが知れてますよ」
「どうしても離してもらえませんか?」
「…………」
漆原さんは肩から手を離した。ぼくは振り返ると本当に悲しそうな眼をして、黙って頷いた。
「ありがとうございます」
ぼくは言った。
漆原さんは黙ったままだった。
ぼくは黒川に馬乗りになった。
「な、なにを――」
もう声を聞くのも嫌になった。
だからナイフを身体に突き刺した。
「が、あああ――あああああ!」
悲鳴すら聞くのもうっとおしい。
肉を貫く感触。
返り血を浴びる触感。
その全てをぼくは感じながらナイフを振るった。
胸や腹や喉笛を突いたり斬ったりした。
ぼくの頭を占めていたのは。
殺意だけだった。
殺す。
殺して殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――
「七色さんの分だ! 七色さんの! 七色さんの分だ!」
言葉が口から出てくる。
だけど七色さんの為じゃなく、ぼくの身勝手な行為だった。
殺すのは――復讐ではなくぼくの殺意だ。
「こころさん、もう死んでますよ」
はっとして手を止める。
苦痛に顔を歪ませた死に顔を黒川は晒してした。
安らかとは程遠い死に顔だった。
醜い。なんて醜い死に方だろう。
その姿を見つめていると漆原さんは明るく訊いてきた。
「こころさん、どうですか。人を殺した気分は? 晴れ晴れとしましたか?」
「いいえ――」
ぼくは正直に言った。
「意外と気分が悪くなるものですね。人殺しは。死にたくなりますね」
復讐は何も生み出さない。これは真理なんだなと思った。
「これから、どうする気ですか? 通り魔、殺しちゃいましたけど」
「とりあえず自首しますよ。今警察に連絡します」
もうどうでもいいや。
ポケットからスマホを取り出す。すると漆原さんが「ちょっと待ってください」と止めた。なんだろう?
「こころさん、ACAに入る気がありませんか? あなたなら歓迎しますよ」
「はあ? いきなり何言ってるんですか?」
「あんな下種な通り魔の為に人生を無駄にしてもいいんですか?」
「良くはありませんが――でも人を殺したら警察に行かないといけませんから」
「わたくしたちなら庇ってあげますよ」
漆原さんは真剣な顔をしていた。
「ACAの組織力を舐めてはいけません。これだけ騒いでも誰一人来ないでしょ? 警察や自警団も巡回してないでしょう? この事実はACAには権力があり実力があることの証拠になりませんか?」
「……どうしてですか? なぜぼくを勧誘するんですか?」
そう訊くと漆原さんは眼を伏せて、左手で髪を梳いた。
「そうですね――こころさんがこちら側に来てしまったからですね」
「こちら側? なんなんですか、それ」
「人を殺す人間になってしまったってことですよ。わたくしと同じですね」
否定はできなかった。黒川を殺す直前でぼくがぼくではなくなっていたからだ。
ぼくの心の中は憎しみと怒りに占められていた。心に宿る憎しみは、燃え盛るように湛える怒りは、溢れ出そうなほど強く、焼け付きそうなほど烈しくなり、復讐せよと叫び続けている。
だが同時に無力感もあった。復讐すべき相手は既にこの世に居らず、かといって気が晴れた気分ではない。晴れ晴れとしないのだ。同じことを繰り返すが復讐は何も生み出さない。
この感情を誰にぶつけたらいい? このままだとぼくは――
「こころさんは人を殺してしまいますね」
漆原さんはぼくに近づいてきた。正面に来ると少し屈み、胸に耳を当ててきた。
ぼくは「なにするんですか」と言おうと思ったけどなすがままにしていた。
「こころさんの心音は正常ではありません。人を殺したというのに心拍数が落ち着いていて、平常なままです。ですが――」
胸から離れ、目線を合わせる。ぼくは漆原さんの瞳に映る自分の眼の冷たさにどこか納得した気持ちで受け入れた。
「とても珍しい音ですね。砕けたコンクリートとガラスと錆びついた鉄がコールタールに飲み込まれるような、不思議な音色」
「…………」
「こころさんは殺す覚悟を決めたときから変わってしまったんですね」
ぼくの怒りと憎しみは晴れない。なぜなら悲しむことができないから。代替する感情が欠落しているからだ。
涙を流せたらどんなに楽だろう。
七色さんの死を悲しむことができたらどんなに楽になるだろう。
「ぼくは――人を殺さないと生きていけない人間になったんですか?」
まるで通り魔だ。
「ええ。断言できます。十数人で済めばいいですが下手したら街一つなくなりますね」
「それは漆原さんの見立てですか? それとも経験からの予想ですか?」
「後者です。本当に街が一つ地図上から消えたほどの『キャリア』が居ましてね。まあその『キャリア』は自殺してしまいましたが」
自殺か。いつも死にたくなると思っているけど本当に死にたいと思ったことがあっただろうか。
「普通の生活は諦めたほうがいいですか?」
「ええ。そうです」
「ぼくはこれから誰を殺さないといけないんですか? この怒りと憎しみを晴らすことができるんですか」
その言葉に、漆原さんは両手を広げる。
「わかりませんよ。でも自分でルールを決めてみたらいいんじゃないですか」
「ルールですか? それはどんな――」
「わたくしは悪人しか殺しません」
漆原さんはきっぱりと言う。
「ACAに入る以前にもわたくしは人殺してきました。たくさんたくさんたくさん殺してきました。しかし、悪人以外は殺さないと心に決めています。厳しく遵守しています」
あれ? おかしいな……
「……漆原さん、ぼくを初対面で撃ち殺そうとしたじゃあないですか」
「…………」
漆原さんは頬を掻きながら目線をずらす。明らかに誤魔化されているような……?
「でも、ルールを定めても意味があるとは思えません。気休めにしかならないと思いますよ。どうなんですか?」
「気休めでもいいじゃないですか。そう定めておかなければ、わたくしたちは無関係な人間を無感情に殺してしまうでしょう」
これは通り魔とは違う。黒川は自分の快楽と憎悪の為に殺していた。感情がなかったのではない。
「RPGで雑魚キャラを倒して経験値を稼ぐ作業のような喜怒哀楽のない殺しをたくさんするでしょう。それはもはや人間でもありません。世間ではそれを化物と呼ぶのです。ああ、感情を露わにして殺せという意味ではありませんよ。それに、こころさん、信用されないと思いますが、わたくしは人間が大好きなんですよ」
人殺しが何言ってるんだ? そう思ったけど黙って聞くことにした。
「わたくしは人間が好きです。大好きです。愛しています。そのために戦います。そう言い続けなければなりません。真実でなくっても、虚言であっても、そう自認していかねばなりません。なぜならそうしなければ、わたくしは人間を、悪人以外の人間も嫌いになってしまうでしょう」
「人間を嫌いに、ですか」
「ええ。嫌いになるでしょう。憎んでしまうでしょう。それだけは、それだけは避けなければなりません。心の中はもちろん、行動に表せなければ、普段からそうしておかなければ、努力しなければ――誰かのために戦うことなんてできなくなりますから」
誰かの為。
好きな人。
ゆめ姉やモモ。
そして七色さん。
ぼくは、彼女たちを殺したくなるんだろうか。ルールという頼りなさそうな脆弱なものに依らなければ――
この怒りと憎しみを晴らすために他人を殺すような化物に成り下がるのかな。
「さて、もう一度訊きます。こころさん、ACAに入ってくれませんか? わたくしたちなら、こころさんの殺意を抑える術もあります。殺意を発揮できる場を与えることもできます。殺す相手は黒川のような悪人に限定させます。決して善人を殺すような真似はさせません」
「……悪人でも殺したら罪になりますよ」
「いいえ。罰を与えると考えてください。死刑執行を実行する刑務官は悪ですか?」
「それは法に則って行っているので悪ではないです。しかし――」
「法を守ることが正義ですか? ならばわたくしたちがしたことは一体何でしょうか?」
漆原さんは理解できないとばかりに反論する。
「わたくしとこころさんは今現在、法律を破っています。殺人と殺人幇助ですね。けれど結果としてこの街を救っているじゃあありませんか」
「そんなの、詭弁じゃあないですか」
ぼくは悲しくもないのに、なんだか泣きたい気分だった。漆原さんの言葉がぼくの罪を正当化していくからだ。
「詭弁なんかではありませんよ。事実として通り魔を殺して、この街に平和と秩序を取り戻しました。これは純然たる事実です。誰も非難などしません。批評すらしないでしょうね。こころさん、街に平和と秩序を取り戻す行為を人は何と言いますか?」
「…………」
「それを人は――正義というんですよ」
漆原さんは熱を込めた口調で続ける。
「正義のために戦い、正義のために殺す。なんて素晴らしいんでしょう。誰かを殺すことが誰かを生かすことにつながるのです。わたくしたちのような人殺しでも世界を救うことができるのです。そう考えたら胸がすくような気持ちになります。社会不適合者でも社会を守ることができる、そう考えたら自分が救われるような錯覚を得られます。さあ、後は決断するだけですよ、こころさん」
漆原さんの言葉は呪いのようにぼくを縛った。このまま自首したところで何になる? 漆原さんの言うとおり無駄に人を殺すだけになるだろう。その自信と確信がある。
だったらいっそ――
「漆原さん、ぼく決めましたよ。ACAに入ります。そしてルールもね」
「おお、入ってくれますか。それにルールですか? 一体どんな――」
「殺す対象ですよ」
ぼくは遮るように言う。
空を見上げた。月明かりがぼくを照らす。
「自分の『シック』を悪用する『キャリア』をぼくは殺します。黒川みたいなね」
「……ACAに入隊したら、そうなりますけど。好むと好まずとに関わらずに」
「ですから、好んで殺すんですよ」
「どうしてですか?」
「こんなクズが」
ぼくは目線を下にやって黒川の死体を見つめる。その先にあるのは黒川の死体だけだったけど、そこにぼくは七色さんの笑顔を重ねていた。
「好き勝手に人を殺すのに我慢ならないからです。そして二度と七色さんみたいな犠牲を出さないためですよ」
「そうですか。では入隊の手続きを執りますよ。構いませんね?」
漆原さんが懐からスマホを取り出した。
「ええ。いいですよ」
このときのぼくの心情を語ることはできない。自暴自棄でありながら、どこか冷静なところがあったし、怒りと憎しみが心の中でぐるぐる回っていたし、その中心で無力感が動かずしっかり固定されていた。
ようするにぼくは――
正義云々を信じていなかったのだ。
そんなものは気休めに過ぎないと判じていたのだ。
「こころさん、それとどうしますか?」
なにやらスマホを操作していた漆原さんがぼくに呼びかける。
「なんですか? ここの処理とかですか」
「いえ、それはこちらでやります。訊きたいのは一つだけです」
スマホを仕舞いつつ、漆原さんはにっこり笑った。
「初めの仕事ですよ。こころさんには死んでもらいます。どのような死に方を希望しますか?」




