五月二十一日
手紙を投函した朝、僕は眠っていなかった。あれからずっと、静御前の横顔をスケッチしていたのだ。若宮で舞ったと言う、千年近くも前の静御前の眼差しを。
個人的な想いが絵に落とし込まれ過ぎたせいか、その顔は、どうやっても古風な白拍子のイメージにはならなかった。そもそも、芸を商う女性はもっと凛と、厳しい顔立ちをしていたはずなのだ。しかし何度描き直しても僕が描くのは海風を浴びて俯きながら、物思いに耽るあの清げな女の人になった。
思いを溜めた口元に、躊躇いと恐れ、そしてうつむいた瞳にどこか、先行きへの期待の色を含んでいた。
やっぱりあの女性が、美鈴さんだったのかも知れない。と、すれば僕の罪はかなり重い。手紙の返事が来たことで、美鈴さんはちょくちょく、鎌倉に足を運ぶようになってしまったのだ。
本人は手紙で思い切って過去の自分に会いに行った、と言うようなことを書いていたが、それなら何度も足を運んだりはすまい。ばっちり変な期待を持たせてしまったのである。だがよく考えてほしい。肝腎の彰大さんはもうここには、いないのだ。住んでいるのは、日雇いで何とか食いつないでいる自称画家の似ても似つかない若い男。流れ者要注意の不審人物だ。
例えばだ。思いの丈を募らせた美鈴さんがまかり間違って極楽寺のこの家に来たら、僕はどう弁解すればいいのか。これ完全に詰みである。
そうだ、これから久しぶりにスケッチ旅行に出よう。二か月くらい、知らん顔して、京都でも、熊野でも、あ、屋久島もいいな。無理だ。何せ、先立つものがないのだ。さらには今の日雇いの職と住居は世話になっている先輩のご厚意で、与えてもらっているものだ。いくら気ままな独居とは言え、鎌倉に着いた早々、許可なくばっくれていいはずがない。そんなことをしたら、僕はこれまでどうにか築き上げてきた、人の縁、と言う唯一の生命線を断たれるだろう。
(それに、いいのかよ)
心情的にも、ここまで肩入れしてしまった僕だ。あんな一途な人を、一時の気まぐれで弄んでしまった罪は、どうしても自分にある。ここへ来たら、彰大さんは随分前にここからいなくなった、美鈴さんにどう罵られても真相を告げるのが筋、じゃないか。
しかし、かなりへヴィだぞ。文章を通じて知己を得たとは言え、ぶっつけ初対面の年上の女の人に罵倒されるのだ。うう、でもしょうがない。僕がここですっとぼけてみろ、美鈴さんは未練を断ち切れず、せっかく婚約しているのに道を踏み外すかも知れないのだ。
それにだ。
(あなたが信じていることだって、決して間違いではないんだ)
ただそれは、僕の個人的な思いに過ぎない。いやそもそも、こんな身勝手な僕が、美鈴さんに伝えられるはずはないのだが。
怒られても良かった。
でも、僕だってあの絵を贈った真意を美鈴さんに話しておきたかった。
これだけは僕にも譲ることが出来ないものだ。そもそも即物的に見返りがないと、人は人を愛せないのか。ただ心の拠り所として、必要とすることなんて本当は出来ないのか。じゃあ芸術だけじゃない、すべての表現が礼賛する真実の愛なんてものは、全くのフィクション、営業上の方便になってしまうじゃないか。
美鈴さんにだってそれを、信じ続けてほしい。新しい将来に道をつながなくてはならないにしても、心に秘めている、ただそれだけのものとして。
僕に会って失望したとしても、それだけはどぶに棄ててほしくなかった。
滅茶苦茶な論理だ。でも明らかにばれるリスクを冒しながら、それでも例のスケッチを同封したのは、僕のちっぽけな見栄と意地なのだ。
だってだ。
だったら静御前は頼朝の前で、その勘気に触れるような舞を演じることはなかっただろう。鎌倉を棄てる必要はなかっただろう。鎌倉御家人たちは彼女にとっては上客なのだ。しかも鎌倉はまだ、開発途上の新市場なのだ。わざわざ京都に帰らずとも、新しい王都の権門勢家に顔をつなぎ、その芸で我が世の春を謳歌すればいいではないか。
あああ、自分がどうしたいのかよく判らなくなってきた。
こうなったのもそもそも、密香さんが悪いのだ。彼女がわざわざ二回も迫って来て、僕の痛いところを突かなければ、僕だって良識ある社会人の、オトナな対応がきちんと出来たのである。
その密香さんの所在が、判らなくなっている、そう聞かされたのは次の日の夕方だ。
青山で個展を開いた大先輩のところへ寄った帰りに僕は、津本さんに夕ご飯を奢ってもらう、と言う幸運にありつけた。
恵比寿では評判の焼豚屋だ。ここでは、朝市場でおろし立ての豚肉を在庫があるだけ調理してくれる。注文は仕入次第だ。
そこでまずお通しに青ネギにごま油と塩だけで和えた湯通ししただけのつやつやのコブクロや、ポン酢で和えたハツ(心臓)でビール。そこからはタン元(舌の根本)を筆頭にカシラ、軟骨、アブラを塩だけで焼いてもらい、自家製のオイキムチ(ぶつ切りの胡瓜を丸ごと真っ赤な唐辛子汁に漬けたやつだ)でウーロンハイ。いい気分で飛ばしていた時だ。
「水城くん、実はさ、密香さんのことなんだけど」
「うっ」
津本さんが唐突、その名前を口に出したので僕は、ウーロンハイを気管に詰まらせた。
「どうしたの?大丈夫?」
「いっいえ…(咳払い)なんて言うかその…今あんま聞きたくない名前って言うか。なんでかよく判らないんですけど帰国してから、やけにしつこく接触をとられたもので」
「そうか。もしかしたら、水城くんには迷惑かけちゃったかもな」
何とも言えない顔を、津本さんはした。
例の水溶社の連載の話だ。
実はそこに密香さんの持ち込みが度々あった、と言う。
担当編集者も顔見知りなために無碍にするわけにもいかず、原稿を預かってしまったのだそうな。
「でもあの連載、執筆する作家さん、もう決まってるって話したよね?」
津本さんの話によると、それは企画当初からのことだったらしい。僕の画と違って、こっちは最初からいくつか候補などありはしなかったのだ。密香さん、飛び込み営業とは思い切ったことをしたものだ。
「彼女も少し前だったら、候補に挙がったかも知れなかったけど、注文した初稿はもう上がって来てたし、やっぱり断るしかなかったんだ」
密香さんもそれでやけになったのだろう。それで津本さんから偶然、同じ企画に顔見知りの僕が関わっているのを知ったのである。そこであの鶯谷事件と言うわけだ。
「結婚する、だからもう書かないって彼女言ってたらしいんだけどなあ」
密香さんはそれでも、かなり熱心に企画を整え、相当にきちんとした形にしてから、売り込んできたようだった。長編を念頭に置いた掌短編すら、すでに書き上げられてあったと言うのだから頭が下がる。
「これがさ、僕も読んだんだけど悪くないんだ。お世辞抜きで」
作品は静御前と源義経に関するものだったが、鎌倉と言う都市の呪術的背景を舞台にして描かれた幻想譚や、資料性抜群の歴史ミステリのようなものまであったらしい。
自分の得意とするはずだったジャンルの可能性を、意欲的に模索した形跡がちゃんと見て取れたそうな。もうかつての『吾妻鏡』を下敷きに、聞きかじりのアイドル業界や大学生の恋愛をオーバーラップしたような小説ばかりを描く作家ではなくなっていた。
(なんだ)
僕と同じじゃないか。密香さん、売れないことにもめげず、作家としてちゃんと成長していたのだ。
「うん、そこの担当もびっくりしたらしいね。そもそもデビュー当時から彼女と付き合いがあった人なんだけど」
いざ読んでみて、その人も本気になった。ただの同情ではない。純粋にその原稿を世に出すために、顔見知りの出版社に紹介することを考えたらしい。
「そしたら今度は、肝腎の密香さんと連絡が取れないんだ、これが」
津本さんのところにまであわてたその方から連絡が入って、八方塞がりなのだと言う。
仕方なく僕は、自分の知っている情報を洗いざらい話すことにした。もちろん密香さんに関係を迫られたことは伏せてだ。彼女が新しい旦那さんに反対されて執筆に意欲を喪っていること、決して結婚に納得した雰囲気ではなかったことなどは、密香さんのためにも伝えておくべき情報な気がした。
案の定、それを聞くと津本さんはみるみる渋い顔になった。
「そうか。ここだけの話だけど、その縁談あんまり上手くいってないみたいだしな」
そう言うと、津本さんはその編集者が、密香さんから聞いたらしい内々の事情を語った。
その縁談は、以前にいた研究室の縁らしい。彼女をかわいがっていた教授の紹介なのだ。今時古風な縁談だが、密香さんの両親も研究者で元々家族ぐるみでつながりがあるのだと言う。小説の世界に走って今はあてもなく事務職をしている密香さんを見かねたのだろう。
しかしもっとも不幸なことは、彼女のお相手がまるで話に合いそうにない五つ年上のエリートサラリーマンだった、と言うことだ。
「暇なんですよ」
傲然と僕に言い返した、密香さんの眼差しが、思わず僕の脳裏に蘇った。結婚した以上、パートナーの意向に沿って筆を折るなんて方便だが、紹介してもらった教授に以前不義理をしていた手前、密香さんにもおいそれと割り切れない事情があったのだろう。
でもさ、別に旦那は帰ってこないのだ、執筆、やめる必要なんてないじゃないか。旦那を憚って作家を続けるなんて、そんな人はいっぱいいる。浮気より、健全である。貧乏でどうにか生きているような画家もどきをそそのかすよりもよっぽど。しかしまあ、どんだけ僕が物欲しそうに見えたとしても、これじゃあ、あんまりじゃないか。
ところで静のスケッチは、ちょっと評判だったらしい。都内行き、唯一の収穫だ。
すでに初稿を上げられている作家さんが興味を持ってくれている、と津本さんは何よりの吉報を土産話にしてくれた。
ひとえに彰大さんと僕を間違ったまま文通してくれた美鈴さんと、由比ヶ浜のあの女の人のお蔭だ。あれで大分イメージが整理できたのだ。
(どうしてるかな、美鈴さんは)
あのスケッチは棄てられず、折り畳んで持ち歩いている。日向の花のような派手さはないが、例えば庭のひと群れに混じってぽつんと佇む一輪花を思わせる静かな佇まいの女性だ。
もちろんこの由比ヶ浜の女性が、美鈴さん、と言う確証はないし、彼女がこちらに度々来ているんじゃないか、と言うのも憶測に過ぎないんだけど。
ああ、その美鈴さんだ。せっかく良縁があって結婚するのに、僕のせいで惑わしてしまい、本当に申し訳ないのだ。乗り込んでこられたら、どうしようか。日本語が通じないタイ人のふりでもして誤魔化そうか。いやいや、そんなひどいこと出来るか。
罪滅ぼしも手伝って、東京行きの前、僕は少し庭を整理した。
草むしりをして庭の礎石を探し、彰大さんがいたときの風景を復元しようとしたのだ。すると年代物のブナの木の笹林の中に、薄い茎の花が清げに群れて咲いているのを見つけたのだ。
花色は薄桃色と紫色の中間、花弁は菊のように槍穂の形に少し尖っている。ぴんと来て僕はすぐに調べた。するとどうやらこれが、オダマキの花らしかった。小袖をまとった垂髪の女性のように、可憐な花だ。明るい日陰に咲くオダマキはこの季節が見頃だが、夏の暑さを自力で越すのが難しいらしい。
彰大さんが手入れをしなくなって三年は経っているはずだ。それなのに、よく生き残っているものだと思った。もしかしたら美鈴さんも憶えているかも知れない。そう思うと、無碍には出来なかった。
あの庭へ。
戻ってこようと、東京から鎌倉へ戻ったのは二十日過ぎの昼のことだ。もしかしたら、美鈴さんから手紙が来ているかも知れない。なんの確証もないのにそう思って、なるべく早い電車を選んだ。鎌倉駅で乗り換えようとした頃だ。ふいに携帯電話が鳴った。津本さんからだった。
密香さんが、いなくなったようだ。
彼女の実家から、熱心に出入りをしていた様子の例の編集部に心当たりがないかと連絡があったようだ。そこから津本さんにまで連絡が及んだのだ、と言う。事態はもう、大ごとになっていた。実は僕に会った十七日から誰も連絡が取れず、何日もどこにいるのか所在が判らないらしい。て言うかつまり、密香さんに最後に会ったのって、ばっちり僕じゃないかと言う話なのだ。
愕然とした思いのまま、僕は津本さんの話に受け答えした。どうやって答えたのかは憶えていないが、知っていることはいつ、誰にでも話すので問題ないとは言ったと思う。下手すると、警察沙汰だ。しかし嫁入り前の娘で、自主的にいなくなった手前、実家ではまだ、捜索願を出すと言う段階ではないそうだが。
でももう少なくとも僕の前に姿を現して、三日は経っているのだ。極端な突発的行動の多い人だとは思ってたけど、何考えてるんだ、密香さんは。
ついで極楽寺の駅前へ来た時だ。知らない着信から、電話が。
(警察か?)
個人の携帯電話の番号だった。出ると、若い男の人の声がした。
「どちら様ですか」
「廣瀬と言います。水溶社の津本さんからお話うかがったんですが…あの、これから、お話だけでも聞いていただけますか」
きちんとした口調の人だった。落ち着いた話しぶりからすると、さしずめこの人が、密香さんの婚約者じゃないか。そのようなことを聞き返すと、なぜか向こうは口ごもった。
「いえ…その友人です。研究室時代の、と言うか」
限りなく怪しかった。普通こう言うとき、連絡を取ってくるのって婚約者とかだろう。まあだが僕も怪しさで言えば、人を非難できるレベルにはない。
「今、どちらですか?僕、鎌倉なんで都内に戻るなら少し時間を頂かなくてはいけないんですけど」
「鎌倉にいます」
相手は押し被せるように言った。ますます不審だった。
「近くにいるんですか?」
「ええ、車です」
僕は電話口の方へ耳を澄ました。この音は、由比ヶ浜の潮騒の音か。と、言うことは確かにこの近くの浜付近にいるのだろう。
「あっ、怪しいのは重々、承知してまして…」
僕が訝ったのが、相手にも伝わったらしい。でも何か切羽詰まっているので、今のいままでそこまで気が回らなかったと言う感じだ。婚約者でもない、ただの大学の友人が、こんなところまで車回してくるか?まあ密香さん本人はともかく、僕を騙そうが脅そうが、逆さに振ったって鼻血も出はしないのだが。
「いいですよ、すぐに会いましょう」
すると相手はほっとしたように待ち合わせ場所を指定してきた。
と、言うわけで鎌倉郵便局裏のサイゼリアだ。僕は初対面の人と独りで食う予定だった昼ご飯を食べている。
現れたのは一見してとうの立った予備校生かな、と思う風の、青系のボタンダウンのシャツを着た大人しそうな男性だった。どうみても悪いことは出来そうにない。
「お仕事はお休みですか?」
「ええ、無理を言って代行を入れてもらいました」
聞けば都内の予備校の講師なのだと言う。古典の先生らしい。見れば見るほど、今時珍しい文学青年だ。
「密香のお話はうかがっていると、思いますか」
「ええ、三日も連絡が取れない、と言う。本当にその、いなくなってしまったんですか?」
三日ほど梳っていない風の鳥の巣っぽい豊富な髪を震わせて、廣瀬さんは力なく、頷いた。
「大ゲンカしちゃった」
密香さんから泊めてほしい、と突然の電話を廣瀬さんが受けたのは、十六日の深夜のことだったと言う。聞けば婚約者なる人と喧嘩をして、取るものもとりあえず家を飛び出してきてしまったものらしい。
現れた密香さんは、車だった。あわてて出てきた割には綺麗な服装で、整然と、スーツケースを持って上がり込んできたと言う。
「ああ、ちょっとね。しばらく旅行に出ようかと思ってたから」
不審に思って廣瀬さんが聞くと、密香さんはあっさりと答えた、と言う。これ、午前一時の出来事である。な、何があったんでしょう?
「浮気」
とりあえず紅茶を淹れてきた廣瀬さんがおずおずと聞くが早いか密香さんは、吐き捨てるように言い返してきたらしい。真夜中に、人ん家で。
「まあ、そんなに出張多いわけないわな、とは思ってたんだけど、やっと証拠掴んだから今日、問い詰めて。知ってるでしょ、あの子」
密香さんが口にしたのは、廣瀬さんも知っている研究室の後輩の女の子だった。結婚が決まって友達に紹介するために集まった飲み席で連絡先を交換していたらしい。
あるとき、LINEでその子が、仕事を休んで密香さんの彼氏の出張先の西伊豆まで足を運んでいることをぽろっと言ってしまい、それで発覚したのだそうだ。密香さん自ら自白に追い込んだのだと言う。こわっ。
「手口を聞いたんだけど、会社の女の子ともそうやって上手く遊んでるみたいなの。仕事にかこつけてホテルとったり、温泉行ったり。だからまあ、その子のことはいいのよ、相手がそう言う人間なんだし、しょうがないから。悪い男には気をつけなさい、って言っといた」
と、恐ろしく熱ない声で言う密香さん。
まあ本当の恐怖はそれからだった。密香さんはこのように自白者を味方につけて証拠を揃えた上で、満を持して婚約者に突きつけたのだ。要は告発できる証拠が手に入るまで、相手を泳がせておく気でいたらしい。こう言う人って本当にいるんだ。ひたすら怖い。
「だから何だって言うんだよ。言ったろ、お前も好きにしていいって!」
証拠を突きつけられた相手はこう、逆ギレしたらしい。さぞやびっくりしたことだろう。
「そうだよね、最初からこうすればよかったと思ってたんだ」
密香さんは言うと、逃げ出そうとする相手の前に立ちはだかった。
「なんだよ!?」
「じゃあ、早速好きにさせてもらう」
ビンタ一発。
「で、そのテンションのまま、密香さんはあなたのおうちに来た、と」
廣瀬さんはこくり、と頷いた。さぞや肝が冷えたことだろう。
「いや…まあ薄々、こうなることは分かってたんです。…それに、そもそも僕にも責任があるんです」
と言った廣瀬さんがおずおずと語ったのは、衝撃の裏事情だった。
どうやらそもそも、密香さんは廣瀬さんと付き合っていたようなのだ。大学生時代に出逢って、そのまま研究室の同期だ。あの強烈な密香さんとよっぽど馬が合ったようだ。彼女が予定された進路を放り出して作家活動に転じてからも、付き合いは続いていた。しかしその頃、廣瀬さんはもう、研究室にはいなかったのだそうだ。
「あの、いわゆる教採浪人と言うやつで」
学校教師になりたくて別の仕事をしながら、採用試験を目指す人を教採浪人と言う。廣瀬さんは予備校の講師をしながらずっと、教員を目指す道に挑戦していたようだ。日本の大学には教育課程があるが、教職だけとって役に立ててない人は沢山いる。なぜなら教員として採用されるのはいぜん、狭き門だからだ。
廣瀬さんはそれでも試験を受け続け、この春に欠員補充が出たとある私立高校の国語教師に採用が決まったのだと言う。要は密香さん、自分は恋人でいながら、その廣瀬さんが正式に教員になれるまで、待つことが出来なかったのだ。
「二人とも、不安定な生活でしょう。密香も大分、言われたらしいんです。このまま二人、付き合っていてどっちも食えなくなったらどうするんだ、って」
それももっともな事情だが、密香さんはこう解釈していたらしい。
「要はわたしがまだ食えない物書きやってるのが、自分たちの仕事の目障りなのよ」
まあ確かに、密香さんのご両親からすれば、世話になっている教授の面目を潰した手前、今度は何とかこの縁談は容れて、失地回復を図りたいのは道理だ。世の中そんなものである。
密香さんが依怙地になるわけだ。
だが片や教採浪人、片や親類のつてで入った零細企業の事務職である。
このままでは先行きどうなると言うので、どうにか説得して縁談に漕ぎつけたようだ。最後は、廣瀬さんも説得する方に回ったらしい。
「これが密香にとっても幸せなんだよ、って僕も何とか言ったんですが」
密香さん、本当はただ、脱出する機会をうかがっていただけらしい。ゲスの極みがここにもいた。しかし果たして、大丈夫なのかそれで?
「綺麗に別れられて、せいせいした」
密香さんは廣瀬さんに事情を言うともうその話はぴったりやめ、バッグから小さなノートパソコンと大きなリングメモを取り出したのだと言う。
「ちょっと、机借りててもいい?」
それから密香さん、朝まで執筆をしていたようだ。
「なんでも、くさくさしてたところに長い間海外に行ってた古い友達に久しぶりに会って、もう一回やってみる気になったんだそうです。久しぶりにお酒を飲んで話したら、全然変わってなくて安心したと」
「古い友達って僕のことでしょうか?」
「ええ、水城彰太さん、それでお名前を聞いて急きょ連絡を取ったんです」
つまりはこれ、あの鶯谷のラブホテル事件の後のことだ。
何か変だと思ったら密香さん、わざと僕を試したんだろう。飢えた貧乏画家に、自分のカラダを投げ与えてまで。こんっちくしょう。
「へえ、そうですか、ところでわたし、あなたと違って今度、すごくいい相手と結婚するんですがそれが何か?」
なんて、彼女は涼しい顔をしてやがった。それが。
久しぶりにお酒を飲んで話したら、全然変わってなくて安心したって?
僕にあんなことしておいて密香さん、本当はそんな風に思ってくれていたのか。
「しっかり小説を書く用意をして、明日もあなたに会うんだって、言ってたんですよ。わたしも好きなことしたいんだ、負けたくないんだ、って」
「そうだったんですか…」
そして、だ。
そこまで思ってくれていながら、また僕をホテルに誘う。その神経が分からなかった。
これで、密香さんの発言の意図が何となく僕にも読めてきた。
十七日、横浜での言動。前にもまして、よそよそしい態度。
ついに言われた、
「わたしは、あなたが嫌いです」
これって面と向かって言われるのって、どすんとお腹に来るのだ。しかも女の子に。でもあれは考えてみると、ただ僕に言ったんじゃなかった。飛び出してきたはいいが、挫けそうな自分を叱咤する意味合いで言ったのだ。僕をわざと怒らせて、本音を言わせて。一度逃げた自分を鼓舞する力を、僕から分捕っていったのだ。
「ほんっと、不器用な人だなあ」
自分を差し置いて、僕がため息をついてそう言うと、
「そう言うやつなんです」
ごめんなさい、と、廣瀬さんは密香さんの代わりに謝ってくれた。そのちょっとはにかんだような、済まなそうな笑みで、僕にもぴんと来た。
そんな密香さんがまだちゃんと好きなのだ、廣瀬さんは。
僕に会った後、鎌倉に宿泊して執筆をするんだ、と、密香さんは漏らしていたらしい。
そこで僕は働き先の先輩に連絡を取った。市内の水道工事を一手に引き受ける御曹司だ、さすがに先輩は顔が広かった。市内の観光地組合や旅館組合に連絡して、それらしい名前や風体の人が泊まっていないか、聞いてもらうことにしたのだ。
その間僕は、廣瀬さんと一帯の旅館を捜索だ。先輩から話が通っていて、フロントの方も捜索に積極的になってくれた。地域の力、ってありがたい。
結論から言うと、十七日から滞在のお客さんで青江密香の名前はなかった。ちなみに彼女の名前、ペンネームではないのだ。青江密香なんて、かなり目立つはずなのだが、そのような名前のお客さんはいない、と言う報ばかりが届いてくる。
その内、日が暮れた。
コンビニで、廣瀬さんが夕飯を買ってくれた。捜索の車中だ。廣瀬さんは協力してくれてこんなものでごめんなさい、とサンドイッチとおにぎりを奢ってくれたが、貧乏人の僕にとっては何より嬉しいことだった。だって一食、助かるのだ。
江の島が彼方に暮れている。風の強い一日だった。午後から雲が出て、真夜中は嵐がきそうな気配だ。廣瀬さんは僕から顔を背けると、かすかにため息をついた。
「やっぱり放っておいた方が良かった、とか思ってます?」
突然聞くと、廣瀬さんは、はっと我に返ったような顔をした。まあそうだ。あんなことがあった後だし、本人が執筆を終えたら帰ってくる、と言ってるんだから、周りの騒ぎに乗せられないでほとぼりが冷めるのを待っていればいい、って話だ。
「でも、そんな問題じゃないと思いますよ。何だかんだ言って、廣瀬さんには洗いざらい、話してるじゃないですか」
とかく不器用なのだ、密香さんと言う人は。同じ人種なのですぐ分かる。さんざ人を試したり、惑わしたり、思わせぶりなことを言っておきながら、肝心なことだけは自分でちゃんと言おうとしないのだ。
でも、これだけは言わなくても判るだろう。
自分の好きにする。
その言葉には、廣瀬さんのことも含まれているのだと言うことも。
もう一回真剣に考えよう。だって廣瀬さんだって、密香さんを追っかけてやっとここまで来たのだ。
先輩から連絡があったのはその直後だ。
密香さんらしい風体のお客が二人、発見できたらしい。
「お前から聞いたのと、全然違う名前なんだけどな」
それでも先輩はその客の名前と宿泊先まで聞いてくれた。
「どっちでしょうか?」
どっちにもあたるといいのだが、もう夜も更けかけているし、相手は女の人だ。男二人が別人に詰め寄ったとなったらひと騒動あるに違いない。しかし、心配はなかった。僕が書き取ったメモを見て、廣瀬さんが、さっと顔色を変えたのだ。
「直感でいきましょう」
無駄な戸惑いを察して僕が言うと、廣瀬さんは息を呑んで頷いた。密香さんがヒントを残したのは、僕じゃない廣瀬さんにだ。もうぴんと来たのだ、この人は。だったらそれを僕も信じるしかない。廣瀬さんはため息をつくと、意を決して言った。
「ここだと思います」
結果から言う。
密香さんは確かに廣瀬さんの言う通り、由比ヶ浜沿いの鄙びた民宿に泊まっていたのだ。
浮気された大学の後輩の女の子の名前を使って。
廣瀬さんがぴんと来るはずだ。これ一目瞭然である。
しかもだ。車に僕たちが旅館のフロントでわたわたやっていると、執筆の気分転換に出ていたのか密香さん本人が、散歩から戻ってきやがったのだ。のんきに、コンビニの袋をぶらぶら下げていた。
「密香っ!」
思わず声を荒げた廣瀬さんに、密香さんは初めて、びくっとした顔を見せた。廣瀬さんたぶん普段、こんな人じゃないんだ。よくまあこんだけ心配かけて怒らせたものだ。
「許してくれ」
と、思いきや廣瀬さん、後は密香さんに謝っていた。
「なんで気づいてあげられなかったんだろう」
自分をそこまで強く想ってくれていながら、その気持ちを大切にしてあげられなかったこと、自分と同じように好きなことをがんばりたいと思っているのを知っていながら応援してあげられなかったこと、みんな。密香さんを惑わしてしまったのは、全部自分のせいだと謝っていた。
ふーん。
確かにそれなりに感動のシーンだった。
でも僕はごく個人的に思った。
いや、廣瀬さんさあ、あんたもっと怒っていいんだよ。言うこと言わないとこの人またやるよ、いいから怒ってよ、完全に無関係なのに巻き込まれた僕の分まで。
そう思ったが、言えなかった。
廣瀬さんだって一気に、堰き止めていた想いの丈を告げたのだから。
密香さんだって泣いていた。あの気の強い女の子が、必死に嗚咽を殺して。
どんな僕が無神経だって、そんな二人の横やりが、出来るはずがない。
ともかく、そっ、と出て行くことにした。
「送ります」
あわてて、廣瀬さんが出てきた。でも断った。空気読んだのに。そんな場合じゃないだろ。それに極楽寺だって歩いてそれほど遠くはないのだ。僕にとっては、十分ほっとかれても帰れる距離である。
「待って下さい」
そうこうしているうちに密香さんまで出てきたじゃないか。泣き顔のまま。すっげえ気まずい。
「水城さん、ごめんなさい。二度もあんなことして」
密香さんはでも、僕に頭を下げて謝った。それはさすがに、きちんとしていた。
「本当は会いたかっただけなんです。あんなこと、言うつもりなかったんです。二回も。今からホテルに行こうなんて、そんな気まったくなくって」
「だっ、それっ」
今言うことか!廣瀬さんだって、顔からばっちり血の気が引いてたじゃないか。
「いいよ、別に。つーかさ、彼氏じゃないから。今でも友達だろ、僕たち」
「ですよね」
と、きっぱり言って密香さんは頷いた。はっ?そう言われるとこっちにその気がなくても何だか悔しい。くっそう、やっぱ本気じゃなかったのだ。じゃあラブホで裸になるなよ。薄々思っていたが、つくづくとんでもないことをする女だ。
「だって羨ましかったんです。わたしも、水城さんみたいにもっと思い切れたら、こんなに苦しまなくて済むんじゃないか、どうして勇気を出して今の駄目だった自分を、それでもいいって言えないのか。そう思ったら自分がとことん嫌になって」
密香さんは無情に顔をしかめた。
気持ちは分からなくもない。でも僕だって好きで、思い切ったわけじゃない。たまたまにっちもさっちもいかなくて、その形にすぽんとはまってしまっただけだ。
「わたしもようやく、水城さんみたいに気持ちが吹っ切れました。もう一度、わたしが好きなことを、自分で思ったようにするんですから。お互い、頑張らなきゃですよね。貧乏だって、不安定だって」
「そうだね」
僕は頷いた。貧乏万歳は僕たち、表現して人からお金をもらう人の合言葉だ。まさか、こんなところにシンパがいるとは思わなかったけど、自分なりに戦う姿勢がある人なら、それだけでいつでも大歓迎だ。
「あっ、そうだよ。書くなら早速仕事はあるよ」
ついでだ、密香さんに掲載の話があったことを僕は伝えた。
「すぐに連絡取りなよ。向こうも乗り気だって言うから」
「電話はします」
でも、と密香さんは言った。あれはもう過去のただの習作なのだ、と。
「わたしも長編小説を描くんです。そのための取材旅行でした。それで、もう一回、新人賞に応募するんです」
次へ。
熱がなかった密香さんの目にもう一度、清かな光が灯ったのを僕は見た。
極楽寺の家へ帰ったのは、もう真夜中だ。
嵐が来そうな海風を浴びて歩きながら、たった一人で考えた。
果たしてこれ、何が、運命の転機になったのだろうかと。いや、この際だから認めてしまおう。美鈴さんだ。彼女がいたからこそ、すべてがあるべき場所へ整ったかも知れない。
あの静御前の、落魄した義経を想う変わらぬ気持ちのイメージがあったから。
誰もがちゃんと、信じたりは出来ない。
一途に想えばこそ、気持ちは必ずそこに残るのだ、と言うことなど。
違う心を重ねても、時間を重ねても、想いがただ清むように。
あるんだ。
美鈴さんがいて、その実在を信じてこそ、僕はあの静御前が描けた。
「不思議ですよね」
密香さんは僕にだけ、思い出したように言った。
「こうしたいって思った気持ちがあったとして、でも時間と一緒に色んな色が塗り替えていきます。わたしたちはそうして、やっぱり違う色になるんだと思います。でも最初に塗られた色はどこかに必ずあるんです。だから気持ちの強さばかりがただ居残ってしまったんです」
密香さんの言いたいことは分かった。でも僕はあえて言いたい。
けっ、と。
密香さんだって最後にはああ言ったが、僕がああしなければ不倫して撃沈するつもりだったかも知れなかったのだ。人間なんてそう純粋なもんじゃない。密香さんだって好きでもない男に浮気されて、まったくその気がないのに、じゃあ腹いせに自分だって汚れてやろうとか、絶っ対思ったはずなのだ。人のことは言えない。だから分かるが、僕たちって生き物である限り、巷の純粋なラブストーリーのようには絶対いかない。つくづく、ゲスの極みなのである。
そもそも僕たちは多かれ少なかれ、そうやって他人の色の曖昧さを揶揄しようとして生きている。他人が浮足立っていると、やっぱりそれだけで安心するのだ。自分が幸せになることと、自分の幸せが何か、他人を比較しなくても、本当はそれが実感できれば何の問題もないのに。どうあっても他人との比較が、つくづく分かりやすいのだ。そんなことは本来、そうした幸福を味わうこととは、無関係なはずなのに。でも不安でつい、それをやってしまうのだ。
かたん、と何気なくポストを探ったときに手紙の重みがしたとき、僕は腰を抜かしそうになった。封書だ。僕に、手紙がやってきたのだ。やっほう、まさか信じられない。あんな胡散臭い手紙だ。それなのに、律儀に僕に応えてくれたのだ。
萌黄色の封筒に、赤い縁取りのレターセット。そこにいつものように『水城彰大』さん宛てとしてあった。美鈴さんからだ。美鈴さんから手紙が来た。手紙が来た。まさか。信じられない。
開封してさらに驚いた。いや、今さらなのだが、彼女はとうに気づいていたのだ。彰大さんと僕がやっぱり、似ても似つかない存在であることを。
その上で新しい色を重ねたいと言った僕に、自分も新しい色を重ねたいと言う。つまりは僕に出逢ってみたい、と言うのだ。
彰大さんを想いながら、それでも寄り添ってくれようとしている。僕はまた、迷ってしまおうとしていたのに。年月が塗り重ねてもなお、澄んだ色を放つ、あなたの気持ちの一途さに救われ、今日だってどうにか家に帰ってきたと言うのに。
ただ安心して、我を忘れてしまった。
美鈴さんは結婚を断ったらしい。それを非難する気には、僕はどうしてもなれなかった。顔も見ぬ僕に、彼女がただ、あのきらびやかな義経の風采を重ね合わせていたとしても。ここへ来たいと言う。そんなご立派な人間はいない。ここにはでも、世間の流れにわだかまった、そんな青臭い気持ちの棄てられない、ゲスの極みがいるだけだ。ちょっと迷ったまま、それでも手紙を胸に抱えて僕は、しばらく口も利けずにいた。
まさかだ。
美鈴さん。
あなたは紛れもなく僕に、返信をくれたのだ。
次の日は、夏を予感するからりとした陽射しが、分厚い雲の欠片から射す夏日だった。朝早くから、昼過ぎまでかかって僕は一枚の水彩画を描いた。それはこの庭の篠藪で、誰の手も借りずにたった独り、三年の歳月を過ごしていたあのオダマキの花だった。この庭は年月の色を塗り重ねられてすっかり変わってしまった。でもこれなら、美鈴さんの気持ちに届くんじゃないか。そう思ったのだ。
「知ってますか、オダマキの花言葉」
あの晩、密香さんが僕に唐突に尋ねた。どうしてこんな突発的行動をして、廣瀬さんを困らせたのか、それを改めて聞いた時だ。
「『不義』『愚か』そして、『棄てられた恋人』」
自嘲気味な笑みで頬を歪め、密香さんは先に部屋へ戻ろうとする廣瀬さんをうかがった。
「最後の一つはやはり、白拍子としての生業の領分を越えた静御前の悲劇を揶揄したものだったかも知れません。でもね、人がどう言おうと、裏返すとこう言うことなのだと、わたしは、思います」
素直。
それがオダマキの花言葉なのだそうだ。確かに時に人は想いで人を押しのける。その無遠慮さに、不義やルール違反を揶揄する人もいるだろう。しかしそれは今、自分の偽らざる率直な本音なのだ。ただ今、ここで感じたい、その気持ちの、率直な色なのだ。
まだ真夏ではない。花の叢には柔らかでいて、包み込むような初夏の陽が穏やかに蒸れていた。
その薄明るい紫のオダマキの花の色に、僕は気持ちを込めることにした。
もしかしたらポストの中で途絶して、誰に顧みることもなかったかも知れなかった美鈴さんの想いに。そしてそれに無粋な横槍を入れた僕に。蘇った風景に、新しい色を重ねてほしい、とただ、言ってくれた彼女に。一言、出会ってくれてありがとうと言ってくれたあの人に伝えたい。彰大さんではない、それでも僕の新しい色をと言ってくれた美鈴さんに。つくづく絵を描くことでしか、僕は僕の中でわだかまる、まだるっこしい想いを伝えようとは、どうしても思えなくて。
それでもあなたが思い描く新しい色に、僕も寄り添いたい。ただそう思って、描いた水彩画を同封した。
前略、あんなお手紙の返信をありがとうございます。薄々ご承知のことと思いますが、改めて謝らせて下さい。僕はあなたが手紙を宛てた水城彰大さんではありません。水城彰太と言います。名前はほぼ同じですが、言うまでもなく、全く別の人間です。あなたの彰大さんが住んでいた極楽寺の家に、縁があって住んでいます。それだけの人間なのです。ただ共通点と言えば、絵を描く仕事を志していると言うだけ。後はあなたのことを全く知りもしなければ、あの手紙が来るまで、かつてこの極楽寺の家に何が起こったのか、それも知らなかった人間なのです。
そんな他人ではありますが、あなたが三年越しに宛てたお手紙を拝見し、いけないこととは知りつつも、もうここにはいない相手の返信を装って一筆申し上げていました。非常に重要な私事を伝える私信に、このような横槍、言いわけの仕様もありません。本当に申し訳ないです。ご結婚のお話を、反故になさったとのこと、返すがえす残念に思います。そのことを含め、あなたの人生に僕は多大な影響を与えてしまったのかも知れません。でもあえて言わせて下さい。
あなたの一途な思いに救われ、また立ち向かう勇気をもらった人間が、確かにいるのです。
事情は煩雑で省きますが、僕はまだ顔も合わせたことのない、あなたに救われました。同封のオダマキの水彩画は、おこがましいながら僕の気持ちです。彰大さんと美鈴さんが過ごしたあの庭で見つけたものを描きました。
オダマキの花言葉は『素直』なのだそうです。この庭には確かに、三年の年月を経て色々な年月の色が塗り重ねられたのかも知れません。でも、画を描く人間の経験からして、最初に塗られた色やタッチは、画題を描き改めても、必ず何らかの形で残るのです。気持ちがそこにある限り、誰もそれを無視することは出来ない。すでにもう、無地のキャンバスに色を落とされているのです。そこに色が咲く限り、その気持ちから、僕たちは新しい思いを発し、その都度思った気持ちの色を積み重ねているに過ぎないのです。
あなたがいた、三年前の風景と、僕は今、ともに生きています。そして今も、そのかすかな息遣いを、感じて生きたい。そう願っているのです。
率直に言います。ご迷惑でなければ、僕もあなたに会いたいです。僕が無遠慮に塗り重ねようとしてしまったその一途な色が、まだそこかしこにこの庭にあるなら。あなたは新しい色を積み重ねたいと言ってくれました。その新しい色には、あなたがかつて愛した色が必要なのです。僕にはまだまだ感じられない、季節の、折節の、この美しくも清かな庭のまだまだとりどりの色が。
厚かましいながら、以下が僕のアドレスと連絡先です。僕は今、この庭に新しい色を加えながら、絵を描いています。連絡をくれれば、都合を合わせてぜひお会いしたいのです。手元不如意の身ながら、おもてなしの方は十分出来ると思います。食事などしながら、ゆっくりお話が出来ればと思います。
このオダマキの咲く庭は、あなたがいた頃と同じ色にどれほどに、新しい色を湛えているのでしょうか。
身の程知らずを承知で、あえていいます。
僕が同封した、この絵が描かれた風景を。
この場所を見てみたくはないですか。
返信、お待ちしています。
m.showta××××@ezweb.ne.jp
080-××××-6015
草々
五月二十一日 水城彰太
杉村美鈴様