表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

五月十七日

手紙を投函してすっきりした翌朝、仕事に行く時間ぎりぎりだったのでそのままコンビニで朝ごはんを済ませようと思ったら、さっぱりお金がなかった。

ふとしたいたずら心で、見知らぬ人のプライバシーに介入した(ばち)熨斗(のし)つけて速攻で戻ってきたのだ。僕の神様は恩に報いることはまずないが、天罰は驚くべき速さで精算しやがるのだ。今頃むほほっ、天罰最高、とか言いながら僕が貧乏に悶えるのをモニタリングしているに違いない。いつかそこへ乗り込んで、蹴りを入れてやりたい。

かくして朝飯抜きの僕は、薫風爽やかな初夏の空に向かって魔法を唱えた。貧乏万歳、貧乏万歳、と。ああ、今日も貧乏が楽しいな。貧乏のお蔭で、食べたいもの、食べてみたいものが無くならなくてしょうがないや。想像力も豊かになるなる。これぞ芸の肥やしだ。今日は、牛丼特盛の絵でも描こう。

希代の名人、五代目古今亭志ん生だって、名言を遺していらっしゃる。貧乏ってェのはするもんじゃアない味わうものですナ、と。志ん生は画家じゃない噺家(はなしか)じゃないか。何だか泣けてきた。

やけたけなまま作業服を着こみ、由比ヶ浜の海岸沿いの現場へ行き、朝礼をしてヘルメットを被る。水道管の取り換え工事と言うのはシビアで、決まった時間に始めて、決まった時間に終わらないと、仕事がもらえなくなるのだ。タイムロスは許されない。に、しても腹減った。

へのへのしながら砕いたアスファルトを片付けていると、現場代理人(工程管理をする人だ)のおじさんが、缶コーヒーを奢ってくれた。と、糖分だ。甘くて沁みた。人の情けが身に染みるとは、こういうことだ。ようやく人間になった気分だ。


昼前頃、密香さんから、また着信が入っていた。

ホテルから脱出した時点で幻滅されたに違いないと思ったのだが、なぜかあれからしつっこく連絡を取ろうとしてくるのだ。しかも思い切ってメールで要件を聞いても返って来ず、着信一辺倒。ちょっと怖い。ホテルを出た直後、着信八回も鳴らされた身としては恐怖だ。いや、まああんなひどいばっくれ方して、こっちにも責められる理由はなくもないのだけど。

「ああそれストーカーじゃないっすか」

二十歳の(くれ)くんは、含み笑いで断言する。実は地元の老舗土建屋の御曹司である呉くんは、ヘルメットに作業着で道端に佇んでいるとは思えないほどいい男だ。いつも清潔にしていて、色白で唇が紅い。だがそのお蔭で何度か災難にあっているらしく、同種の他人の不幸はさぞや蜜の味だろう。

「自分もありましたもん、断水のお知らせのビラのお問い合わせのとこに、自分の携帯書いといたら」

路上で呉くんを見かけた主婦らしき人から、熱烈なラブコールがあったと言う。呉くんはお蔭で現場を外れて逃亡せざるを得なくなったそうだ。実話のストーカー被害談である。

ちなみにおじさんの作業員はともかく、若い職人さんにはその種の経験は珍しくないのだと言う。全然普通に結婚している方なのに、そう言うことは関係ないらしい。びびっときてしまうと言うやつだ。どうもこの国の人は皆、偶然、運命の出会いに飢えているらしい。

だがだ。もちろん僕は年齢は若いとは言え、呉くんのように栄養状態がよくて肌も髪もつやつや、土建屋の御曹司でも何でもない。密香さんは、そう言う男に恥をかかされたと思って意地になっているだけだ。とにかく、ほとぼりが冷めるまでほっとくのが一番だ。


そして、ほとぼりと言えばあの手紙だが。

朝ごはん抜きの悲劇は別として、今にして思えば結構とんでもないことをしちゃったんじゃないか、と、つくづく思う。鶯谷のひどい事件があって酒の勢いまで手伝っていたとは言え、人の恋愛に干渉すると言うのは、冷静に考えて決していいこととは言えない。しかも年上の大人の女性の、私信だ。重要じゃなかったらそもそも手紙にしない要件に、僕は軽々しく、茶々を入れてしまったのだ。

あの様子だと、かなり思い切って出した手紙だろうし、自分は婚約をすると書いていながらも、本当に好きな人に思いの丈ばかりを告げるのには更なる覚悟が要ったろう。

そんな手紙にあんなコンビニのあり合わせで、手紙をでっちあげて返信してしまったのだ。見知らぬ人だとは言え、傷つけてしまったに違いない。本人が書いていないことは丸分かりだとしても、相当気分を害しただろう。

ううん、横浜か。暮れかけた由比ヶ浜の海を見ながら僕は考えた。確かに遠くはない。いっそのこと宛名の場所へ行ってともかく謝って、この美鈴さんと言う人に本当の事情を説明するのも手ではあるが。

しかしだ。ここで赤の素っ他人が出て行ってどうなる?はっ倒される…のは仕方ないにしても、美鈴さんにとってはかなり思い切って書いたであろうあの私信の内容を、ばっちり知られている当の他人を目の当たりにするのは、ショックが大きいに違いない。手紙なら、かも知れない、くらいで終わるところをだ。これ追い討ちである。

仕事から帰って来てまず僕は、思わずポストを見てしまった。返信はなかった。大分前に入っていた水道料金のメーター表が入っているだけだった。まだ一日だ、当たり前だ。それでも気になったのは、後ろめたさももちろんある。でも、まだ顔も見ぬ美鈴さん、と言う女性のことを考えたからだ。

そう言えば奥の部屋がアトリエだったのか、油絵に使うオイルの匂いがまだ、はっきりと残っていた。たぶん往時には閉め切ったとしても、この薄い襖では匂いは家中に充満していただろう。

「この場所を見てみたくないですか?」

彰大さんはよっぽど自信があったからこそ、美鈴さんにこう言ったに違いない。普通に考えて三年前も、ここはぼろ家だ。初対面の女の人を招くからには、よほど美鈴さんの感性に訴えかけたいことがあったのだろう。

僕なら、どのアングルでこの庭を描いたろう。そして、美鈴さんはどの位置で、彰大さんが描いたであろう絵の風景を見たのだろう。

僕はこの部屋に、あらゆる時間帯に射したであろう陽のもたらす風景を想像する。

麗らかな昼の陽が蒸れて草の群れにたゆたっている光景、煮詰めたような強烈な西日が、部屋中に溢れてまるで湧き返っている光景。

木戸を開け放つと、花と森のあえかな芳香が部屋いっぱいに漂ってきた。こうして春からは草木の芳香をたっぷりと味わい、秋には月明かりがさぞや美しく、この家いっぱいに満ちただろう。

かつて、この庭はどんな庭だったのだろう。彰大さんならこの庭をどんな風に、手を加えたものだろう。

草に埋もれたサンダルの片足だけがぽつんとあった。彰大さんはこれを履いて、庭に出たのだ。あの古びたポンプで、水を汲み、美鈴さんにも勧めたのかも知れない。

年月が経つのはあっという間だ。手紙にはついそう書いてしまったが、ここで流れた三年の月日の無残さは、この庭の在りし日の風景を想えば、容易に想像がつく気がする。

ああ、て、言うか休みの日には草むしりくらいしなきゃな。あの手紙のお蔭で僕は、引越しの荷を解くことさえ忘れていた。


静御前か。

明け方の夢寐の中、僕は、運命に翻弄された白拍子のことを想っていた。

当時の白拍子がホステスのようだった、と言うのは何となく感じる。水干に立て烏帽子と言う、いわば男衣装に扮したのは、当時隆盛した武家に合わせたようなものであった。

義経の京都での生活は、さぞや派手なものだっただろう。その前に都を領した木曽義仲(きそよしなか)を追い払い、義仲を毛嫌いした後白河法皇(ごしらかわほうおう)の思惑を背負って、義経は英雄として、王都に華々しく凱旋したのだ。

頼朝の手配書から義経は、反っ歯で色白の小男だった、と言うことが分かるようだ。現代の価値観に照らし合わせると、それほどのいい男でもないのだが、木曽の山奥育ちの義仲に比べ、都ぶりの風韻がある義経には俄然(がぜん)人気が集まったのだろう。

義経の母、常盤御前(ときわごぜん)関屋(せきや)と言う庶民の娘だが、千人の美女から選び抜かれ、近衛天皇の中宮、九条院(くじょういん)の侍女として参内することを許された、いわば平安のトップアイドルである。

その義経がまた、選んだのも権門勢家に出入りして、芸で身をしのぐ白拍子だ。皮肉と言わざるを得ない。

義経の容姿に静が惹かれたにしても、よくもまあ、落魄した義経を慕って追いかけてきたと思う。無駄なことだと言うのに。


ようやく休みになって、僕は、静御前が舞った八幡宮に足を運んだ。ちょうどそこでは、神前の結婚式が行われているらしく、雅楽の演奏が喧しかった。スケッチはあまり(はかどら)らない。僕は人混みを避けて、いつしか石段の麓の大銀杏の辺りに陣取っていた。ここは頼朝の最後の後継者、実朝を北条政子が公暁と言う少年を(そそのか)して、暗殺させた場所だ。

実家の北条家に鎌倉政権を牛耳らせた政子は、昏い謀略を練った夫よりもさらに上手の非情な陰謀家だった。落馬して死んだとされる頼朝も実は、実の妻の政子に謀殺されたのでは、と言う話があるほどだ。

嫉妬深いことでも有名で、頼朝が密に通っていた想い人を急襲し、その家に火を放ったことすらあるそうな。

実弟の想い人とは言え、静御前は夫の政権を揺るがす反逆者の伴侶だ。見せしめに殺害したとしてもそれは決して、間違った判断ではない。

かてて加えて頼朝をはじめ公家文化を受け継いだ都ぶりの武士たちには、直接的な争いや死を不吉な穢れとして避ける触穢(しょくえ)を忌む思想があった。政子よりむしろ、頼朝が静御前を殺そうと言うのは、僕にとっては、非常に腑に落ちないイメージではある。京都で英雄になった実弟の義経に、それほどに嫉妬と憎悪の感情を抱いていたのか。静はその頼朝を前にして、命がけで義経を想う舞を演じたのだ。

名だたる有力御家人を前にして一人舞台、静の目は後の非難を恐れず、ただ落伍者の義経を想って()んでいたに違いないのだ。

何度もその風采を捉えようと、描き直した。しかしそこには、ただ単にどこか思いつめただけの女の顔が出てくるばかりだった。面白くないなと思って、何度も消した。僕たちはただ、想いが強ければ、一方的で身勝手なばかりのものと、気持ちの色合いをごく類型的に、単純化してしまっているに過ぎない。

想いが清むように、ただ真っ直ぐ。

それを誰に対しても表現出来る、と言うのはどんな心情だろう。

一日考えたが、さっぱり判らなかった。

まあ想われたのは、別に僕じゃない。そもそも僕は頼朝みたいな権力者でも、義経みたいな時運に恵まれた英雄でもないのだ。命を懸けた静が気持ちを決めて舞った、その一瞬が生半可に捉えきれるはずがなかった。


夕方、津本さんから連絡があった。知り合いの出版社から、さる売り出し中の新進の時代劇作家が、歴史雑誌に義経の衰勢記を描くので、その挿絵をつける話に乗らないか、と言うのだ。貧乏画家もどきの僕には、破格の話だ。連載なので、当座の定期収入にも結びつく。一にも二もなく、僕は乗ったが、当然ながら候補がいくつか挙がっているらしい。津本さんは僕が静御前の連作を手掛けようとしていると聞き、とりあえずで声をかけたのだろう。まあ、ばっちり泡沫候補である。

話を聞いて僕は、水彩画風のスケッチをいくつか描いてみたが、勝負に行く出来にはやっぱり至らなかった。生悟りな僕はいつまで経っても進歩しない。この分では、一生下積みかも知れない。

一人凹んでいると、横浜のポークジャーキーが手に入った。ハマジャーキーと言われる品で、横浜に行くとコンビニなどで普通に入手出来るのだが、県外の人間の僕にはひたすら珍しかった。これ、豚肉を使ったジャーキーなのである。真空パックでへしゃげたように見える硬く締まった赤い肉を噛みしめてみると、大粒のペッパーが効いて、じわり肉汁が溢れてくる。食べ慣れたビーフのジャーキーより乳臭いところが少なくて、文句なく美味しかった。

所詮はこう言う、日々のあてを与えられて、僕はどうにか生きている人間に過ぎなかった。そんな僕に、密香さんの着信が不意打ちしてきたのは、そんな折だった。


仕事の打ち合わせの電話を待っていた。それで、うっかり確かめずに出てしまったのだ。

「切らないで」

女の子に言われて、にべもなく通話を拒否できるほど、僕は異性から需要のある人間ではない。

「ごめんなさい…あれから、何度も電話しちゃって」

謝ろうと思って、と、率直に密香さんは言う。

「ああ、いいですよ。この前のはその…お互い飲みすぎちゃってましたし」

とは言ったが、密香さんは僕の前でしっかり裸になったのだ。爆酔して憶えてないで押し通すしかないが限りなく苦しい言い訳だ。でもたぶん、向こうが憶えていないはずはないだろう。ホテルで男に逃げられたのだ。さすがに気まずい沈黙が電話口の向こうから流れたのが、よく分かった。

「少し話したいことがあるんです。横浜まで、出て来れますか?」

と、言うわけで、みなとみらいだ。休日のスケッチ旅行を切り上げて、僕はこんなところでベーグルを(かじ)っている。ニューヨーカー御用達のなんとかと言う店だ。やけに薄いカフェオレを挟んで密香さん、落ち着かない僕の前でまたしばし沈黙だ。でも、あの日とは少し様子が違った。

密香さんは黒い水玉模様のブラウスではなく今日は無地のブラウスに水色のレースのスカートを履いていた。ぱっつり切り揃えた前髪の下に、薄い紺色のフレームの眼鏡。あの日はコンタクトだったが、本当は眼鏡が似合う人なのだ。

「水溶社の雑誌の、新しい連載の話をご存知ですか?」

注文が届くなり、密香さんはいきなり切り出してきた。

「水溶社…ですか?」

僕は首を傾げた。はて、聞いた名前だ。ちょうど確か、昨年少し話題になった時代劇作家が、源平の時代を描くと言う、その企画のことじゃないか。いやいや、昨日聞いたばっかの話である。

「あの連載、企画でいくつかの候補が挙がっていたんです」

鈍い僕はそれで、やっとぴんと来た。

要は密香さん、その候補の中に選ばれていたのだ。

義経の盛衰記、と言うことで密香さんの名前を挙げる人がいたって確かにおかしくはない。ゲームやらアニメやら、歴史ものが隆盛の割にいまいち対応出来ていない小説界だ。元は研究室でも有望な存在で、書く物のディティールの確かな密香さんにも、お声が掛かったのだろう。

「いくつか粗筋を書いてこい、とは言われて持っていきました。いくつかは興味を持ってもらえたんですが、それから全然、話がなくて」

僕と同じ、ここにもやはり、泡沫候補がいたのだ。さすがに津本さんから聞いた、新進作家の連載の線で話が進んでいる、などとは口が裂けても言えない。

「実はこの前、偶然、津本さんからお話を聞いたんです」

「えっ」

「水城さんが、静御前の連作を描こうとしていると」

なんだ、びっくりした。僕を通じて、津本さんやその出版社に働きかけようとか無茶なお願いをされると思ったのだ。そんな力があったらこんなに貧乏じゃない。

「話を聞きたいと思うんです。…わたしも、参考にしたいので」

彼女は、その割には熱のない声でそう言った。


問われて語ることはほとんどないが、それで僕は静御前の連作の話を始めた。この時点で僕はまだ、密香さんが自分の連載に未だに希望を持っていると思ったのだ。だったらむげに断るのも気が引けるし、何より、書いて欲しかったのだ。採用される見込みがなかったとしても、密香さんにとってはかつて嘱望したテーマだったのだから。

「水城さんはすごいですよね、いつも描きたいものが描けて」

しかし、どうにか自分の考えを伝えた後に帰ってきたのは、そんな、どこか手ごたえのない返事だった。不思議なことに、密香さんの目の色は僕が話をしようとするたびに、熱を喪って夜半の湖面のように模糊としていったのだ。僕が彼女のことをよく判らないと感じるように、密香さんも僕を恐ろしく異種なものを見る目でみていた。たぶん、時間つぶしに見なくてはいけなくなった紫陽花の若葉の上に、雨蛙が這っていたとしたら、密香さんの視線は同じ感じに注がれたに違いない。

そんな風にされて話を僕はなぜ続けなくてはいけないのか、疑問に思った。好きなもののことを語っているのに、これほどに徒労を覚えるなんて、今までなかった。彼女の瞳になんの共感の火を灯す見込みもないのに僕はどうして、大切にしたい自分の心の内を、つらつらと語っているのか、何よりそれが疑問だった。


「今度結婚する彼がもう、小説は書くな、と言うんです。あの人、本は仕事でしか読まないって言うから」

僕がどうにかこうにか話を終えて、密香さんは何を語るのかと思ったら、口を開いて出たのはその言葉だった。

「でもね、それに自分で、何の反感も覚えないんですよ。もうずっと判らないんですよ、何が面白いのか…面白かったのか」

と、言うと密香さんは、僕を不思議な視線で見上げた。僕はそのとき、言い知れぬ違和感を覚えた。虫けらを見るはずの瞳が、また何か不思議な情熱を帯びて潤んでいるように、僕には思えたからだ。

「わたし、結婚するんです」

密香さんはどこか、言い聞かせるように言い募った。僕と言うよりは、自分の中の何かに、かも知れなかった。

「彼はわたしに言いました。自分はほとんど家に帰ってこないし、全国を飛び回る生活になるけど、自分の妻でいさえすれば何をしていても構わない、と。お金だけはある。きちんと管理するなら、好きに過ごして、適当に使って、構わないからと。二年後に、彼はアメリカに行きます。向こうへ行ったら、寄宿舎と仕事場、講座の往復になるだろうから、わたしを、連れて行ってはくれません。妻でありさえすればいい、彼は繰り返し言うんです。分かりますか?これからのわたしには、ただ、使うあてのない膨大な時間とお金だけがあるだけなんです」

しかしどうしても物を書く気にはなれないのだ、と、密香さんは言いたいのだと思った。


日暮れ前に、僕は横浜を去った。横浜に来るんじゃなかった。ただ忸怩(じくじ)たる思いが、電車の窓から外を眺める僕に、大きな疲労を覚えさせていた。

「もう帰るんですか?」

話が終わって密香さんは意外な風に聞いた。みなとみらいの海風が激しく吹きつけて、きっちりと切り揃えた密香さんの前髪を揺るがしていた。

「ホテル代も持ちますよ。この前の続きをしましょうよ」

密香さんの目が、あの夜と同じように妖しく潤んでいた。僕への欲望に潤んでいる、と言うよりそれは、僕を通じて何かを遂げたい、そんな思いが欲望となって密香さんに熱を持たせている、そんな目だった。

それで僕は確信した。酔ってたからじゃない。彼女は依然として明確に、何かを破壊したいと思って、僕に接触してきたのだった。

「君はさ、それでいいのかよ」

僕はそれで刺すように言い返した。もう限界だった。彼女はやっぱり、何も判っちゃいないのだ。

「暇なんですよ」

密香さんは言った。それは、僕を分かっていてあえてそれを押し返すような口調だった。

「わたしは、あなたが嫌いです。どうして、誰にも望まれていないものをただ、描き続けられるんですか?別にあなたが誰にも、望まれてもいないんでしょう?」

自分はそれが破壊したいのだ。そう言わんばかりの口調だった。

「だからどうしたんだよ」

僕は徒労を感じながら言い返した。

「想うとはそう言うことだ。あんたは、人から望まれなくちゃ、そう思えないのかも知れない。でも、そう思わない人種だって、この世にはいるんだ。僕は君より幸せか?そんなことはないだろ。皆、君みたいに生きているわけじゃないんだ。決まったただ一つの答えがあるわけじゃないんだ」

言わなかったけど、それは僕だってそうだ。果たして、僕が幸せか?君は誰と何を較べようとしているんだ?

分かってもらおうなんて、思っちゃいなかった。ただ、限界だから言っただけだ。時が経てば、想いなんて簡単に変わってしまう。静御前が清廉な魂を見出したように、自分の想いを、与えられる何かがないまま、変わらぬよう、保つことなんて容易に出来はしないのだ。でも出来ない、と言うその声を聞きたくない。僕はそうやって生きている、ただそれだけなんだ。


日暮れ前、鎌倉へ戻った。家に帰る気になれなくて、由比ヶ浜に足を運んだ。海が、凪いでいた。セントバーナード犬に引っ張られて、ようやく歩いている人がいた。この海はいつも、同じ日課を持つ人をただ受け入れているのだろう。

スケッチをするはずが、今日は何も(はかど)らない。何をしても、人には望まれない。想いは、人には届きはしない。そんな密香さんの声が、僕にもしっかりと響いていたからだ。

その女の人を見かけたのは、日暮れ前のことだった。

飾り気ない格好をしているのに、地元の人間とも思われなかった。桜貝のネックレスが陽にきらめいているのが印象的だった。それがまるで帰るあてがないとでも言うようにいつまでも時間を過ごして、暮れゆく夕陽を眺めながら、波打ち際で貝など拾って時間を過ごしていたのだ。

恐らく三十過ぎの(ひと)だろう。決して目立ちはしない風貌だが、ブリーチもしていない黒髪が艶やかに夕陽に映えて、清潔感のある人だった。その人が戸惑い、どこか、思いつめたような顔をしながら、いつまでもそこにいるのが、僕の目に留まった。

何となく気になって、いそいそとその風貌を写し取った。


家に戻ると、手紙が来ていた。僕に私信など、来るあてもない。きちんと包まれた封筒を見て、思わずぎょっとした。あのぞんざいに書いた手紙の返信が来たのだ。

罵倒されなくて済んだ。いや、どころか美鈴さんは相変わらず、彰大さんのことを想っている様子なのだ。以前の彰大さんと、違和感を覚えながら、それでも気持ちがそこにあることを信じている。僕にはただただ、信じられない想いだった。

彼女は鎌倉へやってきたと言う。もしかしたら、由比ヶ浜のあの人は。そんな偶然、あるはずがない。判らない。でも年越しの、変わらぬ思いをしたためてくる美鈴さんが、僕から手紙が返ってきたことで何度か足を運んだ可能性はある。たぶん極楽寺付近に来て、足が惑うまま、由比ヶ浜で時間を過ごして帰ったのかもしれない。今の僕にはただ、そんな美鈴さんが愛おしかった。彰大さんはもうここにはいない。だから諦めて幸せになって欲しいのだけれど、彼女自身をまだ鎌倉に留まらせた、その永い想いも大切にして欲しかったのだ。

それに僕自身も、僕の想いも伝えたかったのだ。

あなたが信じていることだって、決して間違いではない、と。

彰大さんのじゃない、僕のはた迷惑な想いだ。明らかにそれをしてしまえば、彰大さんが手紙を返してきているのではない、と分かってしまう。でもそれでも、分かって欲しいような、そうでないような。あなたが信じているものを信じている男がいるのだ。いやもちろんそれは、あなたの求める人じゃ、絶対にないのだが。

そんな曖昧な気持ちのまま、僕は由比ヶ浜でスケッチしたあの女性を静御前の風采に描き改めて、手紙に同封した。自然、手紙の文面は戸惑ったもののようになった。破れかぶれの気持ちのまま、投函したことが、いつまでも僕の胸にささくれのように居残っていた。


前略、鎌倉まで来られたようで、ただただ、戸惑うばかりです。人の想いは、年月をそのまま絵の具の色で塗り重ねるように、変わっていきます。ただただ生きているその有り様に沿って。変わらぬ思いなど、本当はどこにも存在しないのです。静御前が京都へ帰ったのは、義経のことをどこにいてもあるように思えるからではなく、単純に自分が、今まで通りに、しなければいけないことをして、生きていかねばならないことに気づいただけなのです。

 私たちの間にはかつて、いつまでも共有し合えると思える気持ちが確かにあったのでしょう。しかしそれは、時間と言う違う色を重ねるごとに、薄れていくものなのです。あなたの周りや暮らしだって、時間とともに移ろっているのだと思います。私の時間もこうしているうちに刻々と流れていきます。もう私は、あなたがかつて想ってくれたような私では、決してありません。描こうとする絵すら、これほどに変わってしまいました。

 この静御前のスケッチは、ある日、由比ヶ浜の海岸で偶然見かけた女性をもとに描きました。彼女もかつてのあなたのように波打ち際で桜貝を拾っていました。何か思い悩む様子でしたが、時間の移ろいとともに現実に戻って行ったはずです。素晴らしい未来がある、あなたにはもう、過去の幻影を振り返っている暇はないのです。私とのことで、何かわだかまりを持っているのなら、それはどうぞ忘れて下さい。

恐らく、あなたは引け目を持っているだけなのです。幸せになろうと言うのなら、そんなことは忘れるべきです。私もあなたの幸せを願っています。だからこそ、忘れてほしいのです。私は、そう願うばかりなのです。

                             草々

                             五月十七日 水城彰大


杉村美鈴様


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ