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五月十日

極楽寺についた日は、一日雨の日だった。花冷えの季節は過ぎて、初夏の温かい雨がぼたぼたと若葉を鳴らしていた。駅を降りた途端、思わず息を呑んでしまった。実は僕は、随分遠くへ来てしまったのではないかなあと、訝ったのだ。

鎌倉市街なのに、極楽寺駅の辺りは本当に狭い山間と言った雰囲気だ。品川、川崎、横浜と繋がった一連の文脈が、突然違う本を開いたかのように、途絶した感じがする。同じ雨でも違うリズムに聞こえてくるから不思議だ。

手荷物を抱えて僕は、ふっと息をついた。やはり都内に住むことにならなくて、良かったのかもしれない。ここに来るまで僕は読まなくてはいけない息苦しい参考書を手渡されて、必死に読まなくちゃいけないような気分だったのだ。あああめんどかった。まだ満開の躑躅(つつじ)の花の濡れた香を愉しみながら、僕は前に歩き出すことにした。

幸い今日はもう予定はない。買い物でもして、お酒でも飲みながら山積する引越し荷物の中で絵でも描こうと思った。静かな部屋なら、何はなくとも申し分ない。引越し初日くらい、何事もなく平穏に過ごしたかったのだ。

地図に描かれた道を確かめて、僕は目指す鎌倉の山を見上げる。鬱蒼と茂った林に薄紫色の山藤が垂れ下がっているのが浮き立って見えた。その向こうの空は白く煙っていた。昨日までの雑音からどうやって逃げて来たのか、それすらも忘れそうだった。


一年ぶりの東京はただ、目まぐるしいだけだった。そもそも舗装されていない道を、牛が横切るような場所にいたのだ。でも、たった一年で浦島太郎になるなんて思ってもみなかった。どうなってるんだ日本。

不肖水城彰太(みずきしょうた)、二十五歳にして絶賛哀れな日本人画家もどきの小生は、そもそも新宿駅を降りたら、人混みの流れに乗れなくて呆けたように立ち尽くしてしまったのである。その後ろを迷惑そうに通り抜けた群れは、なんと同じ飛行機に乗ってきたはずのタイ人の旅行客だった。彼らの怪訝そうな顔が、日本人の癖にお前の方がよっぽど異邦人じゃないかとはっきり言っていた。


かなり心配だったが小さな出版社は、四階建ての雑居ビルに挟まれてちゃんとそこにあった。担当の津本さんも相変わらずだった。新聞の広告欄に載る美術誌が、続々廃刊になるこのご時世に僕の画集を出してくれると言うのだから、びっくりした。

「まあそんなにいっぱいは刷れないけどさ」

一部は、一般の書店にも並ぶと言う。夢のような、と言うよりただ戸惑うばかりの話だった。自分でとても本を出すと言うイメージはなく、その約束も酒の席の冗談話くらいに軽い話だと思っていたからだ。

「やっぱりこの絵かな、表紙は」

津本さんは自分が画家志望だったようで、いつ会ってもぐいぐい来る人だ。今は陶芸に凝っているらしい。確か四十五歳、メンチコロッケの表面みたいな狐色の細かい髭が顔中を覆っている。眼鏡のフレームの色は毎回変わる。今日は緑茶オレ系の淡い色のフレームだった。

出版契約の打ち合わせと言うことで会ったのだが、僕が出国前に描き散らした絵をともかく推してくるのには参った。あれ、とある小説家さんが、文庫の表紙にしてくれて少し話題になった絵だった。僕にとっては恥ずかしい限りだが、津本さんに出逢ったのも、その人の縁なので邪険には出来ない。

「またどこかでバイト探すの?」

「そうですね」

僕は反射的に答える。また、日雇いの仕事探しだ。何しろ一年も東南アジアを巡ったのである。ほぼ宇宙人みたいなもので、じっくり時間をかけて地球人に溶け込まなくてはならない。

「とりあえず何回か、打ち合わせも必要になると思うんだよね。ご実家は長野でしたよね。まずはそちらに帰るのかな?」

「いえ、そっちに行っても仕事ないんで関東圏にいます」

「どこ」

「鎌倉です」

美大時代の先輩が鎌倉に住んでいて(地元で有名な水道工事会社の跡取りなのだ)、当座の仕事と、棲むところを世話してくれるとのことだったのだ。もはやまな板の鯉である。一にも二もなく、僕はご厚意に甘えることにした。

「出版業も大変だけど、画家も大変だよね」

僕は黙って頷いた。画家は食えない。これが泣くほど、食えないのだ。

僕だって、美大を出てちゃんとしたデザイン会社に就職してまともな道を歩むつもりだったのだ。しかしその会社が僕が就職する前に恐ろしい勢いで倒産したのだから、仕方がない。

「昔から言われますよ。こんなに(げん)が悪いのに、よく生き残ってるねって」


神様は僕に、どうあっても売れない絵をだらだら描かせて苦しめたいらしいのだ。そうに決まってる。

だってこの話には続きがあるのだ。

実はその後、僕は一般の会社にもぐりこんだのだが、その会社もまた潰れた。経理担当者がフィリピン人ホステスの愛人と遊んだ挙句、借金と残務処理を残して失踪したのだ。会社は滅茶苦茶になったのだ。しかも次に見つけた登録派遣会社も買収合併で部門そのものが消滅する、と言うわけで他にももろもろ、僕がまともな社会人になろうとすると信じられない事態が続発し、趣味のはずの絵に僕はすがらざるを得なくなった。さっぱり売れもしないのにだ。ふざけてる。

しかしこうした身の上話も、もはや仲間内では鉄板の笑い話だ。こうなると、本人も笑うしかない。僕はそんな笑い話で生きている。ゲスの極みである。

ちなみに平穏理に就職した美大の仲間たちの間で僕のあだ名は、不動の『ゴッホ』だ。決して納得はしていないがこの、あまりに哀れな身の上のお蔭で、皆がテオになって、何かと助けてくれるのだけが唯一の救いだ。

それでも神様は絵を描いている限り、とりあえず命だけは保証してはくれるらしいのだ。宿無し職なし、笑えるほど貧乏で痙攣しながら絵を描いている僕が、よっぽど見ごたえがあるらしい。有り金はたいてスケッチ旅行に出てやったのもそのためだ。殺すなら殺してみろ。ってわけで山賊や強盗の横行する村にも、平気で行った。自動小銃持ったゲリラと仲良くなった。画家ってなんなんだろうとそのとき思った。

常夏の辺境に棲むと常識はもろもろ変わる。細かいことは省けて、楽しかった。例えばカップ麺を食べ残しておくと溢れるほど侵入する蟻たちや、壁に取りついてトッケーと鳴く珍妙なトカゲに囲まれて、僕はがりがり絵を描いたのだ。お蔭で得体の知れない生命力がついたんだと思う。画家で当てて社会でサクセスしてやろうと言う、変な執着まで胡散霧消した。


まあ、とかご立派なことを言いながら昨晩僕は、上野の立ち飲み屋で酔っ払いと喧嘩したのだ。船橋で仏像を描いている画家なのだそうだ。いいパロトンを見つけてマンション暮らしらしい、結構草臥れた中年なのにイケメンのホスト気取りだった。気がついたら朝の上野公園で、足元がおぼつかなくて、顎の先が異常に痛かった。止めに入った人がボクサーで、黄金の左フックが顎を掠めたらしい。日本ランカーだったと言う。なんで喧嘩したのか、さっぱり憶えてない。憶えているのは、その前の鶯谷(うぐいすだに)で起きた、最低な出来事だけだ。


あああついうっかり嫌なことを思い出してしまった。顎までじんじん疼く。そのボクサーの人にはしっかり謝って、連絡先を交換して、試合を観に行く約束までしたのに。彼女のせいだ。だって。いや、一生懸命忘れるのだ、あの()のことなんて。


ビルの谷間のカラオケ屋の屋外階段で、抱き寄せた黒いドット入ったレースのブラウスの感触を、僕は思い出していた。綺麗に切り揃えた黒い前髪や、その下で清かに濡れる瞳の色も。すべてが以前のままだ。以前のままだけど、何かが違っていた。

「…じゃあ、どうしよっか」

円を描くように、彼女の指が僕の背をくすぐっていた。どうしても求めるものは、僕に言わせたいみたいだった。甘く湿っぽく艶やかな髪が降りかかって、シャンプーしたてみたいに匂った。僕は何にも返事はしてない。なのに輝く濡れた瞳をした彼女は手前勝手に頷いた。後のことはみんな、ちゃんと分かっているんだと言うように。


独りになると、いつも疼くのは抜群の性欲と言う悲しき男の性が発動する。やっぱりあのとき。鶯谷で朝を迎えていたら。なんってこと思ったって今さら意味がない。彼氏持ちなんだって。一部上場企業なんだって。向こうからしつっこいほどアピールしてきたのだ。だったらなんで、僕と寝ようとする!?やっぱり、人外魔境は東京の方なのだ。決してタイやインドネシアの片隅などに、あんな危険な魔物は住んじゃいない。


鎌倉に住むのだって、画家としての理由もある。

白拍子の絵が描きたかったのだ。

帰国してすぐ、淡く煙る黒髪の筆致が美しい岩佐又兵衛(いわさまたべえ)の絵巻物を見る機会があり、余計その感が強くなった。

暇に任せて国会図書館などで本を漁ったのだが、鎌倉はまるで異界の入口のような坂道で囲まれているらしい。名越、朝比奈、巨福呂(こふくろ)亀ケ谷(かめがやつ)、化粧、大仏、そしてこの極楽寺の七か所で江戸時代にはそこを『鎌倉七口』と称したのだが、まるで巾着袋を締めたような切通(きりとおし)や、平場(ひらば)の跡が残る堀のような間道の名残が、この町にはちゃんと遺っている。

この都市を造った源頼朝(みなもとのよりとも)が何より陸路に気を配ったのは、平家の残党の襲撃をひとえに恐れてのことだ。この鎌倉七口の間道はいずれも、侵入者を迎え撃つ構造になっている。陰謀家の頼朝の心の闇がそのまま現れたような昏い、しかしどこか呪術的に淫靡ですらある独特の空気感があるのだ。

由比ヶ浜に向かって拓いた八幡宮が頼朝の形作った表玄関だとすると、ここは未開の奥座敷か、密事(みそかごと)する納戸に思えてくる。

鎌倉幕府樹立の功臣すら容赦なく誅殺した頼朝は、猜疑心の塊だった。

その毒牙は、平家討滅に過剰な功があった実弟、源義経(みなもとのよしつね)にばかりでなく、その想い人の静御前(しずかごぜん)にも及んだのだ。


しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今に なすよしもがな


糸巻きのように過去をたぐりたぐりして巻き戻して、昔を今に戻して義経を愛したい、と舞った静御前を頼朝が赦すわけがなかった。

糟糠(そうこう)の妻である北政所(きたのまんどころ)北条政子(ほうじょうまさこ)が、

「わたしが彼女の立場でもそうしたでしょう」

と同情しなければ、その場で斬殺していただろうと言う。伝説によると静御前は義経の子を宿し、頼朝の有力な御家人、梶原景茂(かじわらのかげしげ)に艶言をかけられようとも、決して応じなかったようだ。頼朝に劣らず陰謀家の北条政子が、生活に困らないだけの財産を与え、実母とともに手厚く京都へ帰したと言う伝説すらある。

本来は男性衣装のはずの烏帽子に水干をまとい、媚びずに健気に舞う、白拍子。

かつての凛とした彼女に僕は、その理想像を知らず知らずのうちに重ねていたのだろう。馬鹿馬鹿しい。昔は昔、今は今、現実の世界ではそう都合よく過去が戻ってきたりはしないのだ。


長谷堂(はせどう)近くと聞いていたが、その家はさらに奥まった坂の小道にひっそりと佇んでいた。まるで坂から滑り落ちないように足を踏ん張ってそこに留まっている、そんな風情すらした。平屋建てでも道に沿ってちゃんとしたブロック塀があるのが、唯一の救いだ。

業者はもういなかった。どうせ引っ越し荷物は、金にならないものばかりだ。先輩がいいよ適当にやっとくからと言っていたのでそれに甘えてしまった。

しかもその先輩に、鎌倉に着くなり駿河湾の手頃な(たい)を一尾丸ごともらってしまった。帰国ばな、日本ランカーの絶妙なフックを顎にもらったと言う滑らない話で爆笑をとった報酬である。

活造りにしてくれると言ってくれたのだが、ここは丸ごと塩焼きにして楽しみたい。残った身と骨と頭を全部煮込んで、鯛雑炊(たいぞうすい)にして少しも余さず味わうのだ。悪酔いに絶好な深情けの岩手産純米酒も、先輩からもらってしまった。

曇ったガラスの入ったサッシを開けると、森の気配が忍び寄ってくる。今は躑躅(つつじ)だが、そこかしこに四季を楽しめそうな花々が一叢(ひとむら)くらいずつ群れているのが分かる。わけてもこれからは、紫陽花がとても見事だろう。どんな色の花が咲くのか、楽しみなところだ。

夏にはやぶ蚊が大量発生しそうだが、この風景はやっぱり悪くない。小ぢんまりしているし、人の手もろくに入っていないはずなのに、この混沌がちょうどいいのだ。ポンプ式の井戸の金具が、蔦に廃墟のように埋もれているが、まだ、井戸水は出るのだろうか。見れば見るほど気になる。

先輩によると、以前住んでいた人も美術関係の人だったと言う。この庭を見るだに、話してみたい気もする。たぶんその人は、この庭みたいに静かな人なのだ。多くの表現したい気持ちを孕んでも、ただ大らかでいられるのだ。

ガスで焼いた魚を放置しながら、日本酒を口に含んで僕は、そこかしこに以前の人が住んだ形跡を探した。やっぱりだ。ひっそりと、綺麗に住んでいた人なのだ。どことなく、そこが、しっくりくる。


万事に昨日までの僕は、ただ(かしま)しかった。人里に下りて、別人のようになっていたのだろう。津本さんと別れた後、僕は帰国しなに連絡を再開した女の人とさしで会う約束をしてしまったのだ。

同年代の青江密香(あおえひそか)さんは、三年前にかなり大きな新人賞を獲ってデビューした小説家さんだった。本を読まない僕でも、当時そこそこ話題になった彼女の著書は手に取っている。その折、ちょうど僕の絵を装丁に使ってくださった作家さんからの紹介だ。その方のお声で一、二度、彼女を交えて飲んだ。それからちょくちょく、メールのやり取りをしたり、折に触れて電話で話すようになったのだ。

僕が知己を得た頃は、まだ都内の有名な私立大学に在学中だった。研究室で名のある教授に目をかけられ文学部で『吾妻鏡(あずまかがみ)』の研究をされているとのことだった。

手慰みに書いた、当時の白拍子がタイムスリップして、現代でアイドルグループに入る、と言う作品が、新人賞に引っかかったのだ。考証豊かな作品の裏話を僕は、随分彼女から聞いた。

「中世の女性だって家に流されず、一途に恋を貫いたんですよ」

と言う持論が、印象的だった。研究志望で作家にはならないと僕には言っていたが、賞を獲らせた当時の担当者が熱烈に口説いたらしい。

「危ないな」

僕に引き合わせた作家さんがこっそり言っていたが、彼女は、道を踏み外した。

美人過ぎる研究者作家、と言うフレーズを誰から聞いたか忘れたが、選んだ方としては、そう言う売り方をするつもりだったようなのだ。

でも本人は谷崎潤一郎や川端康成と言った、戦前の純文学も好きで控え目ながら秘めた情熱のある人だったのだ。商業誌はシビアだ。本を出す企画を持ちかけられたまではいいが、持って行った原稿がことごとく評価されず、結局は自信を失って筆を折る羽目になったらしい。研究職の道も断たれ、今は知り合いの会社で事務をしているようだ。

「折角帰国したんだから会いたい」

と言われ僕は、のこのこ行きつけだった上野の小料理屋に出かけて行った。密香さんは普通に綺麗な大人の女の人になっていた。

「画集を出されるみたいですね」

おめでとう、と言われたのは、最初だけだ。後は雨あられのように、自分が今、結婚を前提に付き合っている男性がいて、その方は誰もが知る一部上場企業の正社員で、MBA(経営修士)を取得する勉強をしていて、仕事をしながらそれを海外研修で取るエリートコースが約束されている話が繰り返し続いた。

「良かったじゃないですか」

僕は素直にそう言った。だって僕と違って験が良くて、どんぴしゃで何もかもが揃っている相手なのだ。密香さんも一度は作家業に迷ったかも知れないけど、ちゃんと安定した生活を見つけて良かったと思う。出来れば替わってほしいくらいだ。

「そうだよね」

密香さんは何度も確かめるように僕に聞いてきた。僕より早く酔い出したので危険だなとそのとき思った。でももう、遅かったのだ。端正な密香さんの、目が据わっていた。密香さんはその後、カラオケに行きたいと言い出したのだ。

気がつくと僕は、鶯谷のラブホテルにいた。さやさやと彼女は清楚なレースのブラウスを脱ぎだし、ごく当たり前のように裸になった。暗い照明の中でも、密香さんの肌は出来たての葛餅(くずもち)みたいにつるんとして輝いていた。色づいた蕾がつんと上を向いていた。ああいやいやそうじゃなくて。

「どうかしたの?」

もうプラチナのネックレスだけの彼女は、僕を見て言った。強く眉をひそめていた。なぜだか一瞬、そこにぎょっとするほどの敵意がその表情に込められているのが、強く分かった。

「なんでもない」

あわてて僕が言うと、密香さんは露骨なほど重いため息を、そこでついた。

「シャワー、先に浴びてくるね」

言われた瞬間に、僕は部屋を逃げ出した。何でか、自分でも判らなかった。ただただインドネシアの密林で、悪魔に出くわした気分だったのだ。


後にしてようやく思う。彼女は単に僕が、自分の話に打ちのめされず平然としているように見えたのがとにもかくにも、気に喰わなかったのだ。

なぜか自分のライバルだった物書きと言うわけでもなく、一般社会からドロップアウトして何とか生きている同年代の貧乏絵描きがだ。いかにも、相変わらずのほほんと生きているように見えたのだろうか。その息の根を止めてやろうと、彼女は思っただけなのだ。残酷な欲望と言わざるを得ない。

幸せに救われると、人はどんな人間に対しても、それを痛烈に思い知らせてやりたい、そんな願望に憑かれるのかも知れなかった。酔っても白目が綺麗な青江さんは、あのときなぜだか瞳を異様にぎらつかせていた。彼女は誰かと結婚するその身体を投げ出してまで、自己破壊的ですらある(くら)い、異常な何かを期待していたのだ。


純米酒を飲みすぎた。鯛はまだ、レンジの中だ。ぶすぶす磯臭い香りが、部屋中を満たし始めていた。一体いつが食べごろなんだろう。

かたん、と何かがポストに投げ込まれた音がしたのはそのときだ。郵便物など、僕に来るはずがないから、間違えて投函されたのだろう。はた迷惑な話だ。日本酒のグラスを片手に僕は外へ出て行ったが、配達夫の姿はすでにない。

ポストを開けて驚いた。DMとかじゃない。便箋からするに、どうやら私信らしい。一番厄介なパターンだ。困ったな。何気なく取った僕は封筒の宛名を見てぎょっとした。なぜか完全に見知らぬ筆跡で、僕の名前が書いてあるのだ。あれ?

「…嘘だろ?」

軽はずみにその場で開封してしまうところが、僕のまた粗忽なところだ。読んでみて後悔した。内容にまるで覚えがないのだ。それもそのはず、おっそろしく似た名前の他人に宛てられているのだった。

水城彰大(みずきあきひろ)さん。水城彰太とほぼ同じ、点の一字違いなのだ。書いたのは、杉村美鈴(すぎむらみすず)さん、と言う方らしい。蔦の透かしの入った高価(たか)そうな便箋に切々と想いが、綴られていた。つい、内容に見入ってしまった。

悪質な酔っ払いだ。先だってここの先住者に思いを及ばせていたのも、手伝っていたのだろう。やめようと思ったのに、すいすい文章が頭に入ってきた。

なるほど、二人はギャラリーで出会い、僕が今立っている濡れ縁から、この庭を眺めたのだ。画家に惚れるなんてかわいそうに。しかも他に相手がいるのに、まだ未練が残っているみたいなのだ。

ふと、昨晩までの惨劇を僕は思い出していた。密香さんの昏く熱を帯びたあの眼差しが再び僕を捉えた。あれは愛なんかじゃなかった。欲情ですらない。ただの自爆テロだ。

それに比べると、三年越しの不在を得てなお、こんなに透き通った想いが、ここに綴られているのはどうしてなんだろう。想いを置いて現実は、ずっと先に進んでしまっているのに。僕が来なかったら、ここは無人の廃墟なのだ。この美鈴さんと言う人はまるで、みすみすこの想いを棄てに見当違いの僕のところに来たようなものだ。ただ純粋に、かわいそうだと思った。

彰大さんと、連絡を取る手段は考えられなくもない。ここの家主さんに聞くなり、先輩に聞くなりすれば、消息くらいは掴めるだろう。画家の世界はそんなに広くはない。もしかしたら僕みたいに、別の街で、相変わらずやっている可能性もあり得る。

しかしだ。文面から察するにあまりいい別れ方でもなかったらしい。彼女は彰大さんに恨まれるようなことを、してしまっているようだし。そこに別の人と結婚するけど、あなたを愛していました、なんて言う文面の手紙を持って行ってみろ、いい気持ちがするはずはない。

見なかったことにして放置しておく、と言うのがもっとも現実的な選択肢だがその場合、美鈴さんの気は済まず、何度も近い内容の手紙が来る可能性もある。こうなると、この美鈴さんと言う人のもやもやを、僕も共有し続けることになるのだ。

「しづやしづ、しづのをだまき繰り返し…か」

僕の脳裏に、甲斐のない時間の苧環(おだまき)を繰り続ける女の人の姿が浮かんだ。顔も見たことない人だ。ほっときゃいいのに。

鯛が焦げた。

意気消沈して、午前三時だった。酔いが覚めるのを待って僕は、コンビニへ便箋と封筒を買いに行った。もういいや。こっちで勝手に書いて返信しちゃうのだ。このもやもやを断ち切るにはそれしかない。きっぱり決着をつけてやるのだ。

で、よくもまあ、とでも言いたくなるような、ありあわせのぞんざいな品々が揃った。一番安いレポート用紙みたいな便箋に、薄くてぺらぺらの定型の封筒だ。これに二十五の大の男が、百八円(税込)のインクジェットペンを用いて、がりがり大嘘を書くのだ。ひどすぎる。

向こうだって、まともに信じるはずもないだろう。すぐに別人だと気づいて、気持ち悪がって諦めるかも知れない。心を込めた人の私信を読んだばかりか、勝手に返信まで書いてくる、そんな不審人物が思い出の場所に棲みついているのだから。

どっちにしても僕にとっては結果オーライだった。

善は急げだ。

一時間ぐらい考えて、何とかでっちあげた。


                                                  

前略、ひどく懐かしいお名前につい、筆を執ってしまいました。私の方こそ、自分のような人間のことを、今でも憶えていてくれることにただただ望外な思いです。佳いご相手を見つけられたようですね。わざわざお知らせ下さり、ありがとうございます。こちらの方は相変わらずで、特にめぼしい話題もなく恐縮です。蔭ながらお幸せになられることを祈るばかりです。

 今、ちょうど同じ庭を眺めながら筆を執っています。そのようなこともあったかと、お手紙拝見して今さら思い致す始末です。あの頃は確かに、色々なことがありました。相も変わらず同じ場所で日々に追われていると、そんなことにも鈍感になってしまいます。

鎌倉に因んで静御前のお話は、致しましたでしょうか。源頼朝に処刑される覚悟で、反逆者で逃亡中の恋人義経へ、変わらぬ愛情を示す舞を踊った白拍子です。彼女は過去を手繰り寄せて今を昔に巻き戻したいとあの八幡宮で歌い踊ったそうです。

しかしそんな彼女も、頼朝の妻、北条政子に説得されて結局は、京都へ帰ったと言います。人は過去を生きては、いけないようになっているのです。この庭も私が関心を払わなくなってから、すっかり様変わりしてしまいました。つくづく時間は、前にしか流れてはいかないようです。あなたも今、寄り添ってくれる方をくれぐれも大切になさって、ここに訪れたことはお忘れ下さい。

それが今のあなたにとっても、この私にとっても何よりの幸せなのです。

                                             草々

                                   五月十日   水城彰大


杉村美鈴様

           


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