De-Intellectualization (知性化解体) シリーズ
有意義な仕事をしよう
(*** 有意義な仕事をしよう ***)
昨夜、帰宅した時間は遅かった。遅かったというより、明るくなりかけていた。仮眠をとると、すぐにまた家を出る。
研究室に入る。昨日、どこまで考えていたを確認しようと、研究ノートを開く。
何か、違和感を感じる。だが、違和感の正体がわからない。
窓の外に目をやってから、もう一度研究ノートに目を戻す。
違和感を何に感じていうのかは、わかった。自分で書いたはずのことが理解できない。いや、いくらかの割合は理解できる。だが大切そうな部分が理解できない。
しばらく、研究ノートの昨日書いた部分を何度も読み返す。
気分が落ち着かない。正体不明の不安だけが胸、それとも頭の中で渦巻く。
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数日前のところから読み直してみる。
やはり分からない。
研究ノートを放り出し、本棚の前に行き、学会の雑誌を何冊か開き、論文を読んでみる。
やはり分からない。
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隣の棚から、本を取り、開いてみる。
やはり分からない。
入門者に向けた本を取り、開いてみる。
やはり肝心の部分が分からない。
目眩がする。
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計算機にログインし、作っていたプログラムを開く。
読めない。声に出して読み上げることはできる。だが、それで何をしたいのかが頭のなかで組み立てられない。
そのまま資料にもメールにもアクセスできるコミュニケーション・ソフトウェアを立ち上げ、覗いてみる。先日策定に関わった規則とそのディスカッションを眺める。良い規則だ。自分に何があったのかと不安になったが。安堵する。
だが、そのディスカッションの中での私の発言に目が留まる。その発言への返答は、「そのような変更はできない」というものだった。私がつけていたコメントを何度も読み直す。私は何を気にしていたのだろう? ディスカッションの流れを読み、私の発言を何度読みなおしても、私が何を気にしていたのかがさっぱり分からない。いや、なぜそのような事を気にしていたのかがさっぱり分からない。
コミュニケーション・ソフトウェアで他の資料にも目を通す。何人もが考えて書いているだけあって、どれも良いものだ。完璧とまではいかないのかもしれないが――完璧なものなど作れるはずもない。充分に良いものだ。
だが、目眩がする。私自身の連続性についてなのだろうか、さっきの目眩とは違うが、それでも目眩だ。
コミュニケーション・ソフトウェアで幾つもの資料を読み、一日を過ごす。
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翌朝、職場に着く。
雑誌や本を片付けよう。
なぜ研究などやっていたのか、自分でも全く理解できない。有意義な仕事に時間を使えたはずだ。社会や組織を運営すること。それ以上に重要な、有意義な仕事がこの世にあるだろうか。
いや、今からでも遅くはない。有意義な仕事をしよう。プライベートな時間を充実したものにしよう。人間らしく。