第五話 エゴサーチその一、地の文ばっかでごめんください
保健室での格闘は、知らぬ間に戯れ合いというカタチをとって、一旦落ち着きを見せていた。
新妻さなたむは、→さなみ先生→大人の一面を振りかざすさなみ先生→セクシーさなみ→いっぽさきゆくおんなのさな→さなみの憂い→膨れるさな→結構さな本気モードと目まぐるしい変化を見せていく。
一方、クラスメートたく、75%の一言、ニューバランスひそひそによって、浪藤吉藤吉浪のココロはみるみる奈落の底へと墜ちていくのであった。
さあ主人公不在の物語の本筋は一体どう流れていくのだろうか・・・
さて、ここで本編の主人公たる浪藤吉藤吉浪に白羽の矢が立った。といっても彼、クラスメートのたく、75%に、実のところ全くの虚言を浴びせられそれがための救い用のない究極の窮地へと、いうなれば杞憂の地へと踏み込んでしまうこととなる。
これまで彼を突き動かしてきたその原動力たるその総てにピタリと寄り添って生まれてはじめて客観的に計測してみるならば、それは余りにも巧くイキ過ぎていただけのただのチンケな優越感つまり、マッタク飼い主に噛み付く可能性の無かったパラドックススレスレの狂犬を飼い慣らし続けていた、彼自身結局のトコロ狂気の耐性を端から所持していただけという傷付かぬだけの度量ならぬ単なる鉄面皮に相当している塗料をその表皮に無意識のうちに加工していたというだけのこと。
よって、言い切ってしまえば、並の成長過程の一大事に過ぎずそれは本人の人生以外においては全くの取るに足らない自然現象、否、悪天候の一日くらいにしか相当しないのであった。
それが浪藤吉藤吉浪にとって彼のそれまで視界良好ただそれだけにしか過ぎなかった彼の真っ平らな大海原を奔る帆船に突如ニョキニョキと空を一太刀に両断させ海を金属質に凍らせた巨大な鉄のカーテンの正体であった。
自意識、そして自意識過剰、理由なき全能感、勝利なき不戦勝の連続体、無限の意識が、有りもしないはずの超常現象がココロの奥底にズッシリと籠められていることへの、手応えと信頼。
皆に等しく彼は中二病を患っているだけだった。
ただし、思春期、それを適度に中和してくれる筈の友人知人親族に旨く適合しなければ、その重軽傷度合いに振り幅があるのも当然のことである。
あいにく、彼はこれまで、誰の助言も必要とせず櫂を回すことの出来続けた希有中の希有、いわばマイノリティであって、中二病中級者以上に持つことの赦される銃スペルガンを当然ながら腰元のホルダーには携えている気質だったという。
だからこそ、たく、75%の心ない一言は、同時に特効薬でもあるはずだった。
今語られた一連の心象風景が、彼にとっての外面だけに完全に自生し続けた諸刃の剣の正体であり、そして人生で初めてのカウンタークロスこそが、つまり、ニューバランスひそひそだった、ということである。
ところで、今回からはじまる副題エゴサーチの回は、全三部予定の内の現第一部、の承となる大事なパートであり、ここではじめて登場人物が主人公ただ一人に絞られる。よってこれまでずっと謳ってきた矢印小説、という文体を裏切るのでは?と予想する読者もいるかもしれないが、しかしそれはないだろう。
むしろ、これまである役割で活かし切れていなかった部分をより呼び起こし、次のパートへ旨く活用してゆくその契機になればと思っている。
これまではただ矢印を使い、筋の流れを図式的に描くことは出来ていたと思う。
しかし、この小説には、もうひとつ大きなスローガンを立てていた筈ではなかったか。
そう、すなわちあの、カオティック・メタという造語だ。
今思えば、引き出しのような箇所箇所には、メタ要素を振り分けていたことだろう。
しかし、表立ったメタの介入がなかった。
メタ、つまり作品を大枠からアプローチする透明ではない方の作者が登場していなかった、というわけである。
これではいけない。
カオスでもメタでもなく、ただのノーマルな文章にしかならない。
そんななかにも朗報がある。
冒頭から、彼の中二病特有の痛くて切ない自意識の映像的解釈と、そこへ斜交いに埋まってしまったニューバランスひそひそという異物の重大性を長々と地の文でお伝えしてしまっている今現在、謀らずも作品のトーンを味変出来ていることへは例え逆説的であったとしても及第点くらいの手応えがあるとして、しかししかし、なおも謀らずももっと都合の良い事態が急展開に起き始めているのだ。
すなわち、地の文の所々に、ヤットコサ不透明なる捻れが生じはじめているのである。
つまり、メタが、カオスをはじめはじめているのである。
これでこそ、矢印という文体が生きるのではないだろうか。
次回、エゴサーチその二、動き始めた眼多な顔す、
錯綜に乞うご期待。
中二病解説;Wikipediaより抽出
思春期の少年が行いがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などに対する蔑称、特に創作物の評価において「身の丈に合わない壮大すぎる設定や仰々しすぎる世界観を持った作品」、ひいては「非現実的な特別な世界観や設定そのもの」。
邪気眼系
不思議・超自然的な力に憧れ、自分には物の怪に憑かれたことによる発現すると抑えられない隠された力があると思い込み、そのような「凄い力」がある自分を妄想し、悦に入る。また、そういった設定のキャラクター作りをしている。