紅茶色の少女
“人間の心の闇は時として見たこともない怪物を生み出す。それは我々にとって理解し難く、名状し難いが、神の仕業でも悪魔の仕業でもなく、確実に人間を構成する何かが混ざり合った所から生まれる性なのだ。人間は時として、どれほどの苦痛を伴おうとその闇を真正面から覗き込まなければならない時がある。”
――――『クリオテイテの大魔導師』――――
ふわり。と、あくまでも柔らかく、優雅に降り立ったその女は今、私の前に立っている。
その不思議な威圧感に私は息を呑んだ。
少女はミルクを入れた紅茶のように柔らかそうなブロンドの長い髪の上に、日よけのつばの大きい帽子を被り、白いドレスの上に真紅のジャケットを着ていた。日焼けした男の肌と対照的な少女の白い肌は目に眩しく、彼女自身も含めて全てにおいてよく手入れされている、といった印象で、着ているものも自然に高級感溢れて見える。
盲目なのか瞳を閉じていることと、ため息の出るような冴え冴えとした美貌であることを除けば、一見しただけではどこにでもいる良家のお嬢様だ。
しかし、私は今、戦慄によって全身にざぁっと鳥肌が立つのを感じている。少なくとも、見た目通りの普通の少女ではないことは私にとって明白だった。
ジョークじみて例えてしまうなら、ちょっとやそっとの神話生物を前にしてもこんな尋常でない慄のきは感じない。力の強大さや殺意の強さに慣れた私をこんな、神経剥き出しみたいな状態にさせる感覚とは……いうなればそう、少女の中に覗き込んではいけない昏い異界が存在するような、そんな常軌を逸したぞっとする異質を感じる。
苦手なタイプとか、そういう些細な問題をはるかに超えて、この女性と長時間一緒にいることは自分にとって苦痛以外の何者でもないと思った。
「はじめまして、私の名はロリカ。ロリカ・モルディーニ・アンゼルムと申します。お察しかと思われますが病で光を知りません。ですが、不思議とそういった人間は他の感覚が発達するもののようです。商売をする上で不便を感じたことは多くありませんね。あと、こちらの男性はソレル・ザイーダと申しまして、共にギエナの城下町に拠点を置くアンゼルム商会の人間です。」
言葉の通りに不自由を感じさせずこちらを向きながら、物腰もあくまで穏やかに、しかし堂々と、少女は自己紹介をする。男も形式的に帽子を取ってお辞儀をした。
相手の物腰がいたって普通であることに、逆に恐怖を感じるというのはきっと得難い経験に違いない……、静かなのが見透かされているようで、そう!この目が見えないのだろう女の子には、何故か目に見える以上のものを知る能力があるように感じます。優雅に笑顔を浮かべているのは、こちらの心の内を見透かしているかのような。
その前に立つことにどうしようもない不安を覚え、すぐさま逃げ出して身を隠したい感情に、私の本能は駆られます。
戦って死ぬことに名誉を覚えることはあっても、我々姉妹には生き延びるために逃走を選ぶことに恥を覚える者などいないでしょう。
しかしとはいえ、望む通りにできるような状態でもありません。こちらとしても内心の動揺と背中の冷や汗を悟られないため、普通の会話を交わしていきます。
「これはご丁寧にありがとうございます。私はグレイ・ハウンドと申しまして。不慮の事故で遠い異国からこちらへ渡ってまいりました。こちらへやって来てまだ日も浅いので不躾なところも多々有りますが、どうぞお見知りおきを」
嘘です。口から出任せです。
頼むから別れた瞬間速攻で存在を忘れて頂きたい。見知りおかれても困ります。
グレイちゃんは自分でも本気で天使かと思うぐらいの、にっこーっと完璧な微笑みを顔の上に浮かべて見せます。
こんな時に限ってそういう顔を浮かべてみせる自分の意地っ張りぶりには溜め息さえ出ますが、まあそういうふうに作られているわけなので仕方ありません。
我ながら完璧な笑顔を浮かべたまま、相手の次の出方を探ります。
「やはり異邦の方ですか。それも事故とは、さぞ苦労なさった事でしょう。微力ながら、わたくしどもにお手伝いできることがあれば何でも言って下さい」
だが断る!!
さも良かったというふうに胸の前で手のひらを合わせるロリカ・アンゼルムに、心の笑顔を引きつらせます。
商人の無償の善意なんてレアメタル程もこの世に存在しない物質の一つでしょう。
それがたとえ可愛らしく柳眉をひそめる年端もいかない少女の言葉でも、いやだからこそ、契約書に明記されていない商人の口約束を鵜呑みにするなんて、閻魔様とさえ交渉する気のない人間のすることです。
ましてあんたに借りを作るのは絶対にイヤ。
御者のソレルも渋い顔をして、何か言いたそうに腕組みしています。
「身に余るお気遣いとご厚情に深く感謝します。しかし見ず知らずの方にそこまで甘えるわけにはまいりませんし、私も唯不幸に巻き込まれた小娘ではありません。自分で自分を守る術ぐらいは心得ているつもりです。直近の街の方向さえ教えていただければ後は自分でなんとかいたします。どうぞお構いなく」
こんな硬っ苦しい喋り方をしないと揚げ足を取られかねない商人というのはまったく難儀な商売ですね。
てことでいいからさっさと道だけ教えてどっか行け。もしくは腹かっさばいてくたばれ。
「そう仰らずにご遠慮なくわたくし共を頼ってください。困ったときはお互い様ですよ。それにもし助けが必要な方を捨て置いたとなれば我々の家の名が廃りますもの」
ありがた迷惑以外の何物でもないわァーーーーッ!!!!
普通の相手なら正直何らかの取引を持ちかけて街まで連れて行ってもらおうなんて思ってましたが、今は絶対にありえない判断です。
この女が腹に一物持っているのは言うまでもなく間違いないでしょう。しかし彼女のこだわる理由が額面通りに商会の名誉なのか、それとも私自身に興味があるのかがわかりません。
……街の商会の、服装からしておそらくかなりの力を持っているところの令嬢ということは、これは既にマザーの用意したイベントの一部というわけ、でもないのでしょうか?
持っている情報量が少なすぎて推理を結ぶこともできませんね。
やれやれ、人形の立場が身にしみる思いです。
……………いえ、まずそれより、この少女は何者なのでしょう?
どうして私はこんなにこの少女に言い知れぬ恐怖を感じているのでしょう?
いくらこの少女が仮にやり手だとしても、それに圧倒されるようなグレイちゃんではないです。自身を持って言いますが。
見透かされるような妙な感覚にも確かに嫌な感じはありますが、それでも決定打にはなりません。人間にこんな恐怖を抱くのは久しぶりのことです。
意識は思考と感覚の海に沈もうとしますが、目の前の状況は片付くことを待たずにそれを許すこともないでしょう。
「いえ、馬車を汚すのも本当に申し訳ないですし、どうかお気になさらないでください」
「そんな!馬車の汚れることなんて本当に気にしないでください。商用の汚い荷台でこちらこそ恐縮なのですから」
うるせェよ。大人しく引き下がりやがれ。
断る口実も正直苦しくなってきた私の言葉に、ロリカは大仰に表情を変えてみせます。
ええい面倒くさい!
どうして私が穏便に助力を断る方法なんて考えないといけないんですか!
どうしていちいちわざわざ絡んできますかこのアホ女も!商人ならこちらがやんわり断ってることもとっくにお見通しでしょうが!!
まったくホントにどいつもこいつも!
グレイちゃんの予定ではとっくに街のギルドで冒険者登録してウハウハで雑魚モンスター狩りまくって賞賛と嫉妬の入り混じった目を凡愚の俗物どもに向けられながらこんどはいよいよドラゴン退治とか行っちゃおっかなー!なんて調子こいてるはずだったのに!
ままならないことが多すぎていい加減吐き気がしてきます!イベント長いわ!
ううううううじゅうにゃああああああああああ!!!
すでに心のグレイちゃんは頭を抱えて奇声をあげながら発狂しております。
「いえほんとお願いだから好きにさせてくだしあ………」
「お嬢さん、この嬢ちゃんもこう言っていることですし、我々も直ぐに街に戻るわけではないんですから彼女の言うとおりにしてあげたほうがお互いのためってもんじゃあ」
正直本気でロリカ嬢のこめかみに一発ぶち込みそうな私に、横合いから思わぬ助け舟が出されます。
ナイスです!盗賊顔のソレルお兄さん!全くその通り、そうした方がお互いのためです。
普段ならなに出し渋っとんじゃボケェ!!とか思いますが今だけは感謝の雨あられです。
「申し訳ありませんがソレルさんは出発の用意と、それが終わったら馬たちのご機嫌取りでもしていていただけますか?」
え
えええええええええええええええ!!!????
きゃ、キャラがおかしくないですかこのお嬢さん!?
表面だけでも清楚な柔らか物腰キャラしてるんだと思ったのに、隠す気もないぐらいしっかり女王様だったんですけど!!
自分の商会の社員に邪魔だから馬とでも喋ってろと言いましたよこの人!!普段ならグレイちゃん地べたも構わず腹を抱えてそのへんを笑い転げているところです。
我慢しようとはしてますが流石に口元には苦笑いが浮かんでいるでしょうこれは。
ソレル兄さんもなんとも言えない渋い顔を浮かべております。
いや思ったより断然面白ェなこの女!!
「ええと、な、なかなかきつい事をおっしゃられるんですね。」
会話の流れが逸れることも願って恐る恐る聞いてみる。
「そうですか?何分まだまだ人間として修行不足の身ですから、商人にあるまじき言葉遣いをしてしまうこともあるようですね。お恥ずかしい限りですわ」
なにこれ、多分気のせいじゃなく静かな殺気が放出されているように思うんですが。
地雷踏んだ?踏み抜いた?
「ソレルさん、聞こえなかったのですか?」
にっこぉっとソレルの旦那に満面の笑顔を向けるロリカ。言わせんな空気読めってやつですねぇ。
そこらへんの唐変木がやっても滑稽なだけですがいやなかなか、様になってます。やるじゃないですか。
「いや、お嬢さん、私も護衛とは言いませんが肉盾の意味ぐらいは兼ねているわけで、見ず知らずの人間とお嬢さんを二人きりにするわけには……。」
「ソレルさん?」
「お嬢さん……ッ!!」
「二人にしてください」
「………………っ」
言葉に詰まったように顔をしかめて沈黙するソレル兄さん。
その眉間がこれまで以上に深く皺を刻み、……そのまま彼は大きく溜息をつきます。
そして眉間にしわを寄せたままこちらを睨み、無言で私たちに背を向けます。
うん、折れた。
無言のまま御者席に向かいつつ、帽子をとって頭を掻く彼の後ろ姿はサラリーマンの哀愁に満ちていました。
「躾が行き届いてるなあ……」
その後ろ姿にはグレイちゃんも聞こえないように小声で感心します。
いやーよーさん勉強しとるのー。
あのオッサンの人がいいのか、この娘っこが怖いのか。
間をとって彼女が信用されているということにしておきますか。何と何の間なのかまったくわかりませんが。
「ソレルさんは優しいですから。ついついいつも甘えてしまいます。」
口元に微笑を浮かべて私と同じく後ろ姿を見送りながら、こんなことを言うロリカ嬢。
……聞こえてた?
「さて、それでは交渉に戻りましょう。」
いや、いつのまにか交渉になってるんですが。
交渉って商人語に翻訳するとせんそうって呼んだと思うのは私の記憶違いだったでしょうか。
「……どうして私にそんなに執着するんです?」
半ば呆れ混じりに聞いた……ように見せかけて結構本気の質問です。
もはや気のせいじゃないでしょう。このお嬢さんはどうやら私自身に御用があるようです。事と次第によってはここで息の根を止めなにゃあなりません。おっぱい。
「実は私、目が見えない代わりに先の事がわかるんですよ。」
……は?
というしかないでしょう。一体何のお話でありますか。
グレイちゃんは胡乱げな表情を浮かべます。見えていないんでしょうが。
もしやそれが答えだとでも?
「それはそれは。そんなことが出来たらさぞ大商人として歴史に名を残すでしょうね」
「ええまあ。所詮はまだ将来の話ですが。」
ヲい。
悪びれず。否定もせず。彼女は今までとは少し違う種類の笑いを浮かべて見せました。
罠に落ちる狐を嗤う狩猟者。例えるとすればそんな人間が浮かべる笑みでしょうか。
「その手の冗談は流石に反応に困るんですが」
「謝りませんよ?冗談じゃありませんから」
「…………………」
今度はまさか私がため息をつく番だとは。
なんかほんとにこっちへ来てからグレイちゃんはペース乱されっぱなしです。
「ハァ……。その未来がおわかりになるお嬢さんが、私なんかに何の御用なんですか」
なんか色々とどうでもよくなってきたわもう。
いっそ別の個体とチェンジしたい。シスターズの誰かこの人の相手代わってください。
もちろん姉妹は全員私と同じ性格ですが。
太陽が傾いて木漏れ日が私達二人を包む中。
半ばやけっぱちの私の質問に、彼女は腹が立つほど嬉しそうに明るい声でこう答えました。
「貴方が私にとってかけがえのないほど素晴らしい友人になる未来が見えたので」
「は?」
今度は口に出して言っちまいました。は?ですよ本当に。
むしろはァァァァッァァァあああああああン!!!???ですよ。
「未来が見えて将来は大商人として歴史に名を残すお嬢さんが?私とお友達?」
もうなんかこれが今言える皮肉の精一杯です。ああ頭痛い。
「未来が見えて将来は大商人として歴史に名を残し、その上にこの上ないほど友人を大切にする美麗な社長令嬢の私は、貴女にお友達になって欲しいんです」
わあお。完璧な皮肉で返されましたよグレイちゃん。どうします。どうされます?
あはは。
もはや半分頭が停止しつつありますがグレイちゃん。灯油かぶって死にたい。
もちろんかりそめでも友達づきあいとか鼻で笑ってお断りなタイプですよグレイちゃんは。
其の辺のやっすいそこかしこでお友達なんか作っちゃうAIとは品質が違います。メイドインアトランティスです。ああ嘘だよ、悪いか。
私に友敬の念が生まれるのなんて、鉄火と陰謀と策略と悪意に満ちた戦場で見とれるほど上手に踊るような相手に対してぐらいのもんです。グレイちゃんは本人がちょーハイスペックですから。
でもああ。駄目だ。
多分この人そういうタイプだ。
「友達なんて貴女そんな……乙女じゃないんですから……」
「あら、私は紛れもなく可憐な乙女ですが。貴女は違うんですか?」
「…………まさか。グレイちゃんほど完璧可愛い乙女なんて世界中探したって見つかりませんよ!!ふざけやがれ!」
ああド畜生!腹立つぐらいツボを抑えた挑発してきやがりますねえまったくこの人は!さすが大商人候補!
「ではお友達の一人ぐらいいてもよろしいのではなくて?乙女として。」
「心配していただかなくともふるさとには百人とかはるかに超える親友が私の帰りを待ってますよ!」
自分と同じ顔をしてますが。ていうか奴ら友達ではないな。うん。
そんなことを言いながら差し出された手を、グレイちゃん不覚にも少年誌並にがしっと握っちゃいます。
だって伸ばされたんだもの。咄嗟に握ってしまってもそれはオナニーしすぎの童貞が悪い。むしろ世界の戦争のすべては童貞が悪い。
「不束者ですがよろしくお願い致しますわ」
「グレイちゃんは謙虚で寛容なスーパー美少女なので悲鳴を上げるぐらいよろしくして差し上げます」
ああ人生って不思議。(私は“人”口知能です!!)
グレイちゃん冒険生活一日目にして。
何故か奇妙な友達ができてしまいました。