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ビリーブ・ミー

作者: 古池ねじ

 リチャードと初めて出会ったあの日のことを、メリルは今でもはっきりと、覚えている。

 それは2000年12月5日。雲ひとつない晴天で、そのぱりっと清潔な冷気を吸い込んだときの微かな痛みさえ、六年の時間を経てなお昨日のことのように鮮やかだ。メリルはお気に入りの真っ赤なダウンジャケットに、白い毛糸で出来た帽子と、おそろいの手袋を身につけていた。

 スケートリンクは、和やかな喧騒に満ちていた。メリルは隅にぺたりとへたり込み、唇をかみ締めて、頭をうつむけている。ごう、と傍を誰かが通りすぎるたび、強い冷気がメリルの頬を赤く染める。

 おうちに帰りたい。

 毛糸に包まれたちいさな指は、すっかり冷えてしまっている。体中をびっしょりと濡らす汗のせいで、だんだん寒気がしてきた。頬だけが、変に熱い。

おうちに帰りたい。

けれど湖が凍って出来たこのリンクは十歳のメリルにはあまりに広く、父と母の姿を見つけることもできない。そもそもスケート靴を履いたまま一人で立つこともできないメリルは、こうしてただ身を小さくしているほかない。誰の目にも留まらないように、小さく。

それは、どのぐらいの時間だろう。その間に一体どれだけの人が、メリルの姿を「ああ滑れない子がひとりで転んでいるかわいそうに」と哀れむことだろう。そう考えたとたん、メリルの目元がじゅわ、と熱くなる。もう十歳にもなったのに、こんなところで泣くなんて、と思うけれど、そんな自分が情けなくて余計に視界が曇ってくる。

「どうしたの?」

 急にかけられた声に、メリルはうつむいたままでいた。ぽた、と氷の上に涙が一粒落ちる。

「大丈夫? 怪我してない? 立てる?」

「平気……」

 かすれた声でメリルは答える。

「嘘」

 ひどく近い声につい顔を上げると、鼻が触れそうな距離で、少年がこちらをじっと見つめていた。

「ひゃっ」

メリルは身を引き、泣きそうだったことも忘れてぱちぱちと金色の睫をしばたたかせた。少年は、緑の穏やかな目を細めて、立ち上がる。メリルと同い年か、一つ二つ年上くらいに見えた。

「ほら、立とうよ。一緒に滑ろう」

 そして、手を差し出す。メリルは後から思い返しても不思議なほど自然に、その手のひらに、自分の手を重ねた。もう一方の手も差し出され、素直にそちらも握る。

「ほら、ゆっくりでいいから、ずっと、握っているから」

 少年の言葉に導かれるように、メリルはゆっくり、おそるおそる、ブレードを半ば氷に突き刺すようにしながらも、どうにか、立ち上がる。その間ずっと、メリルの手は出会ったばかりの少年の手の中にあった。膝をまっすぐ伸ばして立ったとき、あたたかい喜びが胸からあふれて、自然と微笑んでしまう。

「ほら! 立てた! じゃ、滑ってみようか」

「え……」

 戸惑うメリルに、少年はにっこりと微笑む。

「すぐに出来るようになるよ。まず、ほら、こうやって、かかとをくっつけるみたいにして」

「あ、うん……」

 少年のスケート靴を真似るように、かかとをつけて、つま先を開いて立つ。メリルはそのとき、自分が周囲をちっとも気にしていないことに気づいた。ただ、背筋を伸ばして立っていることが、うれしかった。

「じゃあ、次は歩いてみよう。足をそうやって開いたまま、右足を前に出してごらん」

 彼の言葉で、メリルは、氷の上を歩く。重たいスケート靴に包まれた右足をそろそろと持ち上げると、左足のブレードが滑り、身体が傾く。

転ぶ。

 ぎゅ、とこれから来るはずの痛みへの恐怖に目を瞑ったメリルは、けれど転ばなかった。

「あんまりびくびくしながらだと、逆に危ないよ」

 メリルの背を軽く叩いて、少年は言う。メリルは少年の腕に、しっかりと支えられていた。

「……でも、怖い」

 メリルが唇をわずかに尖らせると、少年は微笑んだ。その綺麗な緑の目でしっかりとメリルの青い目を見つめ、大きく一つうなずいた。

「大丈夫だよ」

 パパみたい、と、メリルは少年の顔に見入った。この子だってまだ子供なのに、こんなにしっかりしてて、声を聞いていると、安心する。なんでもできるような気に、なってくる。

「僕を、信じて」



 ゴールデン・ワルツは、数あるコンパルソリー・ダンスの中でもっとも歴史が浅く、そしてもっとも過酷な課題だ。ホールド・ポジションがキリアン、ワルツへとめまぐるしく変わり、ターンの数と複雑さは他の課題とは比べ物にならないといってもいい。

ジュニア・チャンピオンの称号を手にシニアに挑もうとするメリル・ラドクリフとリチャード・アクトンにとって、短い時間に要素を詰め込まなくてはならないオリジナル・ダンスより、ジュニアより30秒も演技が長くなるフリー・ダンスより、たった二周のステップを滑るだけのゴールデン・ワルツのほうが、ずっとシニアの厳しさを感じさせた。

 スピードを出し過ぎないように、とコーチに叫ばれて、メリルはほとんど泣き出しそうになった。何とかステップを最後までこなしてリチャードに抱えられ、美しいポジションで二回転した後、やわらかく着氷する。息を荒くしながらも優雅なかたちでリチャードと礼をすると、ゴールデン・ワルツのメロディはフェードアウトした。

「悪くないよ、メリル。ずいぶん形になってきた」

 酷使して重たくなった足首を動かしてリンクサイドへと滑りよると、彼らのコーチで元ワールド・チャンピオンのセルゲイ・ベールイは、ネックウォーマーに半ば埋まった口元を綻ばせ、メリルに向かって不器用に微笑みかけた。

「ただ、もう一度言うよ。スピードを出そう、と考えるのはやめなさい。君はただ丁寧に、美しくステップを踏むこと。あわせるのはリチャードの仕事だ」

「でも、セルゲイ……」

「リチャードの方がスケーティングスピードが出るのは当たり前だよ。身長が高く、力も強い。でも、男性が女性に合わせ、サポートし、二人で美しく踊るのがアイスダンスだ。わかるね?」

 メリルはうなずいた。確かに、それはアイスダンスの基本の基本だった。二人で滑る、二人で踊る。それがこの競技の基本で、すべてだ。

けれど、メリルが言いたいのは、気に病んでいるのは、そういうことではなかった。男女の肉体的な能力の差の問題ではなく、もっと個人的なことだった。彼女がついスピードを出そうと滑りが荒くなってしまうのは。

けれどやわらかいブロンドに包まれた彼女のかわいらしい小さな頭では、「じゃあいったい何が問題なのか」、をきちんと言語化して、コーチやパートナーに表明するのは不可能だった。だから彼女は初めてスケート靴を履いた十歳のころのような心細さで、口をつぐむほかはない。

口惜しさからセルゲイから目を逸らしたメリルはふと、あるカップルに目を留めた。ひどく小柄なブルネットの女性とやはり小柄だがとても姿勢のいい黒髪の細身の男性。

セルゲイに短期で教わりに来たカナダ人のカップルだ。基礎練習のためだろう。ごく簡単なフォーティーン・ステップスというコンパルソリーを滑っていた。メリルたちと違い、彼らは女性のほうがステップが滑らかでエッジが力強く、男性をひっぱっているのが一目でわかる。自分たちとはまるで逆だ。何か失敗したのか、男性のほうが悔しげに氷を蹴った。見ているのが申し訳なくなって、メリルは視線をセルゲイに戻す。

「リチャード、君はホールドの位置が高すぎる。もう少ししっかりメリルを捕まえておきなさい。特にキリアンでは二の腕に力を入れてしっかり固定すること。あと、身のこなしをもう少し丁寧に。歯切れがいいのはけっこうだが、これはワルツなんだからね。あくまで優雅に」

「イエス・サー」

 リチャードは軽く肩をすくめた。セルゲイは苦笑して、二人を交互に見て言い聞かせる。

「確かにゴールデン・ワルツはシニアに上がりたての君たちには難しい課題だ。でもメリル、リチャード、難しすぎる、ということはないんだ。君たちにとってね。だからそんなに構える必要はない。ウィンナーワルツらしく、軽やかに、優雅に、美しくステップを踏む。君たちはそれができる実力をもうちゃんと持っているのだから。さあ、もう一回」

 そして、メリルとリチャードはスタート地点へと滑り、二人で向かい合う。いつもはどこかからかうようにメリルを見るリチャードの緑の瞳はとても穏やかで、薄い唇は優しく微笑んでいる。背筋はぴんと伸びていて、まさしくワルツにふさわしい紳士の姿がそこにあった。なんだか気おされそうになり、メリルはあわてて背筋を伸ばす。こんなところから躓いて、リチャードに馬鹿にされるようなことだけは避けたかった。もっとも、リチャードはどれほど大事な場面でミスをしても決してメリルに直接的な罵倒を投げたりはしなかったのだけれど。

 一、二、三、セルゲイがカウントをする声が、リンクの天井まで響き渡る。ゴールデン・ワルツのメロディがまた、流れ出した。二人は礼をして、メリルの指先が軽やかに翻る。それをそっとリチャードが取り、二人は滑り出した。



 アイスダンスという競技は、三つの種目で構成されている。コンパルソリー・ダンスと、オリジナル・ダンス、そしてフリー・ダンス。選手たちは三日かけてこれらを順に滑り、三つのダンスの合計得点で順位が決まる。フリーはその名前のとおり自由に曲を選び、プログラムを構成するダンスだ。三つの中でもっとも競技時間が長く、得点も高い。

 オリジナルは「ラテン」や「チャールストン」など、最初にダンスのテーマが定められている。その枠の中で選手は曲を選び、プログラムを作る。今期の課題は「タンゴ」だ。

メリルとリチャードはオリジナルではアルゼンチンの作曲家であるアストル・ピアソラのタンゴのメドレーを、フリーではベルディのオペラの「椿姫」を選んだ。ドラマティックでクラシックな演技は二人が得意とするものだ。

 曲が自分たちで選べるオリジナルとフリーに対して、コンパルソリー・ダンスには自由がほとんどない。あらかじめ表にまとめられたステップを、規定のリズムに合わせて滑るものだ。つまり、すべてのカップルが同じステップを指定された曲に合わせて滑り、そのできばえに応じた点数がつけられる。

シングルやペアと違い、ジャンプという失敗か成功か分かりやすい要素がないアイスダンスだが、コンパルソリーは誰の目にもそのカップルの持つ技術が露わになってしまう。全員がまったく同じステップを踏むので、アイスダンスでもっとも重視されるスケーティング技術とステップ、そしてユニゾンの質がもっとも明確に現れるのだ。

三つの種目の中ではもっとも得点の比率が低いものの、コンパルソリーが稚拙では、どれほどフリーやオリジナルでレベルの高い技を繰り出しても、そのカップルの評価はなかなか上がらない。

コンパルソリーには二十以上の課題、「ウィロー・ワルツ」、「アルゼンチン・タンゴ」、「ヤンキー・ポルカ」などと名づけられたステップの課題があり、ジュニアとシニアでは、与えられる課題の難度が異なる。二人が今挑んでいるゴールデン・ワルツはシニアの課題の一つだ。これがうまくこなせれば、彼らはジュニアの段階を名実ともに脱したのだと認められる。

「何を焦ってるんだ? メリル」

 リンクのすぐ隣にあるカフェで二人並んで昼食をとりながら、リチャードはメリルに言った。メリルはベーグルサンドを一口齧り、リチャードの顔をじっと見つめた。質問の形をとっているとは言え、彼はメリルの答えを知りたがっているのではないのだと、彼女は悟る。リチャードにはわかっているのだ。メリルが何を焦っているのか。たぶん、メリル以上に。

 メリルはよく咀嚼したベーグルを飲み込む。サーモンとチーズが、くたびれきった体に落ちていくのを感じる。リチャードは何も言わない彼女に肩をすくめた。黒い細い髪を撫で、困ったような微笑を、一歳年下のパートナーに向けている。その表情にいらだって、メリルは吐き捨てるように言った。

「あなたは焦ってないの?」

「何を?」

 リチャードは微笑んだまま首を傾げた。ひらりと肩の下で大きな両手を広げる。

「焦る必要なんてどこにある? 僕たちはまだ十代で、次のオリンピックにはまだ四シーズンある。四シーズンだぜ? そりゃ毎年生まれるジュニア・チャンピオンの肩書きしか持ってない僕たちがグリシュク・プラトフやクリモワ・ポノマレンコみたいになるには十分な時間とはいえないかもしれないさ。でも、今からそんなにかりかりして、フリーレッグがシンクロしなくなるほどスピードを出すのに躍起になる必要がどこにあるんだい? なあメリル」

 リチャードが言葉が完全な正論だったので、メリルは本当に惨めになる。うつむいてアイスティーのストローを噛む彼女の手のひらに、そっとリチャードは自分の手を重ねた。

「僕を信じろ、メリル」

 それはメリルを安心させるための言葉ではなかった。それは、単なる事実だった。確かにメリルはリチャードを信じるだけでよかった。それだけで、十六歳と十七歳と言う若さで彼らはジュニア・チャンピオンになれた。

「あなたのことは信じてる。リチャード」

 メリルはストローから口を離し、ゆっくりと、そう告げた。

「そうだといいんだけどね」

 リチャードはまた、肩をすくめた。メリルは彼のその仕草を、大嫌いだ、と思った。一つしか変わらないのに、もののわからない子供みたいに扱われるのは屈辱的だ。メリルはリチャードから眉間に皺の寄った顔を背け、アイスティーを啜る。

 年齢は一つしか違わないのだ。スケート年齢は、八歳違うとはいえ。メリルはそう自分に言い聞かせ、一層惨めな気持ちになった。

スケートを始めたのは、リチャードは三歳、メリルは十歳からだ。キャリアの差は八年ある。そして、メリルはスケートを始めてすぐにリチャードのパートナーになった。この六年ずっと、メリルはリチャードに八年の遅れをとっていることになる。

 スリーターンもバニーホップもバッククロスという基礎の基礎の技術も、そもそもスケート靴での歩き方でさえ、メリルはリチャードに教わったのだ。初めて出会ったあの日から、リチャードはメリルの手袋に包まれた手を握って、おそるおそる足を進める彼女にひとつひとつ、丁寧にスケートの基本を教えていった。

 それからの六年間、メリルはただ、その手、自分よりふた周りは大きなその手につかまって、リチャードの言うとおりに動いてさえいればよかった。メリルにとってリチャードはパートナーである以前に、もう一人のコーチでもあり、そして兄でもあった。それで何の問題も感じてはいなかった。これまでは。

 ベーグルサンドを食べ終えたメリルは、二つ目のクラブサンドを食べているリチャードを盗み見た。広い滑らかな額に、高すぎない形のいい鼻。薄い唇に、すっきりと清潔な顎。長い首。文句のつけようもないグッド・ルッキングだ。つい最近まで「男の子」にしか見えなかったのに、もうすっかり青年になってしまっている。口元についたマスタードをなめとる動作だって、子供っぽくも下品にも見えない。女性のファンも多いし、女友達もいっぱいいるようだ。リンクを降りればあまり二人で話すこともないので、詳しいことは知らないけれど。

リチャードはプログラムに関係する本や映画しか興味の無いメリルとは違い、たくさん本を読んでいて、たくさん映画も見ていて、ハイスクールの成績も優秀だ。いろんな国の歴史に詳しくて、ほかの国の選手ともすぐに仲良くなってしまう。ついこの間コンパルソリーを教わりにきたカナダ人のカップルとも、もうすっかり打ち解けているようだ。メリルは二人の名前も正確には覚えていないのに。

リチャードの持っている世界は、メリルの小さな頭に入っている世界をすっぽり包んでしまうぐらい、大きい。メリルは最近、なんだかそれがたまらなく腹立たしいのだ。ジュニアにいたころはそんなこと少しも思わなかったのに。

 これは恋なんじゃないか、とメリルも十六歳の少女らしく、疑わないでもない。恋による独占欲なんじゃないか、と。でも、メリル自身にあっさりその考えは否定される。メリルはリチャードと、デートをしたり、車の助手席に乗せられたり、リンクの外で腰に手をまわされたりはしたくなかった。本当に、少しも。メリルが望んでいるのはそんなことではなかった。

「僕を信じて」

 十歳のときから、リチャードがメリルに言うのはそれだけだ。危険なリフトに挑むときも、ジュニア・グランプリファイナルのオリジナル・ダンスでメリルが転倒して順位を三つも落としてしまったときも、リチャードが彼女に告げるのはそれだけだった。メリルはいつでも、その言葉に従ってきた。そして、それが裏切られたことは一度もなかった。リチャードはリフトが失敗したときにも必ずメリルが氷に叩きつけられるのを防いでくれたし、順位を落としたとしても、リチャードに従えば挽回できた。メリルはリチャードを信じてきた。リチャードの技術。リチャードの精神力。リチャードの表現力。リチャードの、天賦の才。

 今でも、メリルはリチャードを信じさえすればいいのはわかっている。メリルはメリルらしく、彼女のスピードで、姿勢正しく丁寧に滑れば、あとはリチャードがどうにかしてくれるのもわかっていた。ジュニアを征したように、リチャードがシニアでもきちんと彼女を導いて、いつかは表彰台の一番高い場所に連れて行ってくれる、と。彼の、天性の、氷に吸い付いているかのような素晴らしく深い滑りで。何も変わっていないのだ。メリルはいまだに小さな子供のように、リチャードの手を握っていればいい。

 そのことが、本当にどうしようもなく腹が立つ理由を、メリルは自分で見つけられないでいる。



 一日の練習が終わり、メリルとリチャードは、DVDを見ている。リンクに併設されたAVルームで。コーチの勧めで見ているのはオリンピックチャンピオンに二回輝いたカップル、グリシュク・プラトフ組の一九九七年世界選手権のコンパルソリー・ダンスだ。彼らが踊るのはもちろん、ゴールデン・ワルツ。

「速い……」

 メリルは思わず嘆息した。カールしたプラチナブロンドのグリシュクと、茶色の髪のプラトフ。二人は胸が触れ合うほど近い距離でホールド・ポジションを取り、完璧に揃った足裁きで軽やかに、けれども深くステップを踏んでいく。

ゴールデン・ワルツはシニアの上位選手でも梃子摺るカップルが多い。「滑りこなす」ところまでたどり着けたカップルなど、それこそ数えるほどしかいないだろう。それほどに難しい課題だ。

それなのに、この二人は本当にやすやすとこなしてしまう。リンクのフェンスに印刷された広告が、恐ろしい速さで流れていく。グリシュクの長い腕は伸びやかに翻り、白いスカートとともに華やかな雰囲気を作り出している。まったく淀みのないその動き。彼女がどれほど自由に伸びやかに動いても、プラトフは必ず彼女を正しい位置で待ち構えている。グリシュクもまた、複雑なステップを恐ろしいほどのディープエッジで踏んでいるのに一切上体がぶれず、プラトフの腕の中にぴったりと納まっている。一体どれほど練習すればこんなユニゾンが可能になるのか。メリルには想像もつかなかった。

 音楽が終わり、優雅なフィニッシュポーズを彼らが取ると、メリルとリチャードは同時にため息をついた。

リチャードはさすがだな、と呟き、DVDを止める。ソファに座るメリルを置いてテレビに歩み寄り、ビデオカメラとテレビを繋ぐ。

「それでこれが、僕たちの」

 メリルの横に戻ると、映像をスタートさせた。黒いトレーニングウェアに身を包んだ二人が向き合っている。映像で見ると、自分があまりにも小さく、頼りなげな様子なことに、メリルはいつも驚いてしまう。百六十センチというのはこんなに小さかっただろうか。それとも、メリルより二十センチも大きなリチャードと一緒に映っているせいだろうか。叫ぶような太いセルゲイのカウントの声。音楽が流れ出し、それに合わせて二人は礼をする。

 メリルの手をリチャードが取り、二人は滑り出す。画面の中のメリルは、ひどく不安げな瞳をしている。リチャードの姿を目で追い、上体が伸びきらず曲がってしまっている。無理にスピードを出そうとして、体だけが前に出てしまっているのだ。

 どんなステップをしてもまったくスピードが落ちなかったグリシュク・プラトフと違い、彼らは難しいターンの時には明らかにスピードが落ちる。特に、メリルが。リチャードは背筋を伸ばした姿勢を保ち、メリルをどうにかリードしようとするけれど、メリルの足はきちんと氷を捉えられない。焦ってスピードを出そうとするからだ。それがリチャードの想像するスピードとずれ、彼らの距離は離れてしまう。ホールドの位置が安定しなく、難しいターンやホールドチェンジの度に演技の流れが途切れてしまう。そんな調子で、彼らのゴールデン・ワルツは終わった。

 リチャードは無造作にテレビを消した。

「ゆっくり踏めば、できるはずなんだよ。メリル」

 そう言って、メリルの肩に手を置く。

「グリシュク・プラトフの長所のひとつはスピードだよ。でも、それはまず綺麗にステップが踏めてなくちゃ意味がない。彼らはユニゾンとステップの正確さがあって、その上スピードがある。だからすごい。そうだろ?」

「うん」

 メリルは自分の膝に肘をつけ、長い細い指でふっくらとした両頬を包んだ。

「それは、わかっているの」

「焦ることはないよ。メリル」

 優しくリチャードはメリルの肩をたたいた。

「「僕を信じろ」」

 リチャードの声と、メリルの声が重なる。リチャードは眉を跳ね上げた。

「信じてる。あなたを信じてる。あなたの手をとって、ちゃんと私のスピードで滑ればいいのはわかってる。そうすれば何もかも大丈夫なんだって」

「メリル」

 リチャードの声を、メリルはさえぎる。そんな子供に言い聞かせるような声は聞きたくなかった。

「でも、私はそんな「大丈夫」じゃ、嫌なの」

 泣き出す寸前のような、喉が詰まる感じ。リチャードはメリルの肩をそっと、本当に柔らかく、引き寄せた。メリルの体はそれに従う。六年間ずっとそうしてきたように、リチャードの力にメリルの体は柔らかく沿う。リチャードの指先の、ほんのわずかな動きに含まれる、彼の意図。メリルはそれをすべて察することができる。頭で考えるのではなく、感じるのだ。

メリルはリチャードの肩にもたれる。厚い、暖かい、硬い、リチャードの肩。メリルがよく知った肩。リンクに滑り出す前に、演技が終わってキス・アンド・クライでコーチと点数を待つ間に、メリルの父がハリケーンの被害にあったと知ったときに、メリルが不安なときにはいつでも彼女の頭の場所は、ここだった。習慣のせいで、メリルは今もすっかり安心してしまいそうになる。

 リチャードの肩にもたれていると、メリルはまるで自分が十歳の子供のように感じてしまう。氷の上に、細い刃で体重を支えている、という事態にあって、ようやく十年間付き合ってきた自分の体の形と向き合い、それをどう使っていいのかわからず、ただへたり込んで何もかもに怯えている子供であるかのように。

「僕を信じて」メリルにかけられる、静かな、でも確信に満ちた声。まっすぐメリルに差し出される手。彼女はその手をつかむ。目の前の柔らかな髪をした少年は、自分と身長はほとんど変わらない。でも、その手はメリルの手をすっぽり包むほど、大きい。

立つことも、歩くことも、最初はうまく出来ない。けれどメリルは、もう怯えてはいない。自分を導く少年のことさえ意識の外にある。ただ、自分の足元、自分と氷のことだけを考える。リチャードはでも、メリルの手をしっかりと握っている。彼女が転ばないように。彼女が思ったとおりに動けるように。メリルは自分の身体を発見する。氷の上で、どう筋肉を使えば効率よく動けるのか、少しずつ、けれど確かに、見つけていく。リチャードの手に導かれて。

「メリル」

 十七歳の、すっかり青年になってしまったリチャードは彼女の名前を呼ぶ。

「メリル」

 リチャードは彼女の髪の毛を撫でる。メリルはうつむいている。リチャードの手や肩は、あまりにも快適だ。それなのに、一体どうしてこんな気持ちになるんだろう。



 メリルは自分のパソコンの中の、「2006 junior world FD」という動画のファイルを開く。2006年の世界ジュニア選手権を彼らが征したフリーダンス、チャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」。ほとんどの要素で最高評価のレベル4を取り、バレエや映画、原作にもあたって徹底的に研究したせいか芸術的にも高く評価され、二位とは十点以上の大差をつけて優勝した。

メリルはウェーブをかけた髪をハーフアップにして、真珠の髪飾りをつけている。衣装は薄いピンク。襟が四角く広く開いて、彼女の白い胸元を美しく見せている。ずいぶん太ったな、とメリルはほんの四ヶ月前の自分とさきほど見た映像の自分を比べて思う。画面の中の自分はふくらはぎや二の腕が、本当に華奢だ。急激に、自分が成長しているのだとメリルはどうしても思い知らされる。良い悪いにかかわらず、女性の体、シニアの体になろうとしている。

 画面の中で青と黒のシンプルな衣装を着ているリチャードも、今よりずいぶん線が細い。シニアで戦うためにやっているウェイト・トレーニングの成果だろう。体の厚みがぜんぜん違う。

 メリルがリチャードの膝の上に横たわっているポーズから、演技が始まる。音楽が流れ出すと、眉を寄せたリチャードはメリルの頬にそっと触れ、メリルはゆったりと立ち上がる。お互い背を向けて立ち、離れて滑っていく。

ジュリエットの死、回想シーン、そして二人の死、という構成で、「ロミオとジュリエット」のストーリーを表現したプログラムだ。

最初の要素は距離を保って滑るミッドライン・ステップ。腕も足も、全ての動きがぴったりと揃っている。そして二人は寄り添い、開いた両手をぴたりと合わせてリチャードはバック、メリルはフォアのスパイラルで滑り、二人の出会いを表現する。メリルが提案した振り付けだ。その流れを使ってメリルがビールマン・ポジションを取るストレートライン・リフトに滑らかに入る。リチャードは片足で滑走して、メリルを高々と掲げる。筋力と、片足でスケーティングを維持するバランス感覚が必要とされるリフトは最初の大きな見せ場だ。二人は離れ、手を取ってスピンに入る。メリルはビールマンとI字の難しいポジションを無理なく取り、リチャードは深く腰を落とした難しい姿勢でレベルを稼ぐ。回転軸は細く、回転速度は速い。

曲調が激しくなると二人は離れ、シンクロナイズド・ツイズル。回転数と移動距離をぴったりと揃え、速度も速いこのツイズルは二人の得意技の一つだ。

「スピード……」

 小さくメリルは呟く。画面の中の二人は、速かった。もちろんグリシュク・プラトフなどには及ぶはずもないが、今日滑ったゴールデン・ワルツとは大違いの、小気味のいいスピードで二人はステップを踏み、スパイラルやツイズルを行い、そのスピードのままリフトに入る。ただ速いだけではない。フリーレッグは常に同じ角度を保ち、別々に動いていてさえ二人は同じ雰囲気を持っていた。ただ動きをそろえるだけのユニゾンではない、二人が「ワン・ピース」になる、ということ。たとえば手と手を触れ合わせるだけで、目と目を合わせるだけで、相手の次の動きがわかる、ということ。ごく自然に、相手がやりやすいポジションが取れ、一番体重を感じさせない重心のとり方ができる、ということ。

二人が、一つになる、ということ。

アイスダンスにおいてもっとも重要なことを、この頃のメリルとリチャードは持っていた。

「どうして……」

 メリルはほんの四ヶ月前の自分とリチャードの姿を放心して見つめる。確かに、今の自分たちのほうがエッジは深い。それに難しいステップを踏んでいる。けれど、もうここにあるようなスピードとユニゾンは、失われている。

 演技も終盤になり、仮死状態にあるジュリエットを演じるため、力なく腕を垂らしたメリルをリチャードが片手で持ち上げて回る、ローテーショナル・リフト。静かに下ろした彼女を抱きしめ、自分の膝に横たえ頭を抱える。音楽がとまる。

 その瞬間から、彼らの優勝を確信した観客の、万雷の拍手。スタンディング・オベーション。メリルはリチャードに手を引かれて立ち上がり、満面の笑顔で抱き合う。メリルもリチャードも幸福の只中にいて、それ以外のものを一切寄せ付けない。

 そこまで見ると、メリルはウィンドウを閉じた。瞼を下ろし、背もたれに思い切り体重を預ける。ほんの少し前まで、あの動画にあるように、メリルはリチャードを完璧に信じ、全てを任せていたのだ。その事実を、うまく認めることができない。あの完璧な信頼がどこから来ていたのだろう。どうして昨シーズンの自分は何も考えず、ただリチャードの手を取ることができたのだろう。あの頃、メリルはただ自分のやるべきことしか考えていなかった。目の前には常に大きな、しかしやりがいのある目標があった。ジュニア制覇、という目標が。そしてリチャードと一緒にいれば、それが叶うとメリルにはわかっていた。だからメリルは自分のやるべきことだけをした。そして、メリルとリチャードは、きちんとそれを達成した。

 メリルにはもうそれがわからない。ほんの四ヶ月前の自分の気持ちを、もう理解できない。あんな、屈託なくリチャードに微笑むことは、もうできそうにない。メリルは掌で瞼を覆った。どうすればいいのだろう。四ヶ月前の自分に戻ればいいのだろうか? でも、それは違う気がする。それは、嫌だ。どうしてなのかはわからないけれど、とにかく嫌だ。でも、わからない。何にもわからない。

 おもむろに立ち上がり、本棚から一冊の雑誌を抜き出す。フィギュアスケートの専門誌だ。今年のジュニアの世界選手権が特集されていて、メリルとリチャードにもかなりの紙幅が割いてある。出版社から届いたので保管しているが、写真などにざっと目を通しただけで、まだ真剣に読んではいない。目次に目を通し、そのページを開く。


『脅威の新星・メリル・ラドクリフ&リチャード・アクトン』

「アイスダンスはロシアの3カップルが2-4位までを占め、アイスダンス王国復活の気配を感じさせたが、優勝のラドクリフ・アクトン組がジュニア・グランプリ・ファイナルに引き続いて圧倒的な強さを見せ付けた。

 ファイナルではオリジナル・ダンスでの転倒からの逆転劇が印象的だったが、今大会ではコンパルソリーから一度も首位を譲らない、余裕のある演技を見せた。

 この若いアメリカン・カップルは、一見いかにもジュニアらしい初々しい雰囲気を持っているが、スケーティングはすでにシニアと比べても遜色のない成熟したものである。音楽表現にも特に優れている。オリジナル・ダンスのラテン・メドレーではほとんどのカップルがただ音楽に合わせて「動く」のに精一杯だったのに対して、彼らは完成された「ダンス」を見せてくれた。ストレートラインリフトでラドクリフが髪をかきあげる振り付けや、向かい合って二人が腰を振るミッドラインステップの入り、そしてラドクリフの顎をアクトンがつかんで腰を撫でるフィニッシュなど、印象的なセクシーな場面が多いプログラムは、彼らのコーチであるセルゲイ・ベールイの振り付けだ。彼の現役時代を思い出させる、エモーショナルでストーリー性のあるオリジナル・ダンス。二分三十秒では物足らないような演技だった。十六歳と十五歳のカップルがこんな「ラテン」を見せてくれるとは、全くの予想外である。

 フリーダンスの「ロミオとジュリエット」は一転してクラシカルでロマンティックなプログラム。ラドクリフの清楚な美しさとアクトンのドラマティックな表現を存分に活かし、これがジュニアの演技だとは信じられないほどの完成度である。全ての要素がレベル4でありながら、難しいことなど何もしていないかのように、全てが自然で、流れがある。

 プロトコルに刻まれる「レベル4」の多さから、「新採点の申し子」と呼ばれることも多いこの二人だが、むしろ基礎技術の高さこそが彼らの持ち味である。それはコンパルソリー・ダンスにおけるアクトンのリードを見れば、一目でわかる。

彼らのコーチ、ベールイも、アクトンについては手放しで「天才」と評している。3歳からスケートを習い、アイスダンスに転向するまではシングル選手としても将来を期待されていたアクトンのスケーティングと身体能力の高さは絶品だ。エッジの深さと、氷に対するタッチの柔らかさはまさに「バターを温めたナイフで切る」かのよう。どんなステップを踏んでも決して崩れない背中のラインの美しさは、歴代の世界チャンピオンたちを思わせる。ラドクリフとの20センチという決して小さくない身長差を演技中はまるで感じさせないのも、天性の膝の柔らかさと姿勢のよさのおかげだろう。踊りも抜群にうまく、ロックからワルツまで完全に自分のものにしてしまう。公式練習でも、動きが鮮やかで一際華やかなので、自然と目がひきつけられた。

 パートナーのラドクリフは、スケートを始めてまだたったの5年とは思えないほど、クリーンで正統派の滑りの持ち主だ。昨シーズンはまだ難しい部分は全てアクトンに任せきりの印象が強かったが、今シーズンはその美しさを存分に発揮している。

華やかで派手な、あくが強いとさえ言えるアクトンに対して、彼女の表現は常に抑制されている。しかし、苦もなくラテンやロックというアップテンポのナンバーも踊りこなすあたり、リズムの捕らえ方にはセンスの良さを感じさせる。それは母親がピアニストだという彼女の音楽家の血のせいかもしれない。

 大会後のインタビューで、アクトンは今シーズンについてこう述べた。「結果的に、ジュニアで出場した大会では全て優勝することが出来ました。幸せです。グランプリファイナルでは「勝つ」ことが目標でしたが、この大会ではプログラムをお客さんに魅せることを目標にしました。ある程度は達成できたと思いますし、スタンディング・オベーションをもらったことはとてもうれしかったです。来シーズンはシニアに上がることになりますが、この結果は自信になりました」

 自信にあふれたパートナーに対して、万事控えめで内向的な性格のラドクリフは、「昨シーズンまではプログラムをこなすことだけで必死でしたけど、今シーズンはよい演技をしよう、という気持ちになることができました。今日演じた「ロミオとジュリエット」の出来には、とても満足しています。お客様にも喜んでいただけたようで、幸せです」と小声で答え、微笑んだ。

 絵に描いた様に美しいこの若い二人は、現在世界で最強の十代のカップルであることは間違いない。グリシュク・プラトフに憧れているというこの輝かしいカップルが、シニアでどんな演技を見せてくれるのか、世界中のスケートファンが楽しみにしている」


 ばかばかしい。

 メリルは雑誌を音を立てて閉じ、本棚に乱暴に突っ込む。ばかばかしい。

パソコンに向き合い、マウスをがむしゃらに動かして動画ファイルを漁る。リチャードにもらった色々なアイスダンスの動画ファイル。トーヴィル・ディーン、クリモワ・ポノマレンコ、ウソワ・ズーリン、クリロワ・オブシャニコフ、アニシナ・ペーゼラ、ロバチェワ・アベルブフ……。色々なカップルの、様々な名演技。莫大なファイルの中でも一番多いのは、グリシュク・プラトフの演技の動画だ。リチャードが一番好きな、スケートを始めたきっかけだというカップル。速いスピード、深いエッジ、完璧に揃ったフリーレッグ、常に美しいポジションを取るバレエの基礎の確かさ、彼らの長所を上げればきりが無い。技術が表に出てその表現力はあまり評価されていないのだけれど、何一つ表現などしなくともその自在に動くブレードを見るだけで胸が沸き立つような、極限まで磨かれた技術がそのまま芸術になるような、本当に奇跡のようなカップルだ。

メリルはそのグリシュク・プラトフの、1996年から1997年のシーズンのオリジナル・ダンス「リベル・タンゴ」を開いた。赤いドレスのグリシュクと、プラトフが背中合わせに立っている。そして、流れ出すチェロの調べ。グリシュクがドレスの裾を自分で捲り上げて形のいい太腿を露にする振り付けで始まるこのタンゴは、傑作ぞろいの彼らのオリジナル・ダンスの中でももっとも評価が高い。メリルがこのファイルを開いたのは、もう百回は下らないだろう。何度見たって、圧倒されるような演技というものは、あるのだ。

 恐ろしいスピードで、激情を秘めて踊るグリシュクとプラトフ。二人の距離の近さが、めまぐるしく動く足が、ぞっとするほど深く氷を捉えるエッジが、快楽さえ覚えるほど制御されたターンが、きつく反るグリシュクの背中が、激しい男女のぶつかり合いを表現する。メリルはこのタンゴが、そしてグリシュク・プラトフが好きなのは、彼らが対等だからだ、と思う。どちらがどちらかをフォローするのではなく、二人で競い合うようなダンスを、彼らは踊る。

聞いた話によると、彼らは現役中から犬猿の仲で、長野でオリンピック二連覇を達成した後は、挨拶もなく決別したのだという。メリルは、その逸話を聞くと肺が縮まるような気がする。彼らの、触れたら切れるほど鋭いダンスのためには、そんな関係でなくてはならなかったのだ、と思うと、恐ろしいような、羨ましいような気になる。そして、悲しくなる。

自分たちは決してそんなふうにはなれない。犬猿の仲でいられたのは、彼らが二人ともきらめくような天才だからだ。メリルは、リチャードとそんなふうにはなれない。仲がよくなければ、一緒にはいられない。メリルは、天才ではないから。リチャードのパートナーでなければ、誰の目にも留まらないような、ごく平凡な、なんのとりえもないようなダンサーだからだ。でも、そんなダンサーとして、メリルは一体どうやって滑っていけばいいのだろう。メリルはグリシュクには、なれない。あんなターンはできない。あんなスピードは出せない。あんなふうには決して、なれない。それは、努力で追いつける場所ではないのだ。

「リチャード……」

 呟いて、こんなときにさえ頼りたい相手がリチャードしかいない自分に、メリルは唇を噛んだ。



 二人のゴールデン・ワルツの練習はそれから一週間ほど続いた。ステップは随分こなれてきたものの、いまだにメリルはふとしたときについスピードを出しすぎてしまい、全体の流れを崩した。セルゲイもリチャードも、その都度メリルに軽い注意をするのだが、すでに言っても仕方がないことだと諦めているような雰囲気があった。メリルはその曖昧に自分が許されているような空気にさえ苛立ってしまう。

「じゃあ、今日のコンパルソリーはここで終わろう。たっぷりランチを取って、一時にまたリンクに戻っておいで」

 メリルとリチャードの上気した頬に唇を押し当てて、セルゲイが言う。九月のシーズンインにはまだ間があるので、リチャードどころかメリルも、たっぷりと食事を取ることをセルゲイに勧められている。ある程度オフシーズンに体重を増やしておかないと、いざシーズンインしたときに筋肉がなくなってしまうためだ。メリルは体型変化の影響でどんどん増えていく自分の体重に恐れを抱いていたが、セルゲイもリチャードも、むしろそれを喜んだ。女性のアイスダンサーはセクシーでなければならない、と言って。

 メリルは更衣室に行くとシューズを脱ぎ、黒いタンクトップの上からブルーの半袖のパーカーを羽織った。結んだ髪を解いて丁寧に結びなおしていると、後ろから声がかかった。

「はい、メリル」

 振り向くと、マリーが立っていた。セルゲイにコンパルソリーを習うために短期でこのリンクにやってきたダンサーなのだが、メリルは彼女のファミリー・ネームを知らない。彼女たちはコンパルソリー以外はセルゲイのアシスタントが見ていてメリルたちと共に練習することが少ないせいもあるが、メリルは基本的に、同年代のダンサーに深い興味を持たない。競争をする気もないし、仲良くなりたいとも思わない。自分と親しくなりたいと思う相手を拒むこともないが、自分から距離を詰めようとはしない。

マリーは練習を終えたばかりなのだろう。白いそばかすだらけの頬がすっかり上気している。白のホルターネックのキャミソールに、スパッツの上から履いたピンクのミニスカート、そしてグレイのレッグウォーマーが可愛らしい。練習着には気を遣わないメリルは、少し気後れしてしまうほどだ。

「こんにちは」

 メリルは小さく微笑んで挨拶を返した。マリーはにこっ、と屈託なく笑う。メリルより一つ年上の十七歳なのだが、顔立ちや華奢で小柄な体型はまだ幼げだ。選手としての実績もまだあまりなく、今シーズンもジュニアに残るつもりらしい。

「これからランチ?」

 普段はフランス語を使っているのだろう。どこかたどたどしさの残る英語で尋ねる。幼い外見とあいまって、とても可憐だ。

「ええ」

 答えてメリルは立ち上がる。マリーはキャミソールの上から黄色い半袖のジャージを羽織る。

「リチャードと一緒?」

「たぶんね」

 約束しているわけでもないが、いつも自然と彼らは同じテーブルで食事をすることになっていた。

「じゃあ、一緒に行ってもいい?」

「え、ええ」

 メリルは戸惑いながら頷く。マリーは短いブルネットの髪を整えながら、ありがとう、と笑う。そして厚い練習用のスパッツに包まれた脛にそっと触れ、小さく眉を顰めた。

「どうかしたの?」

 マリーは苦笑して肩を竦める。

「エリックがいっぱい蹴るもんだから、腫れちゃって」

「え?」

 メリルは自分の耳を疑った。マリーは立ち上がると、にっこり笑ってメリルをうながず。

「ほら、早く行きましょう」

「え、ええ」

 マリーは目の前の小さな黄色い背中を、得体が知れないもののように見つめる。パートナーに蹴られる。確かにあまりうまくないパートナーと滑ると、足がもつれてよく蹴りあうことになる、とは聞いたことがある。メリルとリチャードには縁のない話だったが。けれど、そんなことを当たり前のように笑って話すということに、メリルはなんだか嫌なものを見てしまった気になった。



 メリルがいつもの通りベーグルサンド、リチャードがハンバーガー・セットを注文すると、マリーはラズベリー・シェイクを頼んだ。

「シェイクだけ?」

 メリルが尋ねると、マリーは昼は食べないようにしている、と答えた。

「最近体重が増えちゃって、エリックによく怒られるの。重いって」

 メリルは彼女の華奢な体をついじろじろと見つめてしまう。ほっそりと凹凸の少ない身体は、ジュニアの中にあっても華奢さが目立つだろう。これで重いんだったら私なんてどうなるんだろう。

「僕はマリーだったら二人ぐらい持ち上げられそうだけど。エリックは繊細なんだな」

 リチャードは可笑しそうに言う。マリーはそれを聞いてくすくす笑う。

「私もリチャードみたいな人とカップルだったらベーグルサンドが食べられたわね」

 メリルはなんだか恥ずかしくなってしまう。

 運ばれてきたランチを黙々とメリルは食べる。ベーグルサンドはいかにもずっしりと重たく、おいしい。罪深いほどのおいしさだ。背徳感とベーグルサンドを味わうメリルをよそに、マリーとリチャードは楽しげに、今期のプログラムについて話をしていた。

 マリーたちはオリジナルではヤコブ・ゲーゼの「ジェラシー」、フリーはミュージカルの「キャバレー」を使うのだという。メリルは彼らの演技を大会で見たことがない、もしくは見ていても覚えていないのだが、リチャードの「君たちにぴったりだね」という言葉を信じるなら、メリハリのある、ダンサブルな演技ができるカップルなのだろう。技術的にはつたないかもしれないが。

 話題は選曲から、それぞれの要素へと映っていく。

「じゃあ、オリジナルもフリーもスピンにビールマンを入れるの?」

「うん。メリルは難しいポジションでもスピードが落ちないからね」

「いいなあ体が柔らかい人は。ねえ?」

 急に話を振られて、メリルは軽く咳き込んだ。

「な、なに?」

「メリルは体が柔らかいって言ったの。羨ましい」

 メリルは曖昧に笑みを返した。

「セルゲイにヨガとバレエをたっぷりやらされたから」

「そういえばメリルも最初は固かったな。イーグルがなかなかできなかったし」

 アイスコーヒーの氷をからからと鳴らしながらリチャードが笑う。

「そんな頃から組んでるの?」

 リチャードは頷く。

「メリルはスケートを始めるのが遅かったからね」

「じゃあ、もともとの友達か何か?」

「いいや。まったくの素人を引きずりこんだんだよ。僕が」

「本当? 思い切ったことしたのね」

 リチャードは悪戯っぽく笑う。

「とにかくその頃の僕には、一つの夢があったんだよ」

「夢?」

 マリーは小首をかしげる。メリルは内心溜め息をついた。またこの話だ。

「そう。ブロンドの可愛い女の子とアイスダンスをするって夢。メリルは僕の理想にぴったりだったんだ」

「へえ」

 マリーの視線が、無遠慮に自分の鮮やかなブロンドや、白く透き通る肌、清潔そうな鼻や滑らかな輪郭を撫でるのを感じ、メリルはつい俯いた。自分がある程度の美しさを持っている、ということに、メリルが気付いたのはごく最近だ。

「確かに、ねえ」

「だろ?」

 メリルは詰め込むようにベーグルサンドを大きく齧る。

「そういえば、マリーはエリックとは?」

「二年前に、コーチの紹介で。私が前組んでた子が家の事情でやめちゃって、パートナーを探してたの。エリックはもともとシングルだったんだけど背が伸びてジャンプが飛べなくなってたから、トライアウトしたの」

 トライアウトとは、パートナーを決める際に試験的に二人で滑ってみることだ。スケーティングの質や体格差、性格などあらゆる面で相性がいいパートナーを見つけるのは大変難しいため、トライアウトを行ったからといってパートナーに決定するとは限らない。事実、マリーもエリックに決まるまで六回のトライアウトを行ったのだという。

「やっぱりパートナーになる相手には閃くものがあるの? 「彼だ!」って」

 マリーは肩を竦めた。

「さあ? 自分でもよくわからないわ。ただ私は一緒に滑ってくれる相手がいればそれでよかったんだもの。コーチも賛成してたし、エリックはわりとハンサムだったし、何より他に条件が合う人がいなかったし」

 メリルはエリックの姿を思い出す。黒い髪に、黒い瞳と、滑らかな浅黒い肌に華奢な長い腕を持つどこか陰気そうな雰囲気で、ダンサーとしてはやや小柄な、でもひどく姿勢のいい、「わりとハンサム」な青年だ。マリーと彼はジュニアらしい線の細さを残してはいるものの、どこか大人びた、色っぽいとさえ言える雰囲気があるのは、メリルにもわかる。やや不健全にさえ見えるほどだ。だから成績的にはそれほど優秀ではないのに、セルゲイは彼らのコーチを引き受けたのだろう。

 メリルは自分たち、ラドクリフ・アクトン組の姿を思い浮かべる。自分たちの持つ雰囲気。そんなものがあるのか、メリルにはわからない。自分たちがどんなふうなのか、よくわからない。自分たちだけの「何か」があるのか、どうか。

「あーあ、私もリチャードみたいな人と組みたいなあ」

 突然、マリーがひどく大きな声で、そう言った。メリルはびくりと肩を震わせ、天真爛漫そのものの、マリーの顔を見つめた。リチャードはまんざらでもなさそうに微笑んでいる。そういえばとメリルはマリーとエリックの練習風景を思い出す。マリーは、技術的にエリックよりもかなり高度なものを持っている。エリックはシングルからの転向で、マリーは最初からダンサーだったのだから、それも無理ないことかもしれない。けれど、だからってそんなことを言うなんて。メリルは屈託のないマリーの顔に、少し恨めしげな視線を投げた。


 翌日の午後、メリルはリチャードとオリジナル・ダンスの練習をしていた。特に、新しいローテーショナル・リフトを中心に。メリルがリチャードの右腕に両腕で掴まって、リチャードが回転してメリルを振り回すという、派手だが難しく、そして非常に危険なリフトだ。二人の手が離れてしまえば、メリルは遠心力で氷に強く叩きつけられてしまう。

オフ・アイスの練習では既にほとんど完璧に成功させていたが、スピードが出るオン・アイスでも可能かどうかはわからない。メリルはサポーターとヘルメットをつけて、セルゲイの厳しい監視下で慎重に試す。それまでやっていたリフトのバリエーションの一つ、というわけではなく完全に初めて行うタイプのため、タイミングが合わずになかなかうまくいかない。そもそも持ち上げることができなかったり、持ち上げてもメリルが綺麗にポジションが取れずに失速してしまったり、失敗を繰り返す。

「メリル、もう少しリチャードに体重をかけるタイミングを早くしなさい。怖いのはわかるけれど、それでは逆に危ない。全部リチャードに任せるんだ」

「はい」

「あと、リチャードは助走のスピードが速すぎる。それはメリルが怖がっても無理ない」

「緩めたら逆に危なくないですか?」

 リチャードは前髪をかきあげて尋ねる。

「スピードに頼るんじゃなくて君の力で彼女を持ち上げなさい。そんなスピードでは君はよくてもメリルがタイミングを合わせられない。リフトに入ってからはどれだけスピードをつけてもかまわないから」

「わかりました」

 セルゲイに言うと、リチャードはメリルを見て一つ頷いた。僕を信じて。目で、そう言っているのがメリルにはわかる。頷き合うと、二人はリフトのための助走を始める。充分なスピードに乗ったときに、リチャードはメリルに腕を差し出す。メリルはそれをしっかりと持ち、リチャードに体重を預ける。この時点ですでに彼女のブレードは氷に触れているだけだ。リチャードはそこから加速し、メリルの身体を持ち上げようと腕に力を込める。

 その瞬間、メリルとリチャードの冷えた耳を、甲高い悲鳴と、続いて氷の割れるような音が襲った。

 あっ。

リフトに入りかけていたメリルは驚いてつまずいてしまう。

「メリル!」

 咄嗟にリチャードはメリルの身体を引き寄せしっかりと抱きとめる。そのまま不安定な姿勢で氷を滑り、フェンスにぶつかった。衝撃が、リチャードを通して、メリルの身体に伝わる。肌が粟立つ。

「リチャード……」

 何が起きたか把握できずただ青褪めるメリルに、リチャードはわざとらしいほどにっこりと笑った。

「大丈夫? メリル?」

「う、うん……」

 リチャードは涙ぐんでいるメリルを抱き起こす。

フェンスに凭れるように寄り添って立つ二人の目に、このちょっとした事故の原因が、倒れ付したマリーの姿が、飛び込んできた。メリルと同じようにヘルメットとサポーターをつけた厳重体制なのに、冷たい氷の上に倒れたまま、本当にぴくりとも動かない。力なく投げ出されたひどく細い白い腕。そして、それを呆然と、他人事のように見つめるエリック。動物めいた彼の濃い、長い睫が作る影まで、メリルにははっきりと見えた。

 さあっ、と、メリルの全身から血の気が引いた。

「……何が……」

 小さく呟いたメリルに答えるように、マリーたちを見ていたセルゲイのアシスタントが叫んだ。

「事故だ! マリーが落ちて、エリックのブレードに踏まれた! 救急車! 誰か!」

 その声を聞いて、セルゲイが糸で引かれるようにリンクの縁まで滑り、上がった。それから、誰も動かなかった。メリルもリチャードもエリックも、ただマリーを見つめていた。氷の上の、青いほどに白い小さな少女を。


 翌朝、セルゲイから話を聞いたリチャードがメリルに何があったのか説明した。そのときマリーとエリックはリフトの練習をしていたらしい。イーグルのエリックの上でマリーが倒立する、かなり危険なリフトだ。そして、マリーはバランスを崩して落下した。慌てたエリックは、躓いて、倒れたマリーの背中を踏んだ。ブレードで。

 マリーは肋骨を折り、全治二ヶ月の怪我を負った。今期は絶望かもしれない、という話を聞いて、メリルは心底陰鬱な気分になった。マリーは一体どんな気分なのだろう? 昨日の昼にはのんびりと笑っていた、可愛いマリー。

リンクに出る前、青褪めた顔で身体をほぐすメリルに、自分の手を止めてリチャードは提案する。

「今日、終わったらお見舞いに行こう。メリル」

 メリルは頷いた。メリルの白い頬に、リチャードはそっと触れる。

「そんな顔するんじゃないよ」

「……」

 メリルは答えない。答える言葉が見つからなかった。

「マリーは気の毒だけれど、事故はよくあることだろう? メリル。僕たちがやっているのはそういう競技なんだ。友達が事故にあったからといって、いちいち気に病んではいられない。アイスダンスは危険だ。でも、僕たちはそんなことわかってやってる。そうだろう? もちろん、僕は君を落としたりはしない。それについては、僕のことを信じてほしい。でも、危険自体は「ある」んだ。そこに。いつでも。マリーも、それはわかっていたはずだ。違うかい?」

 確かにその通りだった。アイスダンスは、特にリフトは危険だ。危険であればあるだけレベルが上がり、得点が多くなる。そういう競技だ。でも、本当にわかっていたのだろうか、とメリルは思う。自分たちが出場した大会で、練習で、リフトから落下する、あるいはパートナーのブレードで踏まれてしまうダンサーを、これまでにも何人も見た。数え切れないぐらいだ。

けれどそれはメリルにとって名前ぐらいしか知らない人々で、それらの事故は恐ろしくはあったけれど、架空の出来事のようだった。けれど、マリーはリチャードの友人であり、メリルは彼女に好感を持っていた。マリーの事故は、メリルにとって現実だった。リチャードがそれに驚いた自分をかばってぶつかったのと同じぐらい、リアルな悲劇だった。メリルはマリーの、ヘルメット越しでなお頭を揺さぶるような衝撃や、冷え冷えとした氷の感触、そして細い固いブレードに背中を押しつぶされるような痛みを、自分のことのように想像し、その度に全身を強張らせた。

 メリルは目の前にある緑の瞳を真っ直ぐに見つめる。リチャードももう何も言わず、メリルの目を見つめ返す。

「……リンクに、出ましょう。アップはもう充分でしょ」

 しばらく見詰め合ったあと、メリルは言った。なんにせよ、メリルに今できるのはそれだけなのだ。


 その朝のゴールデン・ワルツは散々だった。一周滑っただけで、もういいとセルゲイに言われるぐらいに。

「確かにあれは不幸な事故だ。だが、君たちが動揺してどうする」

 彼らを叱るセルゲイの深い皺が刻まれた重々しい顔の中の灰色の瞳が、薄く涙ぐんでいることに、メリルは気付いた。セルゲイもまた、深く動揺していたのだ。一時的にとはいえ自分の預かった生徒の深い怪我に、頑健な体の中の柔らかい部分を傷つけていた。

「エリックを見なさい。もうしっかり練習を始めている。どんなに辛くても、ダンサー、アスリートは、そうでなければいけないんだ。わかるだろう? 私たちは強く、誰よりも強くならなくてはいけないんだ」

 メリルは何度も何度も、祈るように、強く、と繰り返すセルゲイの示した方向に目を向けた。エリックが、一人で黙々と、ステップを刻んでいた。動揺など欠片も見せず、ただ黙々と、いつもと同じように。

 細い身体を黒い練習着に包んだエリックは、視線を感じ取ったのか、メリルのほうを向き直る。メリルと彼の目が合う。どこか動物めいて黒く深い、彼の瞳。

 エリックは微笑んだ。ひどく可笑しそうに。メリルの背筋を、冷たい汗がなぞっていく。慌てて視線を引き剥がしたメリルの手を、怪訝そうにリチャードは叩いた。

「どうした?」

「……なんでもない」

 メリルはリチャードと、もう一度ゴールデン・ワルツを滑る。その間中、メリルはエリックの視線を感じた。嘗めるような、エリックの強い、そして執拗な視線を。

「メリル! 集中!」

 セルゲイの声に、メリルは背筋を伸ばして、リチャードの手を強く握った。


 午後、メリルとリチャードはツイズルとステップを中心に練習した。昨日の今日でもうリフトの練習に入れとは、セルゲイも言わなかった。それほどハードな内容ではなかったのに、メリルは今までになく消耗した。ことあるごとに感じるエリックの視線が、メリルの足を重くさせた。

 服を着替え、メリルはのろのろとリチャードの車がある駐車場に向かった。いつもはバスで帰るのだが、今日はマリーの見舞いに二人で行かなくてはならない。

「やあ」

 通路で急に声をかけられ、メリルは弾かれたように振り向いた。聞き覚えのない声。

「やあメリル」

 エリックだった。

「あ……」

 メリルは眉を寄せた。エリックは微笑んでいた。

「少し、いいかい?」

 エリックもマリーと同じで、フランス語を母語にしているのだろう。正確だが、どこか違和感の残る英語だった。マリーの場合はつたなさが彼女を一層幼く無邪気に見せたのだが、エリックのそれは得体の知らなさを醸し出しているように、メリルには聞こえた。

「え、あの、リチャードが待っていて……」

「少し、だよ。それでもだめ?」

「……少しなら」

 メリルは呟くように答えた。俯いたメリルに対して、エリックはいつもの姿勢のよさを崩さない。

「よかった」

 そして、メリルを促して通路に設けられた小さな休憩スペースのソファに腰掛ける。メリルは少しエリックに距離を置いて、座った。

「何の話なの?」

 小さな声で尋ねる。エリックは心底楽しそうに微笑んだ。

「前々から君とはゆっくり話したいと思ってたんだよ」

「何故?」

「君は僕とよく似てると思っていたから」

 答えずに、顔を顰めた。

「そんな顔しなくてもいいじゃないか」

「……私とあなたのどこが、似てるなんて、」

「君だって気付いてると思ってたんだけどね。僕は」

 メリルは答えなかった。わからなかったからではなく、わかってしまったから。エリックをひっぱるように滑るマリーの姿。

「君と僕とはもっと仲良くなるべきだ。違う?」

「いいえ」

 メリルは首を振った。

「私はあなたと仲良くなんてしたくない」

「嘘だね」

 エリックは断言した。

「僕はね、マリーを落として、その上踏んだことを、悪いとなんて思ってないよ」

 メリルは耳を疑い、そしてマリーの言葉を思い出した。「エリックがいっぱい蹴るもんだから」。そして、練習がうまくいかずに氷を蹴る彼の姿も。

喉がひりつく。できることなら、ここからすぐに逃げ出したかった。自分のむき出しの肩と二の腕が、ひどく無防備に感じられる。

「だって、練習中の事故なんて、どっちが悪いってものじゃないんだろう? コーチも、それにマリーだってそう言ったんだ。「エリックは悪くない」って。マリーはね、「自分のミスだ」って言ったんだ。本人が言うんだからそうなんだろう。僕のせいじゃない」

 エリックの目は底のない黒さで、メリルを見つめる。

「僕のせいじゃない。あれはマリーのミスだ。だったら僕が二ヶ月も練習ができないなんて、まったく不当なことだと思わないか? 僕は悪くないのに、二ヶ月も練習できないんだ。マリーのせいで。ひどい話だと思わないかい?」

 メリルは身じろぎもせず、エリックの目を見つめた。光る闇のようなエリックの瞳。よく動く口の中で、唾が粘ついていた。

「だからさ、メリル、僕と滑ってくれないか?」

「……なんですって?」

 妙にくっきりとした声で、メリルは聞き返した。エリックの言う意味が理解できなかった。エリックは、ぎりぎりメリルに触れない位置で、彼女の肩を掴むような仕草をした。メリルは嫌悪感に身を震わせたが、エリックが気に留めた様子はない。

「だから、マリーが帰ってくるまで、君が僕の相手をしてくれないか?」

「何、言って……」

 くくっ、とエリックは喉元で笑った。

「君、リチャードとずっと滑って、それでいいのかい?」

「な……」

 ぎらぎらと油膜のように目を光らせて、エリックは言う。粘つく声が、メリルの耳をなぶる。

「リチャードは確かに理想的なパートナーなんだろうさ。技術的には、ね」

「……」

 エリックはにや、と口元を歪めて笑う。

「リチャードはうまい。ああ、とんでもなくうまい。彼はモンスターだ。そうだろう? 彼はプラトフ、アベルブフ、スタビスキー……そういう天才たちの一人だよ。そうだろう?」

 そうだった。間違いなく、そうだった。メリルは知っている。リチャード・アクトンは天才だった。きらびやかにアイスダンスの歴史を飾る天才たちの一人。

「でも、君はそうじゃない」

 それも、そのとおりだった。メリルにはよくわかっている。

「君は決して天才じゃない。君はいつだって「リチャードのパートナー」だ。あんなパートナーを持って羨ましいといわれ、リチャードのおまけみたいに扱われる。そうだろう?」

 それにメリルは沈黙で答えた。けれど、エリックはその沈黙から正確に「イエス」を読み取り、頷く。

「そう。君はリチャードの横にいる限り、決して評価されない。君が進歩しても、それはもうリチャードがとっくの昔に通ってきた道だからだ。「リチャードに追いついた」と言われるだけだ。君は優秀なダンサーなのに」

「え……」

 優秀? メリルは耳を疑った。そんなことを言われたのは初めてだった。メリルは、自分がごく普通のダンサー……というよりも、かなり技術的に稚拙なダンサーだと思っていた。エッジは浅く、うまくスピードにも乗れない、ポジションの美しさと多少の見栄えだけが長所の、平凡すぎるダンサーだ。

「君は優秀なダンサーだ。そして、美しい」

 エリックはメリルの柔らかな髪にそっと触れた。メリルは慌てて身を引く。エリックはにやりと笑った。

「僕は君と滑りたいんだ。僕と滑れば、君は君でいられる。君は君として評価される」

 メリルは呆然と、エリックの言葉を聞いた。君は、君として。

「僕と滑ってほしい。君と、メリル・ラドクリフというダンサーと、僕は滑りたいんだ」

「……行かなくちゃ、私……」

 メリルは立ち上がる。

「もう、行かなくちゃ……」

「そう」

 エリックは微笑んだ。

「返事を、待ってるよ、メリル」

 メリルは答えず、駐車場へと駆け出した。



 病院に向かうリチャードの車に乗っている間ずっと、メリルはエリックのことを考えていた。エリックのことが、恐ろしかった。何故パートナーのことをあんなふうに扱うことができるのか、まるで理解できなかった。昔ホラー・ビデオで見た人食い人種のようにさえ見えた。けれど。

 メリル・ラドクリフというダンサーと、僕は滑りたいんだ。

 それでも、アクセントのずれた英語で紡がれたその言葉は魅力的だった。恐ろしいほどに魅力的だった。

そうだ。メリルはようやく気付く。

自分は、リチャードに求められてはいないのだ。

静かに、窓の外を夜が流れていく。街灯さえない、深い黒い闇。その上に、窓に映った自分の顔が重なる。心細げな、小さな白い顔。

ダンサーとして、何一つ彼を助けることができない。ブロンドであること。十一歳のときから組んでいるパートナーであること。リチャードがメリルに求めているのは、それだけなのだ。それはどれもメリルが自分で得たものではない。

 私は、私はただ、「私」を必要とされたかった。リチャードを頼るだけじゃなくて、リチャードに必要な人間だと思いたかった。リチャードについていくだけじゃなくて、シニアのダンサーとして、メリル・ラドクリフとして、一人で立てるようになりたかった。グリシュクとプラトフみたいに、一人のダンサー同士としてお互いを認め合いたかった。

 メリルはようやく、最近自分を苦しめていたものの正体に、正確に思い至った。自分をずっと苦しめて、素直にリチャードに全てを任せられなくなった理由を。

「メリル?」

 自分の右側で、ずっと黙り込んでいるメリルに、リチャードが尋ねる。

「リチャード……」

「何?」

「……リチャードは」

「ん?」

 その声、自分だけに向けられたその声に、メリルは胸がかきむしられるような痛みを覚えた。メリルは、リチャードが好きだった。大好きだった。随分長いこと忘れていたそのことを、突然メリルは思い出す。リチャードの機知も、リチャードの優しさも、何もかもが大好きだった。リチャードのスケートも。どうしてそんなに深く曲がれるのかというほど強烈なカーブ一つで今でも興奮するし、ワルツの前の紳士的な挨拶の仕方も、ラテンを踊るときのわざとらしくないのに小気味のいい腰の振り方も、ちょっとした曲想を捕らえた仕草の一つ一つが、本当に好きだった。

十歳の頃から、初めて彼に声をかけられて、一緒に滑ったときから、ずっとずっと、メリルはリチャードを想っていた。それは決して恋ではないけれど、同じぐらい、もしかしたらそれ以上の強い気持ちだった。兄や、父を思うような気持ち。

でも、リチャードは兄でも父でもなく、パートナーだった。メリルはそれに、シニアに上がってようやく気付いたのだ。だから、兄としてでも父としてでもなく、パートナーとしてのリチャードを、ようやくメリルは見つめ始めたのだ。それは、目覚めたばかりのメリルにはとても苦い現実だったが。

「……マリーとエリックのこと、どう思う?」

 本当はもっと聞きたいことがあるんだとメリルは思ったが、とりあえずそう聞いてみた。

「いいカップルだと思うよ」

 メリルは続く言葉を待った。

「マリーにはエリックしかいないし、エリックにはマリーしかいないんだろうなって、僕は思うよ。そりゃ、色々あるだろうけどさ」

 リチャードは苦しいほど優しい声で、そう言った。

「本当に、難しいことも、色々あるんだと思うよ。マリーとエリックの技術レベルは確かに全然違うし、性格も随分違う。でも、マリーは……ダンサーとしてはかなり小柄だろう?」

「うん」

 メリルはマリーの姿を思い出す。多分百五十四、三センチほどしかない。女子シングルやペアの女子ではそれでも充分だが、百六十センチのメリルでもかなり小柄な部類に入るダンサーとしては、厳しいと言わざるをえない。マリーと同じぐらいの身長で著名なダンサーを、メリルは思い浮かべることができなかった。メリルが知っている歴代メダリストの中でおそらくもっとも小柄であろう選手でさえ、確かマリーより五センチほどは高かった。

「あれだけ小柄だと、ホールド・ポジションを取るとほとんどのダンサーとはアンバランスでうまくいかないと思う……僕だってそう大きいほうでもないけれど、彼女とちゃんと滑れる自信は正直ない。小柄な割りに脚は長いから、相手もただ背が低ければいいってものでもないだろうし」

「うん」

 メリルはマリーの体型を思い出して頷いた。

「それで、エリックはあの体型で、シングルからの転向だ。まだあまりカップル競技のための体もできてない。相手がマリーじゃなきゃ、リフトなんかは無理だと思う。マリーは小柄だし、バランス感覚もいいからね。フリー・クライミングが趣味なんだぜ? あれで」

「うん」

「それに、二人が並ぶと……なんていうのかな、雰囲気があるんだ。色っぽいというかね。ああいう雰囲気が出せるカップルはあんまりいないと思う。技術よりもずっと、それは得難いものだと思う。いいカップルだと思うよ。ずっと続けて、カップルとしての技術もしっかり身につけて、それでどういうダンスをするのか、僕は見てみたい」

 それを聞いて、メリルは何故か、途方も無く寂しくなった。エリックの、黒い黒い、底の見えない瞳が、窓越しに見える闇に重なった。



 病室のマリーは、想像していたよりもずっと元気そうだった。リチャードとメリルの来訪に屈託なく喜び、リチャードのくだらない話によく笑っては肋骨の痛みに顔を顰めた。両親が明後日には迎えに来て、カナダに帰るのだという。そして、そちらでリハビリを行うのだと。

「今期はもう無理かもしれないけど、早く氷に戻れるように頑張らなくちゃね。あのリフトも完成させたいし。あーあれ、「ジェラシー」で使いたかったなあ。スローパートでばーって滑ったら、すっごく目立ってかっこよかっただろうなあ」

 むしろ楽しそうに見えるほど軽く、マリーは言った。その強さに、メリルは驚いてしまう。

 ただ、

「それで、エリックはどう?」

 その質問をするときだけはマリーも、わずかに心細い顔をした。

「……元気よ」

「ああ。もう一人で練習してる」

 二人の言葉を聞くと、マリーは安心したように溜め息をついた。

「よかった」

「本当に?」

 メリルはつい、そう言ってしまった。マリーはメリルを見て、小さな男の子を持つ母親みたいな顔で微笑んだ。

「エリックは、繊細なの」

 聞いているだけで泣きたくなるような、暖かい声だった。

「すごく、繊細なの。私はそうじゃないから、いつも傷つけちゃうみたい」

 そして、どこかが痛んでいるような顔で笑った。

「……そんなこと、ないと思う」

 メリルは言ったが、自分の言葉に自信は持てなかった。うふふ、とマリーは笑う。

「エリックね、よく、私を蹴るの。エッジの使い方とフリーレッグの処理が甘くって」

「……」

「痛いんだよね。それで、エリックは謝らないから、すごく腹が立つの。すごく」

 マリーのその声はどうしてだか自分を責めているように聞こえた。

「……そう」

 マリーは目を閉じる。そうしていると、本当に赤ちゃんのような顔をしている。

「でも、でもね……多分、エリックは気にしてないから謝れないんじゃなくって、気にしてるから……私よりもずっと気にしてるから、謝れないんだと思うの」

 その言葉は、メリルの胸の、とても柔らかい部分に深く突き刺さるようだった。

僕のせいじゃない。

しつこいほどにそう繰り返したエリック。

「わかるよ。なんとなく、だけど」

 そう言ったのは、リチャードだった。そして、安心させるようにマリーの額をそっと撫でる。マリーは目を閉じたまま、リチャードの手を受けている。

「……私は明後日にはもうカナダに帰っちゃうけど、エリックはまだこっちに残って練習するらしいから、二人とも、エリックのこと、よろしくね」

「ああ。任せて」

 マリーはにっこり笑ってリチャードを見た。

「本当に、よろしくね」

 そして、微笑んだまま涙を零した。

「よろしく、ね……」

 メリルは思わずマリーの手を握った。冷たくて細い、本当に、小さな手だった。両手でそれを包み込みながら、メリルは目を閉じる。アイスダンスというのは、カップルというのは、なんて大変なことだろう。でも、マリーもメリルも、そしてリチャードもエリックも、もうそれを選んでしまったのだ。二人で、大変でいることを。



 翌朝、メリルは早起きをして、シリアルバー一つをかじってリンクへと向かった。なんだか無性に、滑りたかった。

 いつもならメリルが来る頃には二、三人滑っているのだが、今日は一番乗りだった。軽いストレッチの後、リンクへ降りる。

 身体の力を抜いて、右足でまっすぐ、ただ滑る。リンクの端から端まで60メートル。頬に空気がぶつかって、熱くなる。髪が後ろへと流れる。スケーティングフットの重心の位置をほんの少し動かすと、意のままにぐん、と加速する。その心地よさに、メリルは目を細めた。

 フェンスが目の前に来たので、ターンをして、止まる。

 あ、この位置。

 「ロミオとジュリエット」のミッドラインステップのエントランスと、同じだ。

 それに頭で気づく前に、身体は滑り出していた。

 スリー、モホーク、チョクトー、カウンター、ツイズル。スケーティングフットに体重をかけて、膝を微妙に曲げ伸ばしして、ブレードを動かし、一つ一つのターンを生み出していく。メリルの身体が生み出すターン。ブレードがうまく氷を捉えると、まるで風に運ばれているかのように自然に、メリルの身体は氷を滑る。氷の欠片も音も立たず、ただ自然に、滑っていく。ぐんぐん、スピードが上がっていく。

そして、そのターンの連なりが、一つの物語になる。恋を知る前のジュリエットの心の動きが、自分の身体で、つづられていく。

 ああ、なんて気持ちいい。

 メリルは微笑んでくるくると氷上を舞う。

 アイスダンスって、すごく、気持ちがいい。

 ミッドラインステップを滑り終え、すっかり頬を上気させたメリルは、手を前方に伸ばし、ふと気づく。

 リチャードが、いない。

伸ばしかけた手を、下に下ろす。足が止まる。胸の中が、落ち着きなく騒ぐ。

 滑りたい。

リチャードと、滑りたい。二人で滑ったら、きっと、もっと、

「メリル!」

 信じられないような気持ちで、メリルは振り向く。

 リンクサイドに、リチャードがいた。

「メリル! 滑ろう!」

 メリルは頷こうとした。でも、うまくいかなかった。その前に、一目散に、リチャードのほうへとかけていったから。



 ゴールデン・ワルツは、丁寧に滑れば、とても気持ちいい課題だ、とメリルは自分の体の軽さに驚いてしまった。メリルのエッジは滑らかに滑り、腕は柔らかく翻る。一つ一つのターンの持つ意味が、ブレードからスケーティングフットへ、そして自分の身体の芯へと、伝わってくる。一つ一つのターンが自分の動きでつながっていって、なんとも美しいステップを作り出すこの高揚感と来たら!

そして、常にリチャードが傍らに寄り添い、リードしてくれるという安心感。ゴールデン・ワルツとは、まさしくシニアのカップルのために用意された課題だ。強いパートナー・シップと強いエッジ・ワークを自然に身に着けたカップルのための。

「とてもいいよ、メリル、リチャード」

 セルゲイは嬉しそうに手を叩いた。

「すごくよくなってきている。うん。あと一息だ。一つ一つのステップはもうほとんど問題ないから、あとは全体を滑らかにすること。でも、それは繰り返しが解決してくれるよ。さあもう一回!」

 メリルとリチャードは微笑み合う。メリルはもう、スピードを出そう、とは考えなかった。自分の今まで悩んでいたことが、なんだかどうでもいい、というよりも、仕方のないことに思えたからだ。メリルはメリルで、リチャードはリチャードだった。それ以外の何者でもない。

要するに、そういうことだ。そしてそう思って初めて、メリルは正しくリチャードに身体を預けることができた。

 午前の練習が終わり、着替えると、メリルはエリックの姿を見つけた。

「エリック!」

 驚いて目を見張ったエリックに走りよって、メリルは言った。透けるほどに白い頬が赤く上気している。

「昨日のことだけれど」

「ああ。返事は?」

「できない」

「何故?」

 メリルは一つ深呼吸をして、はっきりと言った。

「あなたはマリーのパートナーだから」

 メリルは真っ直ぐにエリックの目を見つめていた。そうしていると、初めてエリックが、怯えたような目をしていることがわかった。エリックは人食い人種でも暴君でもなく、ただの、繊細すぎる十八歳の少年だった。メリルにはそれがもうちゃんと見えていた。エリックが言ったように、確かにメリルとエリックは、よく似ていたのだ。

「あなたはマリーを、助けてあげなくちゃいけない」

「何故?」

「あなたが、マリーのパートナーで、」

 メリルはもう一度、深呼吸をした。エリックはその間、きちんとメリルの言葉を待っていた。

「あなたしか、マリーを助けることが、できないから」

「……僕しか?」

 エリックが泣き笑いのように、浅黒い、繊細な顔を歪めた。

「あなたしか」

 メリルは断言した。

「……嘘だよ」

「本当よ」

 エリックは俯いた。前髪が彼の顔に影を作る。そうすると、ひどく幼げだった。

「……君に、どうしてそんなことがわかる?」

 それは否定や拒絶ではなく、信じられる答えを請うているように、メリルには聞こえた。頼むからその言葉を信じさせてくれと言っているように。

「だって、私もダンサーだもの」

 メリルは一度きつく目を閉じて、開いた。そうだ。自分はアイスダンサーだ。この美しくて難しくて、とても危険な競技に生きている、ダンサーだ。

「信じていない相手とは、滑れないことだけは、わかる」

「……」

「マリーがあなたを信じていることは、わかる。どんなにうまいダンサーだって、信じてない相手と、リフトなんて絶対にできない」

「……」

「だから、マリーを、助けてあげて……あなたにしか、できないから」

 エリックはただ無言で、俯いていた。

「……じゃあ、私、行かなくちゃ。リチャードが待ってるの」

 背を向けたメリルの肩に、エリックが手をかけた。

「メリル……」

「何?」

 エリックは俯いたまま、こう言った。

ありがとう。

メリルは微笑んだ。エリックもマリーも、そして自分も、もう大丈夫だろう、と思った。



いつものようにメリルはリチャードの隣に座り、ベーグルサンドを注文した。リチャードはメリルに微笑みかける。メリルは不思議になる。リチャードはいつもこんなに優しい目で自分を見るのに、どうして今まであんなに苛苛していたんだろう。

「今日の練習は、本当によかったね、メリル」

「うん……あのね、リチャード」

「なんだい?」

「色々、ね、色々、私には話したいことがあるの。リチャードに。それで、色々、聞きたいことが、あるの」

 リチャードは少し眉を寄せて、頷いた。

「うん」

「リチャードが、嫌じゃなければ、だけど」

 リチャードは、ぎこちなく微笑んだ。

「もちろん、嫌じゃないよ。なんだい?」

「よかった……あのね、」

「うん」

 リチャードはやってきたクラブサンドを齧る。

「私ね、今まで、リチャードのことを信じてなかったんだと、思うの」

「傷つくな」

 メリルは頬杖をついて、笑う。

「あのね、つまり、多分……これまで私は、「疑わなかった」の。リチャードがミスしたり、リチャードがリフトで私を落としたりするなんて、想像したこともなかった」

 リチャードはソースで汚れた指を舐める。

「買いかぶりだな」

「そう?」

「買いかぶりだよ。今は違うの?」

 メリルは頷いた。

「あのね、色々なことが、起こると思うし、リチャードだって万能じゃないし、もしかしたら……マリーとエリックみたいなことも、起こるかもしれないって、今は思うの。それが、アイスダンスだから」

「……うん」

 メリルはゆっくりと、考えていたことを言葉にする。リチャードはじっと、メリルの言葉を待つ。

「あのね、でも、でも……それでも、リチャードの手をとって、氷に出て行くってこと……そういうこともあるって、わかってても、一緒に滑るってことが、「信じる」ってことだと、思うの。それで、今、私はリチャードを、その……信じてる」

 リチャードはメリルのブルーの瞳を驚いたように見つめたあと、ゆっくりと微笑んだ。

「……ありがとう」

 そして、メリルの手に自分の手を重ねた。メリルは手をずらして、リチャードの手を握り返した。リンクの外で手を握り合うのは本当に久しぶりだ、とメリルは思った。それに、こんなに話をするのも。こんなに自分のことを、わかってほしいと思うのも。

「メリル」

「うん」

「メリルは、最近悩んでただろう」

「……うん」

「怖かったんだ。僕は」

「え?」

 メリルはリチャードが何を言ったのか、理解できなかった。怖い? リチャードが?

 リチャードは自嘲するように、苦く笑んでいた。

「メリルが、アイスダンスが嫌になったのかと思った。今までずっと、僕がメリルを引きずり回してたから。メリルの気持ちなんて考えずに、駄々をこねてパートナーになってもらって、無理矢理レッスンに連れて行って。メリル、ピアノをやめただろう? あの頃」

 そんなこともあった、とメリルは思い出す。すっかり忘れていた。

「覚えてたの? そんなこと」

「覚えてたよ。全部、覚えてる……僕がやめろって言ったんだから」

 それに関しては、メリルは覚えてさえいなかった。ただ、あの頃メリルはスケートに夢中だったのだ。一回のレッスンで確実に出来ることが増えていくスケートのほうが、どんなにがんばっても同じところで指がもつれてしまうピアノよりずっと楽しかった。それに、スケートはリチャードがいたし。

「リチャードだって、私と組むためにシングルをやめたでしょう? ジャンプも三回転飛べてたのに」

 メリルにしてみれば、それはあまりいい思い出ではない。練習が終わって疲れきっているとき、暖房もない冷えた廊下でリチャードのコーチやリンクの関係者の大人たちに囲まれて、馬鹿なことをやめるようにリチャードに「説得」してくれと言われて震えたことや、ロッカーに入れておいた練習着を濡らされたことは、思い出しても泣き出しそうになる。

今にしてみれば、完全な素人をパートナーにしてダンスに転向するなんて、リチャードもずいぶん思い切ったことをしたものだ。周囲の大人たちが反対するのも当たり前だ。そして、気の弱い自分がよくそんな状況でスケートを続けようと思えたものだ。

「僕はもともとダンスがやりたかったからね。メリルを見たときに、「この子だ!」って思ったんだ」

「それはどうも」

 肩をすくめたメリルに、リチャードは目を細める。

「メリルはもう子供じゃなくて、シニアに上がって、嫌になったのかと、思った。ゴールデン・ワルツは難しいし、リフトもいきなり難しいのをやらされるし、これからだってずっと、アイスダンスのことを考えていかなくちゃいけないから……僕のわがままで始まったことなのに」

 メリルはつい笑ってしまった。そんなこと、全然知らなかった。そんなことをリチャードが考えているなんて、想像したこともなかった。

「そんなわけないよ。スケートをやるのは、私が決めたんだよ。リチャードじゃなくって」

 リチャードも照れたように笑う。

「でも、怖かったんだ……メリルに見捨てられたら、どうしようかと思った。メリル以外と、滑れる気がしないし、滑りたいとも思わない。メリルがいなくなったら、本当に……どうしていいのかわからないよ」

 リチャードはメリルの手を強く握った。大きくて柔らかい、メリルの大好きな手。

メリルも握り返す。リチャードが、いとおしかった。

リチャードがメリルの手を握るように、メリルもリチャードの手を、握るのだ。こんなに小さい、何もできないような手でも、しっかりと握って、安心させてあげるのが、自分の役目だ。メリルはそう思って、リチャードに言う。

「いなく、ならないよ」

「うん」

「ずーっと、ずーっと、一緒だよ。二人で、オリンピックに出るの」

「うん」

「グリシュク・プラトフみたいに、なるの。オリンピック二連覇」

「……それは厳しいな」

「でも、なるの」

「そうか」

「うん」

 メリルはリチャードの肩に頭を預けた。じゃれ付くように頭を動かす。こうしていると、本当に安心する。もしかしたら、リチャードもそうなのかもしれない、とメリルは考えた。その想像は、メリルの胸を暖かく満たす。

「なれるよ」

 メリルは微笑む。見上げると、くすぐったそうに微笑むリチャードと、目が合った。パートナーがいる、ということは、それだけで一つの、かけがえのない奇跡だ。六年かけて、二人で作ってきた奇跡。

グリシュク・プラトフは、仲が悪かったのだとセルゲイは言う。あれほどのユニゾンを持ちながら、練習では常に喧嘩ばかりだったのだと。でも、それはきっと、仲が悪くなれるぐらいに相手を信じていたということだと、今のメリルは思う。心が通じ合っていない相手と、あんなステップを踏めるだろうか? あんなにぴったりと寄り添って、ブレードなんていう凶器になりえるものをあれほど激しく動かすことが、できるだろうか? そんなことは、誰にもできないのだ。どんな天才だって、パートナーを信じなければ、そんなことは決して、できないのだ。そして自分たちも、きっと、そんなふうになれる。喧嘩はあまり、したくはないけれど。



 季節は秋になり、彼らは新しいシーズン、そしてシニア・デビューの日を、迎えた。六分間練習を終えて、リンクサイドで他のカップルの演技を見守る。今目の前で滑っているのは、去年のロシア選手権で三位、世界選手権では十一位だったカップルだ。スピードはそこまでないが、エッジが深く、正確なターンを踏む。女性の金色のドレスの裾が翻る。とても華やかな、いいワルツだ。

「やっぱり、シニアはみんなうまい……」

「そりゃ、グランプリ・シリーズだからね」

 メリルの肩を抱いて、リチャードが飄々と言う。次は自分たちの出番だというのにまるで緊張した様子がないリチャードに、メリルはほとんど呆れてしまう。

「でも、今日の主役はメリルだよ」

「どうして?」

 アイシャドーとマスカラに彩られた目を見開いてメリルは尋ねた。

「だって、メリルが一番美人だ」

「何、それ」

 メリルは笑う。繊細なレースとラインストーンをたっぷり使った生地ででき白いたドレスを纏い、ブロンドを上品にハーフアップにまとめている。燕尾服を着たリチャードと並ぶと、まるで社交界にデビューする初々しいカップルのようだ、とはセルゲイと、その妻のナターシャの言葉だ。シニア・デビュー、そしてゴールデン・ワルツにぴったりの衣装だ。

「あ、終わった」

 音楽が止まり、リンクの上でカップルが優雅に礼をして、キス・アンド・クライに向かう。リチャードは、軽く膝を曲げ伸ばしする。

「どきどきしてる? メリル」

「ええ」

 高潮した頬でメリルは笑う。前のカップルの点数がコールされる。歓声が沸く。

「メリル」

 リチャードがメリルの右手を握り、メリルの目を見つめる。メリルはそっと、左手で「いつもの言葉」を言いかけたリチャードの口を塞いだ。そして、口を開く。

 メリルの言葉を聞いて、リチャードは目を見開き、そして、笑った。やられた、とメリルの手の下で、呟く。メリルは微笑む。

「メリル・ラドクリフ、アンド、リチャード・アクトン!」

 彼らの名前が、高らかにコールされる。メリルとリチャードは誇らしげに微笑むと、手に手を取って、リンクに向かって飛び出した。


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― 新着の感想 ―
[一言] ダンスの描写が本当に美しく、読んでいて目の前でダンスを見せられているような気分でした。ダンスの描写とメリルの心情が違和感なく交互に書かれていて、でも両者がごちゃつかず、どの文も活き活きして本…
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