ミリィの手紙
いつも。郵便受けの前で待っているおんなのこがいた。
おんなのこはミリィといい、ミリィはこの街で誰よりも早く起きる。が、早起きは何よりも苦手なことだった。
そんな彼女が眠気まなこを何度もこすって外に出るのには、勿論理由がある。
ミリィは、待っているのだ。
生まれてからまだ一度も会ったことのない、兄からの手紙を。
ミリィの兄は、彼女が生まれるずっと前に家を出て、海外を転々としている。『薔薇の国』『百合の国』『茉莉花の国』など、西から東まで海を渡り、山を越えて世界中を旅しているのだ。
ミリィが生まれた時、両親は彼にその嬉しい知らせを手紙に書いて送ったが、帰ってくるという旨の返事は返ってこなかった。
彼は非常に移り気な性格であった。
最初はちいさな妹に会いに故郷へ戻ろうと足を向けたが、ひとたび心の琴線に触れるもの――遺跡や、絵画や彫刻といった芸術品や、海や街の景色等々――が視界に入れば、彼の目的は霧散し、頭の奥へと仕舞われてしまう。そして気が済むと、最初の目的を思い出す。が、また故郷の道とは逸れた道をゆく。それの繰り返しだ。可哀想なミリィは、そのことを少しも知らなかった。ただ無邪気に、純粋に彼との出逢いを楽しみにしていた。だが。
「思うに。僕は妹の日常にいない人間だ。妹に会いたいきもちに嘘などないが、別段すぐさま会いにいかなくともいいんじゃないかな? 僕はこんな性格だし、妹に嫌われないために会わない方が賢明かもしれないな、はは。……まあ、手紙くらいは出してみようか」
つまり。彼は旅する足を止めないし、妹に会いに来ることもない。それでもミリィは朝、早く起きる。兄からの手紙を誰より何より早く、受けとるために。そして同時に、兄の帰還を淡く期待しながら。
しかし、ここ最近、そんな兄からの便りが来ない。彼女は目をこする。こすった指に、あたたかな雫の温度を感じて、項垂れる。
「もうずっと、手紙届いてないよ、お兄ちゃん……」
ちいさな少女が、青の郵便受けの前で項垂れている。郵便配達の男は、少し膨らんだ手紙を手にしながら歩み寄る。
「どうしたんだい、おじょーさん」
アーモンドのようなくりくりの瞳が、こちらをぐっと見つめる。郵便配達の男はたじろいだ。その目は、悲しげに震えている。
「どーしたも、こーしたもないの」
「?」
「お手紙が届かないの」
そうしてしょぼくれている少女に、男は優しい声をかける。
「誰からのお手紙?」
「ミトゥイお兄ちゃんからの、ミリィへのおてがみ!」
すると、少女は影を差していた瞳を爛々とさせて、自分の兄の自慢を早口にしゃべり始めた。
「ミリィのお兄ちゃんは今もずっと外国を旅して生活してるの。知ってる? 『薔薇の国』や『牡丹の国』、『菖蒲の国』だって行ったことがあるのよ、すごいでしょ。ミリィはいちども会ったことないけどね、いつも毎月手紙をくれるの。その手紙にはいっつも素敵なものが入ってるの。ね、素敵でしょう!」
「へえ」
「でもね、今年に入ってからは一通もきてないの。もう六ヶ月もきてないの。ミリィはお兄ちゃんに何かあったんじゃないかってママに言うんだけど、ママはお兄ちゃんなら心配ないっておんなじことばっかり。……でもやっぱり、ミリィは心配だよ」
しばらく黙っていた配達員は、手にしていた手紙をほほえみながら手渡した。少女は不思議そうにしていたが、送り主の名前を目にした瞬間、弾かれんばかりに飛び上がり、歓喜の声を上げた。まぎれもない、自分の兄からの手紙。男は興奮のあまり顔を真っ赤にする彼女を気遣うように、はにかみながら言った。
「ごめんね。一応お兄ちゃんからの手紙は局には届いていたんだけど、切手がどれもついていなくて。忘れちゃったんだね、きっと。もう少しで廃棄処分、ごみとして捨てちゃうところだったんだ。はは――……え、笑い事じゃない? おお、そんなに興奮しないで。ごめんごめん。じゃあ明日、まとめて他のも持ってくるから待っててね」
そうして去っていった男の見送りも大概に、ミリィは嵐のように自分の部屋へと舞い戻り、兄からの手紙を一心不乱に読んだ。その手紙はどれも彼女のちいさな机の引き出しに、大切に仕舞われている。辛いとき、寂しいときにこの手紙を読むのだ。そうすれば、大好きな兄から元気を貰える。――まだ一度だって会ったことはないけれど。ミリィは思う。兄の字は男らしい、やや雑ではあるが、凛としたはっきりした字だったが、彼の書く手紙の内容は、とても夢みたいにきらきら輝いていて、まるで童話だった。ミリィはまだ見ぬ世界に想いを馳せる。彼女の想像の世界はどこも目映いほどに、輝いていて。ミリィはにこにこと笑う。兄とは会えなくとも、繋がっていられるのだ。手紙があれば。
(そうだ)
ミリィは手紙を抱きしめながらベッドから跳ね起き、がさがさと机をあさり出した。
――そうだ。
自分も、手紙を書こう。兄に。
(めいわく、かな。嫌がられる、かな)
それでも。それでも伝えたいことがある。ママは言っていた。手紙は素敵だと。離れていても、想いが繋がるから、と。
――お兄ちゃんあのね。
ミリィはペンを走らせながら、想う。
――伝えたいことがあるの。あのね。無理かもしれないけどね、ね。
(あいに、来て)
ミリィは書いた手紙を手に、家を飛び出した。まだ覚えたての字が仲良く踊っているような、そんな子どもらしい文字。それでも、気持ちだけは。会いたいという気持ちだけは、溢れてもおかしくないほどにたくさん込められていた。
「ミリィ、どこへ行くの?」
台所にいたママに尋ねられ、ミリィは意気揚々に答える。
「手紙を出しに行くのよ!」
「まあそうなの。ってあら? ――ちょっと、待ちなさいミリィ、今日は郵便屋さんお休みよ、ミリィ!」
ミリィは外に出て、すううと息を吸う。空は雲ばかり。太陽は隠れて、今にも雨が降ってしまいそうだ。――でもそれでいい。それでよかった。ミリィは手紙を抱えるようにして走った。
お兄ちゃん、ミリィ九さいになったよ。かけっこ二番になったよ。勉強は苦手。でも、世界のおはなしは好きだよ。お兄ちゃんが行った国、ぜんぶ覚えたよ。木登りをね、初めてやったの。そしたらおっこっちゃった。痛かったの。だから泣いちゃったわ。でもすぐ泣き止んだ。偉いでしょ? だってママが言うんだもん、そんな泣き虫だったら、お兄ちゃん呆れちゃうよって。
――お兄ちゃんに会いたくて、五さいになるまでずっと泣いてたんだよ。でもママにそう言われて泣くのをやめたよ。でも最近、お兄ちゃんからの手紙来なくなってから、たまらなくなって泣いちゃった。でもママに見つからないように隠れて泣いてたんだよ。ねえお兄ちゃん。
ミリィは笑う。すごいでしょお兄ちゃん。ミリィは皆の前で泣かないんだよ。偉いでしょ。だから、お兄ちゃん、ほめてね。ちゃんといっぱい、ほめてね。ミリィよくやった! ってたくさんたくさん……。
ちいさな雨粒が、ミリィの鼻のあたまをつついた。ぽつりぽつり。雨が降ってきた。ミリィは足を早める。郵便屋さんまではまだ距離がある。ミリィは走った。それでも子どもの足ではなかなか距離が縮まらない。ミリィは何度も転びそうになって、それでも唇をぎゅっと引き締めて、走り続けた。――すべては大好きなあなたのため。
それでも、無慈悲な雨に、ミリィは堪えていたものが流れそうになるのを感じた。足が止まる。雨が冷たい。
「いい子にしてたよ、ミリィ。だから、お兄ちゃん、ねえ、ミリィに会いに」
手紙が、よれてくしゃくしゃになった紙のかたまりが、目に入った。これではもう読めはしない。
「……っ、お兄ちゃん!」
なんだか、会いたいという気持ちまで、ぐしゃぐしゃにされてしまったようで。
その場で声をあげて泣いていた。あーんあーんと、切ない声が辺りに響いた。
――と。向こうから慌てた様子で誰かが近づいてくる。ミリィは視線さえ寄こさなかった。悲しいきもちで、それどころではなかった。
誰かは近づいて、近づいて。ミリィを抱きしめた。ミリィはびっくりして泣くのをやめる。ミリィはちいさな体を持ち上げられ、彼女の家に連れて行かれた。ミリィには訳がわからない。ママとパパが見たことないくらいに喜んでいたからだ。
ミリィを抱えた誰かが言う。
「ママ、ミリィにタオル持ってきてあげて。かなり濡れちゃったなぁ、ミリィ。寒くない? 大丈夫?」
「……朝の、」
ミリィは首を傾げた。「郵便配達のひと?」
弾けたようにミリィは自分の手に握られた手紙を思いだし、紙の状態も忘れてしまうほどに必死に頼み込んだ。
「お願い! これをお兄ちゃんに届けて!」
「はい」
頷いた配達員は、あろうことかその封を破って、手紙を抜き取ったのだった。ミリィは唖然とする。
「わぁ、雨でびしょびしょ。読めないや。あと、切手ないからだめだね。もうちょっとでおれと一緒の間違いをするとこだったね」
「……え、え」
「ミリィ」
パパは可笑しそうに混乱する彼女の名を呼んだ。そして、これまた可笑しそうに言った。
「ミトゥイお兄ちゃんが帰ってきたよ、ミリィ。よかったな」
「え――」
「この放蕩息子、もっと早く帰ってこんか」
ミトゥイと呼ばれた配達員は、にやっと笑った。「色々あったのさ」
そしてしゃがんでミリィと目線を近づける。ミトゥイの背は高かったので、しゃがんでも、ミトゥイの方が視線が高かった。彼はほほえむ。
「そうだな。こんなに可愛い妹ができたんだから、もっと早く帰るべきだったなぁ」
「え、え、あなた、郵便――」
「ああ、それはきみを驚かせるために郵便配達をやってる親友に頼んで服を貸してもらっただけ。切手忘れは本当だったけど。先日に親友が気づかなかったら、ほんとに捨てられちゃうとこだった、はは」
くるくると目を揺らすミリィに、ミトゥイはにこりとして、彼女を抱き締めた。
「ただいまミリィ。ね、おかえりお兄ちゃんって言ってよ。それから、ミリィの話を聞かせて。おれも話したいこといっぱいあるんだ」
「……」
「ミリィ?」
ミリィは泣いていた。そして言葉にならない声をあげながら、ぐずった。何だか悔しいのだ。でも、そんな悪戯っこな彼が、ミリィが想像していたひとだった。優しくて、ちょっぴり意地悪。ミリィは抱き締めた。ちいさな体でこれでもかと、抱き締めるというよりしがみつく、の方が正しいか。
「いたたた、ミリィ、痛いよ」
「ばかお兄ちゃん!」
ミリィは泣き笑いを浮かべた。
「大好きよ!」
そして後日、ミリィは再びペンを取った。
隣に立つ兄にもたれながら、彼への手紙を書くべくゆっくりと、手を、動かして。
了