とある未来における予防接種マニュアル序論
かつて、戦争が地球を覆いました。それは酷いものでした。それはそれは壮絶な戦争だったのです。
初めは小さないさかいが原因だったのでしょう。道すがら人と肩をぶつけてしまったような、そんな小さい出来事です。ただの好き嫌いの主張の違いだったのです。それだけで終わればこんなことは起きませんでした。相手に対して謝って道を譲り、主張を尊重したりすれば、皆仲良くできたのです。大抵の人はそれができました。皆、仲良くしようと思ったのです。
ですが、ある片方の人が手を上げてしまいました。
その人も仲良しを良いと思っている人間の一人でした。ただその時は、単に頭に血が上ってしまっただけなのでしょう。本人にも、相手を傷付けるつもりはなかったはずです。尊重しようと努力したはずです。仲良くしたかったはずでした。しかし、相手はどうでしょうか。人の心の中など分かりません。傷つけてしまったのは事実なのです。相手を不当に殴ってしまった結果だけが残ってしまいました。
当然、自分を傷つけた相手を恨んで、憎んでしまいました。そして不幸にも、その人自身も熱くなり過ぎていました。本当は彼も相手のことを憎みたくはありませんでした。ですが憎しみは火に油を注ぎ、沸点を越えさせてしまったのです。彼は人を憎んでしまったことを恥じる前に、やられたから、つい反射的に、やり返してしまったのです。
すると、誰かが加勢してきました。主張を同じくする人。止めに入った人。利害関係にある人。お祭り騒ぎがしたい人。個人対個人から集団対集団になったのです。それは徐々に大きくなりました。こうなると、もう歯止めは利きません。もう理由なんて無いようなものでした。目には目を。歯には歯を。攻撃に対して報復を行いました。誰もが憎しみという感情に動かされていました。争いは伝播し、人は人に。誰かが、誰かに。集団から国へ。国から世界に舞台を変えていきました。
こうして地球に戦争が広がったのです。
誰もがこの不毛な戦争に参加しました。男性と女性、老人と子供にまで銃を取らせました。人が人に対して引き金を引き、人を傷つけました。知らない誰かを殺しました。たくさん人が死んでしまいました。色んな技術が戦争によって生まれ、利用されました。地面を抉り、海を干上がらせる兵器によって、多くの動物と植物も死に枯れてしまいました。地球はまっさらな更地になったも同然でした。人間は十分の一に減ってしまったのです。
戦争が終わった時には、勝ち負けなんて誰も言えませんでした。いえ、勝ち負けが誰にも言えないほど人が多く死んでしまったから、戦争が終わったようなものです。
しかし、今はこんな酷い戦争は万が一にも起こらないでしょう。
切っ掛けは、ある科学者の放った言葉でした。その科学者は、人間が産まれた時から持っている病気が原因で戦争を起こしていると言いました。人間が皆病気に罹っていたから、戦争を起こしていると言ったのです。人間は病気なのだから、嫌な戦争を続けても仕方がありません。歴史から学んでも、戦争を繰り返していたのは病気のせいだったのです。
その病気の名は『憎しみ』。
科学者は人が人を憎むから戦争が広がると言いました。その病気を治療すれば、戦争が起こることはもう無いと。
それを耳にしたある科学者は病気の治療を長年かけて探し、遂にそれを発見しました。病気は頭の中のある小さな部分が原因だったのです。この部分を取り除けば、病気を治療できることを証明しました。しかし、それはとても小さく、それだけを取り除くことはどうしてもできませんでした。
また、それを聞き付けた別のある科学者は、その治療のための機械を発明しました。小さな部分を取り除くために、マイクロマシンという更に小さな機械を作ったのです。それは奇しくも、それは戦争によって生み出された技術の応用でした。
治療はこのマイクロマシンを体の中に入れ、頭の中のある部分を壊して貰うだけです。予防接種のように、幼児にはこのマイクロマシン注射が義務付けられました。
実際に、マイクロマシン治療が広まった途端に効果が表れ始め、全ての人にこの治療が行き渡った時には、戦争というものは起きなくなりました。
誰かがつい相手をぶっても、殴られた相手がやり返すようなことは起きなくなりました。誰かが人を殺しても、遺された人達は殺した人を恨みません。誰もが笑って許せるようになったのです。
これは科学の勝利です。科学によって戦争をなくしたのです。病気の根絶に関わった人達は諸手を挙げて喜びました。
それでも人が人を傷付けることは無くなりませんでした。この病気とは別の理由で人を傷付けるのです。科学者は更なる人間の繁栄のために人を傷付ける病気を探し、そして発見しました。
来年度の注射では、この病気も治療できるマイクロマシンが導入されます。
これで誰かが傷付く世界は無くなるでしょう。
ハッピーエンド。
しかし、この世界は狂っている。