SAN値なんていらない
夕食後。
「修也〜、ちょっとこれ見て」
「きゅ?(ん?)」
ソファでスマートフォンを見ていた梓が、俺を手招きする。
隣まで行くと、画面をこちらへ向けてきた。
「この辺で強盗あったんだって」
「きゅ?(強盗?)」
「うん。近くの住宅に押し入ったみたい」
表示されているのは、地域の防犯情報だった。
近隣で、住宅への侵入を伴う強盗事件が発生しており、戸締まりを徹底するよう注意を呼びかけている。
「そういえば、マンションのエントランスにも貼り紙あったよ。最近この辺で何件か被害が出てるみたい」
「きゅきゅう……(うわ、物騒だな……)」
「怖いねぇ」
「きゅう(ほんとにな)」
ホワイトボードを引き寄せる。
『防犯意識!
戸締まりしっかり!』
「何その標語」
「きゅう!(大事だぞ!)」
「はいはい。寝る前にもう一回確認しよっか」
とはいえ、俺たちにできることなんてそれくらいだ。
鍵を閉めて、知らない人が来ても不用意にドアを開けない。
しばらくは少し気をつけよう。
そのときは、その程度にしか考えていなかった。
◇◇◇
それから数日後の深夜。
「…………」
物音で目が覚めた。
隣を見ると、梓はまだ眠っている。耳を澄ませてみるが、何も聞こえない。
(気のせいか……?)
そう思ったとき、玄関の方からガタンと音がした。
今度は、はっきり聞こえた。
数日前、梓と一緒に見た防犯情報が頭をよぎる。鍵は閉めたし、寝る前にもちゃんと確認した。それでも嫌な予感がして、俺は身体を起こした。
「きゅう……」
梓を起こそうか迷ったが、何でもなかったらわざわざ起こす必要もない。
(ちょっと見てくるか)
音を立てないよう寝室を出て、暗い廊下を進む。
玄関の方を覗くと、そこには知らない男がいた。
(マジかよ)
鍵は閉めていたはずなのに、どうやって入った。
男はまだこちらに気づいていない。暗がりの中、辺りを窺いながら部屋の奥へ進もうとしている。
その手に握られている刃物を見て、身体が強張った。
(……強盗じゃん)
どうする。
まず梓を起こして、それから警察を──。
そう考えているうちに、男がこちらを向いた。
「…………」
「…………」
目が合った。
「きゅう……(やば……)」
男は大きく目を見開いたまま固まり、俺の身体を上から下まで見つめている。やがて顔からみるみる血の気が引き、刃物を握った手がガタガタと震え始めた。
「あ……ぁ……なんだよ……」
「…………」
「なんなんだよ、お前……!」
(ああ……)
そうだった。
今の俺を初めて見た人間が、どうなるか。
「きゅう……(えーっと……)」
「ひっ……!」
男が後ずさる。
(どうしよう)
完全にパニックになっている。
下手に動けば何をするか分からない。俺は刺激しないよう、その場でじっとしていた。
「来るな……来るなよ……!」
「きゅう(行かないよ)」
もちろん、俺の言葉なんて伝わらない。
男の呼吸はどんどん荒くなり、俺から目を離さないまま刃物を握りしめている。
(このまま出てってくれないかな……)
玄関はすぐ後ろだ。
俺は追わない。
だから何もせずに、さっさと出ていってほしい。
そう願っていた、そのとき。
「……修也?」
「…………!」
後ろから梓の声がした。
「何してるの……?」
「きゅう!きゅきゅう!(梓!来るな!)」
「え?」
足音が近づき、男の視線が俺から梓へと移る。
「……誰?」
寝ぼけていた梓の声が、一気に強張った。
「…………っ」
男の目が、俺と梓の間を行き来する。
「う……うわあああああっ!!」
「…………!」
突然、男が叫び、刃物を握ったまま動いた。
何をするつもりなのかなんて分からない。ただ、咄嗟に梓の前へ出た。
「修也!」
男の腕が振り下ろされる。
ずぶり。
「…………?」
何かが、俺の身体に沈んだ。
けれど、何も感じない。
(……何?)
痛みもなく、何が起きたのか分からないまま男を見ると、向こうも顔を引きつらせて俺を見ていた。
視線を下げる。
刃物が、俺の身体に刺さっていた。
(……え)
刺された?
そう理解するまで、一瞬かかった。
(痛く、ない……?)
男が刃物を引き抜く。
それでも何も感じなかった。
(いやいやいや)
痛くないからって。
(刺されていいわけじゃないだろ!!)
「きゅう!!」
刃物を持つ腕を押さえようと触手を伸ばした瞬間、男の顔がさらに恐怖に歪んだ。
「ひっ……うわああああ!!」
(待て!)
男は伸びてくる触手から逃れようと、滅茶苦茶に刃物を振り回す。
「きゅう!(落ち着けって!)」
ずぶり、と再び何かが身体に沈んだ。
それでも痛みはない。
俺が男を止めようと触手を伸ばすたび、男は怯えて刃物を振るった。刺して、引き抜いて、また刺す。
「やめて!!修也に何してるの!やめてよ!」
「きゅう!(梓は下がってろ!)」
「うあああああっ!!」
男はもう、俺たちの声なんて聞こえていない。
何度刺されても痛みはなく、身体もまだ動く。
(なんなんだ、この身体……)
けれど、動けるならまだ大丈夫。
そう思い、もう一度触手を伸ばそうとした。
だが、動かない。
(あれ?)
一本の触手が床に落ちている。力を入れても、ぴくりとも動かなかった。
別の触手を伸ばそうとするが、それも途中でずるりと床へ落ちた。
身体が傾く。
支えようとした触手にも力が入らず、一本、また一本と動かなくなっていく。
(……これ)
痛くない。
どこも痛くないのに。
(まずい、のか……?)
そう思った直後、また刃物が身体に突き立てられた。
「…………」
やっぱり、痛くない。
けれど、もう男を止めようにも触手が動かなかった。
「やめて!もうやめてよ!!」
梓の悲鳴が聞こえる。
男はそれすら耳に入っていないのか、俺だけを見ていた。
「死ね……死ねよ……!」
刃物が何度も振り下ろされ、そのたびに身体が揺れる。
刺された箇所からは、体液がじわじわと染み出していた。
床へ垂れ、少しずつ俺の身体の下に広がっていく。
(……俺、今どうなってるんだ?)
それを見ても、痛みはない。
どこをどれだけ傷つけられたのかも、あとどれくらい動けるのかも、自分では分からなかった。
ただ、身体から何かが失われていく。
さっきまで動いていた触手が、もう一本も動かない。
やがて、男の動きが止まった。
「……はっ……はは……やった……! やったぞ……この化け物が……!」
身体や服に体液をべっとりと付着させたまま、男は刃物を握って玄関から飛び出していった。
「修也!」
男が逃げていくと、梓がすぐに駆け寄ってきた。
床に広がった体液に膝をつくことも構わず、俺のそばにしゃがみ込む。
「修也、ねえ! 大丈夫!?」
大丈夫、そう返事をしようとした。
けれど、声が出ない。
いつもの「きゅう」すら出てこなかった。
「修也?」
梓の手が俺に触れる。
何度も名前を呼びながら、動かなくなった身体を必死に揺する。
「ねえ、返事してよ。修也……!」
「…………」
視界が、少しずつ暗くなっていく。
梓の声も遠い。
身体からは今もじわじわと体液が染み出しているのに、どこも痛くなかった。
(……ああ)
なんとなく、分かった。
(なんだ……こうやって終わるのか……)
人間じゃなくなって。
声も出なくなって。
外にも出られなくなって。
それでも、なんだかんだ梓と過ごす日々は楽しかった。
(……はは、化け物ならこんなラストが……お似合い、か……?)
でも。
(まだ、生きたかったな……)
「修也……っ」
梓の顔が見える。
泣いていた。
ぼろぼろと涙を零しながら、俺の名前を呼んでいる。
(……化け物でも)
こんな身体でも。
(……外に出られなくても……)
それでもよかった。
(まだ、梓と……一緒にいたかったのに……)
「やだ……修也、寝ないで……!」
梓の手が、俺に触れている。
その温かさも、もう分からない。
ただ、泣いていることだけは見えた。
「大丈夫だから……!」
(……さいあくだぁ……)
「私がなんとかするから……!」
視界が、さらに暗くなる。
(……最後に見るのが……泣いてる梓なんて……)
嫌だな。
笑っててほしかったのに。
(……さいあく、だ……)
「絶対……絶対、なんとかするから……!」
梓の声を最後に。
何も、分からなくなった。
◇◇◇
──目が覚めた。
「…………」
いや。
(……目、覚めた?)
自分でもよく分からなかった。
最後に覚えているのは、泣いている梓の顔だ。何度も刃物を突き立てられ、身体が動かなくなり、声も出せなくなって。
それから、何も分からなくなった。
(俺……死んだんじゃなかったのか?)
少なくとも今、意識はある。
ぼんやりとした視界の向こうには白い天井が見えた。その手前を、小さな泡がいくつも上っていく。
(……泡?)
何度か瞬きをする。
こぽこぽと、小さな泡が視界の下から上へと流れていく。
(…………)
そこでようやく、自分が何かの液体に浸かっていることに気づいた。
(なんで?)
息苦しくはない。
そもそも、この身体になってから呼吸をしているのかどうかすら怪しい。それでも、目が覚めたら謎の液体の中という状況には、さすがに困惑する。
(ここ、どこだ?)
とりあえず触手を動かそうとする。
動かない。
(……あれ?)
もう一度、力を込めてみる。
やっぱり動かなかった。
あのときと同じだ。
何度刺されても痛みはなかったのに、一本、また一本と動かなくなっていった触手。
(まだ治ってない……ってことか?)
そこまで考えて、ふと気づく。
(治ってない?)
じゃあ。
(俺、生きてるの?)
分からない。
死んだと思ったのに意識がある。
身体は動かないのに、こうして物を見ることも考えることもできている。
(……死後の世界って感じでもないよな)
少なくとも、俺が想像していたものとはだいぶ違う。
もう一度、目だけを動かして周囲を見渡す。
どうやら俺が入っているのは、大きな透明の容器らしい。視界の端には何本もの管が伸び、よく分からない機械へと繋がっている。
そこから一定の間隔で、こぽり、こぽりと泡が上っていた。
(……何これ)
見覚えがある。
いや、現実で見たことがあるわけじゃない。
ゲームとか。
映画とか。
そういうところでなら。
(培養槽……?)
途端に嫌な予感がした。
(待って待って。なんで俺、培養されてんの?)
何があった。
あれからどれくらい経った。
ここはどこだ。
そして何より。
(梓は?)
最後に見た、泣いている梓の顔が浮かぶ。
(梓は……どうなった?)
無事なのか。
あの男は逃げたはずだ。
だったら梓は──。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
「これがうまくいかなかったから……次は、この触媒を使って……濃度をもう少し……」
人影だった。
少し離れたところで、誰かが小さく何かを呟きながら机に向かっている。
(……誰?)
白衣を着ていた。
こちらに背を向け、何かを書いているらしい。髪は適当にひとつにまとめられ、少し俯いた背中には疲れが滲んでいる。
どこかで見たことがある。
というより。
(……まさか)
声を出そうとするが出ない。
(くそっ)
なら、身体を動かすしかない。
触手に力を込める。
(動け……!)
ぴく。
(よし、動いた!)
ほんの僅かに触手の先が動いた、その直後。
ピッ。
近くに置かれていた機械から、電子音が鳴った。
「…………?」
白衣の人物が顔を上げる。
もう一度、触手に力を込める。
ぴく。
ピッ、ピッ。
「…………!」
白衣の人物が勢いよく振り返った。
(……梓)
間違えるはずがなかった。
でも。
(…………梓?)
髪が伸びている。
頬は以前より痩せ、目の下には濃い隈ができていた。
俺の知っている梓と同じ顔なのに、最後に見たときとは明らかに違う。
「…………」
梓も俺を見たまま、固まっている。
やがて、手にしていたペンが床に落ちた。
「修也……?」
椅子が大きな音を立てて倒れる。
梓はそれにも構わず駆け寄ってくると、俺と彼女を隔てている透明な壁に両手をついた。
「……しゅう、や……しゅうやっ……修也、修也!!」
(そうだよ。俺だよ。……お前こそ、どうしたんだよそんな顔で)
返事をしたいのに、やっぱり声は出ない。
代わりに、さっき動いた触手へもう一度力を込める。
ぴく。
「…………!」
それだけで、梓の顔がくしゃりと歪んだ。
「よかった……。よかったよぉ……!」
透明な壁に額をつけ、梓が泣きながら笑う。
「よかったぁ……」
(……また泣いてる)
最後に見たときも泣いていた。
でも、今度は笑っている。
(……よかった)
その顔を見て、ようやく少しだけ安心した。
梓は無事だった。
「やっと……」
(ん?)
「やっと、目を覚ましてくれた……」
(……やっと?)
その言葉に引っかかる。
改めて梓を見る。
伸びた髪。
痩せた頬。
目の下の隈。
そして。
(……なんで白衣?)
梓、研究者じゃないよな?
俺の疑問なんて知らず、梓は透明な壁越しに俺へ触れるように手のひらを重ねた。
「もう少しだからね」
(…………何が?)
「絶対に元に戻してあげるから」
(……え?)
「大丈夫だよ、修也。……私が、助けてあげる」
そのとき、部屋の奥からカチカチと奇妙な音が鳴り響いた。
エンド7:謎の研究室




