「音」がした
――「音」がするのだと、王宮で誰かが言った。
ここは南王国アウストラリス。海の港を玄関とし、陸地の王都を居間とする……大陸の南部で栄える大国の中核ともいえる場所。
私はそんな王国に仕える一介の侍女であるわけだが……最近、私の職場である王宮におかしな噂が広まっていた。まあ、どこの国でもどこの街でも少なからず存在する与太話なのだが。
皆が寝静まる王宮の夜――何処からともなく「音」がするというのだ。
見回りの兵や、夜番の侍女からそのような話は流れてきている……別に珍しくもなんともない。私が王宮勤めになる前、実家暮らしの時でも似たような話はあった。広い夜の屋敷というものは昼間と印象がまるで違く、うすら寒いものを感じてしまう。いる筈のない人影を見たり、聴こえない筈の音を耳が拾ったりと、何処にでもある話なのだ。
だから私も、特に気にしていなかった。
ああ、王宮でもそのような話は出てくるのね、と他人事のように思うだけ。
……そう、思うだけだったのだが……今回は少しばかり事情が異なる。
私個人はどうとも思っていない。熟練の兵士や、老練な将軍も「よくある話だ」と笑い飛ばす噂。長く国に仕えている者こそ、こんな怪談は鼻で笑って気にも留めない。
しかし――しかしだ。
私が仕える、まだ幼い五歳児である第二王女殿下にとっては、空前絶後の大事件。
瞳に涙を湛えて、私を上目遣いで見つめてくるのであった。
「まるがりーた、まるがりーたぁ! わたし、そんなこわい話聞いちゃったの! ひとりで眠れないよ、まるがりーたぁ!!」
「……大丈夫ですよ殿下。単なる噂です。王宮に限らず、怪談の類は時折生じるのです」
放っておけば今すぐにでも泣き出しそうな顔の姫様を、私は優しくあやす。
小さなおててが私の侍女服の裾を力一杯握り締めていて、痕になりそう。まったくもう、可愛くなければ許されない所業だ。本当に困った主である。
膝を曲げ、涙目の姫様と視線を合わせながら安心させるように頭をそっと撫でる。
本来ならば無礼な振る舞いだけれど、今は姫の自室で二人きり。泣きそうな主を落ち着かせるためには、儀礼よりも大事な対応というものがある。
――幼子を安心させるには、温もりと触れ合いが必要だ。今だけは無礼者でいい。大切な主が泣き出さないよう、ただの噂話だと教えてあげないと。
……しかし、涙こそ引っ込んだものの、姫様の瞳にはまだ疑いの色が。
「でもでも、まるがりーたぁ……火の無い所に煙はたたないって言うよ? オバケさんが王宮の中に出たのかも知れないよ?」
「ご安心を、あり得ません。ここを何処だと思っているのですか? 王族が住まう最重要建築物です。神官や魔導師の手による複合結界が張られており、低級の亡霊など近寄ることすらできません。必然的に、オバケは出ません」
そんな疑いを、丁寧に否定していく。
ここは王国の中心地。敬われるべき方々が住まう王宮の中。当然のことながら、警備体制はこれでもかと言わんばかりの盤石ぶり。宮廷魔導師による魔法障壁、高位神官による神聖結界、さらには海神様の加護を宿した聖水を定期的に撒いており……オバケなんて出現する隙間がないのだ。
むしろ、この護りを抜けて出てくるオバケなら、それはもうオバケと呼べない……英雄が討伐するべき大悪霊である。お伽噺に描かれている不死王とかその領域。もしも出現していたら、噂話で済んでいない。とっくの昔に王宮は、死山血河の戦場だ。
だからオバケはいません。大丈夫です――と伝えたのだが、幼い姫様はまだ納得できない御様子。
「うう~……ならなら、魔物さんは? わたしとか、おねーさまとか、おとーさまを狙って魔物が襲いかかってきたのかもしれないよ?」
「ますますあり得ません。仮にこの王宮に誰にも気付かれず、夜な夜な忍び込むことが出来る魔物が居たとして……それならばとっくに被害が出ているでしょう。噂話で済んでいることが何よりの証拠です」
これはオバケ以上にあり得ない。
この王宮の警備を務めている兵や騎士が、一体どれだけの手練れなことか。
人を小枝のように薙ぎ倒すオークやトロルを、一太刀で斬り伏せるような凄腕が揃っている。気配を読み取る技術も優れており、今まで何度も賊や暗殺者を始末してきた。彼らの警備を掻い潜って王宮に潜入し……「音」だけ立てるという事態が、まずあり得ない。
よってこの疑いも否定――もっとも、万が一を考えて王族の警備は増やしてあるが。
「えっとじゃあ……魔法のぼーそー! 国の錬金術師さんや魔導師さんが、夜な夜な研究でもしていて、その物音がつたわって――」
「夜間に王宮で、無許可の魔法研究などしたら首が飛びます。厳しい審査の下、宮廷勤めが許されている術師がそんな馬鹿な真似をする筈が無いでしょう……あと単純に、彼らの研究棟は王宮の外ですし、魔法の発動があればすぐに察知されます」
宮廷勤めが許される魔導師や錬金術師は、単に腕が良いだけでは務まらない。
礼節、道徳、知見……あらゆる面で「上澄み」の者だけが、王家のお膝元で働くことを許可される。研究場所も厳格に定められており、指定された箇所以外での魔導研究は厳罰――物理的にも首が飛びかねない。
ゆえに、この疑いも否定――だが、幼い姫様はまだ納得できていないようで。
……いや、違うのか。単純に「怖い」のか。だからこうして幾つもの可能性を列挙し続けてしまい……でも姫様。こうなるといつまで経っても納得できない気がするのですが?
「ならね、ならね――まるがりーた、確認してきてっ!」
「……はい?」
「わたし知ってるよ? まるがりーたは強いんだって! 剣も魔法も、そんじょそこらの兵隊さんより凄い、ゴリラみたいな侍女だって話を聞いた事が――」
「どこの誰ですか? そのような戯けたことを抜かしたのは?」
「――ぴぃ」
私がやんわり聞き返すと、姫様は何故か潰れた小鳥みたいな声をあげた。
どうしたのだろう? オバケ以上に恐ろしいモノを見たような顔で、私を見上げている。
うーん……よく分からないけれど、余程姫様は今回の怪談を怖がっているようだ。このままでは夜中にトイレに行けなくなって、粗相をしてしまう可能性が出てくる。それはとても宜しくない。姫様の尊厳や、朝の一仕事的な意味で。
仕方ない。姫様を安心させるため、一肌脱ぐとしましょうか。
確かに姫様の言う通り、私は剣も魔法も「それなり以上」に修めた侍女ですしね。
「……はぁ。分かりました。では不肖、このマルガリータが噂の真実を確かめに行きます」
「う、うん! ろーほーを期待してるからね、まるがりーた!!」
そうして、第二王女付き侍女である私は夜番の巡回に赴くことになるのだった。
ちなみに、あんなに一人で眠れないとのたまっていた小さな姫様は、私が夜番の日に盛大に爆睡していた。今頃、幸せそうに涎垂らしながら夢の世界だ。
――本当に、困った主である。
◇◇◇
深夜の王宮の廊下――確かにそこは、昼間とはまるで異なる景色であった。
灯りは少ない。廊下を暗闇にしない程度の魔導灯で照らされて、世界を黒に染めずに済んでいる……分かっているとも。魔導灯の常時使用はコストが馬鹿にならないのだから、点々と灯っているだけで贅沢だ。夜を昼に変えるほどの魔石消費は費用が洒落にならない。少量に抑えるのが当然。
そも、本来ならば見回りの兵や、私のような夜番だけの魔導灯使用が普通。この小さなカンテラサイズの魔導灯で事足りるのだから。
廊下を歩きつつ、時折要所に配置されている兵と会釈を交わし合う。互いに身分を示す首飾りを下げており、一目で所属が判別できる。それに今足元を照らしている魔導灯も、夜番時に貸し出される宮廷仕様だ。光の色と照らし方に癖があり、おいそれと真似は出来ない魔導具。この明かりが近づいてきた時点で、関係者なのがすぐに解る。
コツリコツリと、歩く音だけが耳に届く。
……視覚だけの問題ではない。肌に触れる空気や遠くの風切り音……気温そのものが闇に冷やされたようにうすら寒く感じる。言ってみればここは職場なのに、夜に歩くだけで認識するモノが総て別物のように。
……気のせいだ。錯覚だとも。
王女の傍仕えとして、私は護衛兵に負けない修練を積んでいる。敵意を感じ取る訓練や、実戦を想定した組打ちも、何度もこの身に刻んできた。
不意打ち、奇襲、暗所からの攻撃……あらゆる状況を想定して、今も神経を尖らせている。
魔法の訓練も同様だ。魔力感知――この世界に生きるあらゆる存在の波動。子犬や小鳥だって、微弱な魔力は持っている。この王宮内に入り込むことは余程の例外が無い限りありえない。それこそ瀕死の幼体が、王宮の裏庭あたりに紛れ込むことなら……まあ、もしかしたらあり得るかもしれないけれど。逆を言えば、それくらい稀有な状況でもない限り、この王宮の敷地内に不審者を見逃すことはない。
では亡霊の類? ……それこそあり得ない。
尊き身分の王族が住まうこの場所は、常に清められている。亡霊や怨霊が出現するのは、古戦場跡や手入れのされていない廃墟やダンジョン……そういった僻地にだけ発生するものだ。これは王国だけではなく、この世界で昔から知られていること。常識と言っていい。
そう。だからあり得ないのだ。
暗闇が怖いのは解る。視界が制限されると、突然の奇襲への対処が遅れる可能性が高まるし、侍女として護衛として当然恐怖心は生まれる。
そもそも怪談の類は、子供を夜間に外へ出さないようにするため、あるいは危険な場所へ近づけさせないようにするための建前にすぎない。兵や護衛に気を引き締めさせる意味合いだってあるだろう。物音ひとつ聞き逃すな、といった教訓だ。本当にオバケが居るわけでもない。
今回の噂もその類。
ちょうど直近、隣国の貴賓を迎え入れたばかり。改めて夜間の警備に力を入れろと……遠回しの発破だろう。古くからの兵はそうやって、新人を脅かし気を抜き過ぎないようにする。
解っている。全部承知の上だ。
今日の夜番だって何も起きない。姫様のたっての願いだから、夜の巡回を願い出ただけで……間違いなく徒労に終わるだろう。そして爆睡かました姫様に「何もありませんでしたよ」と報告して、涎を拭いてあげるのが私の役目だ。
魔導灯で足元を照らしながら、王宮を歩く。
誰もいない。誰も見えない。王宮の外には今も警備兵が出入り口を守っており、鼠一匹忍び込むことは不可能だろう。私の魔力感知にも異常は無いし、今宵の夜番は平穏無事に――
――「音」がした。
「…………」
無言。足を止めて、息も止める。
一度だけ、胸が高鳴ったのは気のせいだろうか――いや、そもそも……今のは、何だ?
何かが、聴こえた。何かが、耳に入り込んだ。
聞こえる筈のない「音」を、私は何故認識している――?
……訓練通り、音の発生源に意識を向ける。
確認しろ。錯覚――幻聴の可能性だって大いにある。風の音や、単なる物音が間隙を縫うように異音として聞き届けてしまっただけかもしれない。
……物音? こんな深夜に? 決まった人員しか巡回していない夜に?
――そもそも今の「音」は――何の「音」だ?
……足を進める。慎重に、一歩ずつ。
幻聴でないのなら、方角はこの先だ。廊下の向こう……あちらには何があった? 把握している筈の見取り図が、何故だかすぐに浮かんでこない。手に汗がじんわりと浮かんでおり、胸の鼓動が早鐘のように鳴っている。
護身用の武器は、短剣が一振り。すぐにでも抜けるよう、腰元の柄をしっかりと握り込む。浮かんでいた手汗が染み込み、握り手の感触が気持ち悪い。
魔力を研ぎ澄ます。まだ本格的な戦闘態勢には入らない。私の気のせいの可能性があるし――ああ、そもそも気配が無い。この先から「人の気配」は一切感じ取れない。
なら、気のせいだ。魔力も無く、気配も無く、亡霊が出現する余地も無く……ならば錯覚以外にあり得ない。魔でも人でも霊でもないと、現時点で判別できているのだから。
――それ以外に「音」が発生する要因なんて、何も思いつかないのだから。
「……ここは」
そして「音」がしたであろう場所を、私は見る。
ぽっかりと穴が開いたような、地下への出入り口。いわゆる地下室への階段だ。昼間は何気なく通り過ぎるだけの場所が、深夜に見ると底無しの奈落のような印象を抱かせてくる。
真っ暗な洞――魔導灯で照らしても、階段の下までは照らしきれない。
「…………」
意を決して、その階段を下りる。
一段。そしてまた一段。踏みしめる度に、硬質な石造りの足場が妙に響く。
この下に何があるのか知っている。この先は一種の倉庫だ。値打ち物はなく、消耗品の類が置かれた地下倉庫。布、椅子、机、梯子……宝物の類は一切置いていない。賊が侵入しても目を惹くような物は皆無で、割れ物や腐り物も無い。階段の先の地下は、そんな荷物置き場。
だがもしも……もしも私の聴覚に間違いがなく、聴こえた「音」が幻聴でなかったのなら……この地下が発生源だ。
……侵入者? 他国の間者? それとも姫様が言うような魔物や亡霊の類?
……馬鹿な。あり得ない。あってはならないのだそんなこと。
だって――私はこの先に、何の気配も感じていない。
「風読」
風の魔法術式を編み、索敵の魔術を展開する。
匂いを探り、足音を拾い、会話を逃さない――風属性の探知魔法。
何故、まだ年若い十五歳の私が姫様付きの侍女に選ばれたのか……理由のひとつとして、私は並みの魔導師より術の構成が「上手い」。こうやって風の流れを読み取って、隠れ潜む気配を掴み取る術に長けている。比喩抜きで、鼠一匹たりとも私の魔術は見逃さない。
……だからこそ、断言できる。
この地下室には誰も居ない。「何も」居ない。
ここは無人――人っ子一人存在しない、空っぽの部屋。
…………空っぽ?
「……なるほど。真実は実にくだらない」
妙に広々としている地下室を見渡して……溜息と共に、肩を撫でおろしてしまった。
部屋の中の備品が大量に減っている。無論、盗まれたわけじゃない。盗むような高値の物は最初から置いていないし……私自身、この閑散とした部屋になった原因を知っている。
ようは――隣国の貴賓を迎え入れる際に、地下室の中身を大量に表に出したのだ。
なにしろ貴賓は一人ではない。訪れる貴族一人につき、御付きの従者も複数。当然、調度品が大量に必要になり……この地下室から多く運ばれた。私も運搬整理を手伝った記憶がある。つまり移動させた調度品の数々が、まだ全て仕舞われていない――だから地下室に「空洞」が多く目立つことになる。
するとどうなるか?
「――ただの反響ですか」
……今まで響かなかった音が、広々とした室内に反響する。音を吸収するだけの荷物が無い。ちょっとした物音でも、空白が目立つ地下に木霊して……それが王宮の廊下まで届いた、ただそれだけのなんて事のない真実だ。
……力が抜ける。
まあ、でも怪談の正体とはこんなものだろう。
あっけなくて、拍子抜けで、何だそんなことか……そう言って笑い飛ばすものばかり。
だから私も肩を竦めて地下室を後にする。
階段を一段一段登りながら。
――足早に、一刻も去りたいと思いつつ。
――すぐにでも、この地下室の閉鎖を申請するべきだと考えつつ。
……ああ、そうだ。確かに音が反響しやすい状態になっている。この地下室で物音がしたら、階段上まで音が届くのは間違いないだろう。実際、その音を勘違いして怯えた者もいる筈だ。
だけど――私は「音」がしたから地下室に降りたのだ。
降りたから「音」が聴こえた訳ではない。
誰も居ない筈の地下室から、先に「音」が発生したから地下に向かったのだ。
反響したであろうその「音」を確かめるために。
では――誰も居ない地下室で「何が」反響したのだろうか?
人でもなく、魔物でもなく、魔法でも亡霊でもないのならば。
何も存在しない筈の地下室から――「何」の「音」が私の耳に届いたのか?
――私が聴いた「音」は一体何なのか。
――足音でも物音でも話し声でもない、あの「音」の正体は。
――脳が理解を拒む「音」としてでしか認識できない異音の正体は。
……何も解らないから、反響ということにして地下から抜け出す。
心臓が破裂しそうな音を刻む。背後の階段からは、未だに何の気配も感じ取れない。
階段の先の地下室には誰も居ない――何も居ない筈だ。私は幻聴を聞いただけなのだ。
きっと、私は皆に笑われる。大人びて見えるだけで、やっぱりまだ子供なのだと揶揄われることになるだろう。無駄に騒がせた年若い侍女として注意されるかもしれない。
けれど、そちらの方が良い。そうであって欲しいと願う。
どうかお願いだ。私の感じたこの違和感が――どうか錯覚であって欲しい。
頬や背中を伝う冷や汗を無視しながら、私はこの場を立ち去る。
今日の出来事は、真っ暗な王宮の景色に怯えた私の幻想……そう自分に言い聞かせて。
――幻聴に違いない「音」を、今も背中に感じながら。




