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第1章 朝の薄光

佐倉梨花は、いつもの時間にいつもの自転車に跨がって病院の裏手の駐輪場へと向かった。春の朝はまだ、都会のざわめきが完全に目を覚ましていない薄い光に包まれている。受付のカウンター越しに差し込むその光は、患者の表情を柔らかく見せるのにちょうど良かった。梨花はその光を好んでいた。光は、物事を許すように見えたからだ。


受付事務としての仕事は単調と言えば単調だ。保険証の確認、診察券の発行、電話の取り次ぎ。けれども梨花にとっては、ここが世界と彼女自身をつなげる場所だった。忙しさの中で人の声を聞き、短いやり取りの中で誰かの一日を少しだけ良くしてあげられる。それが小さな安心を生んだ。


机の下、こぢんまりと丸まっているみけまるが、ふと顔を上げた。三色の毛並みは朝の光を淡く受けて光り、藍色の目が熱心に梨花を見つめる。みけまるは人語を話さないが、表情としぐさで意思を伝えることを知っている。今朝は、少しだけ尾を震わせていた。それは「今日は何かある」の合図のようにも見えた。


「おはよう、みけまる。」梨花は声を潜めるように言った。受付はいつも通りに開き、患者がぽつりぽつりとやってくる。高齢の男性が薬の相談に来て、若い母親が熱を出した赤ん坊を抱いてやって来る。梨花はいつも通りに書類に目を通し、にこやかに応対した。だが、彼女の内側には、小さなざわつきがあった。心配性の性格は、今日もその内側をくすぐるものを探していた。


一通の封筒が受付の端に置かれた瞬間、みけまるがそっと前脚でそれを触れた。封筒は古びていて、角が擦れている。表には差出人も宛名もなかった。ただ、薄い紙の中に何かが潜んでいる気配がする。患者ではない誰かが、ふとした拍子に置き忘れたのだろうか。梨花は手袋越しにそれを拾うと、表面に触れた瞬間に一瞬だけ視界がざわついた。風か、光の反射か——彼女の身体はそう反応することがある。見える人の兆候は、普段は希にしか顔を出さない。しかし、条件が揃うと、静かに境界が薄れる。


梨花は深呼吸をし、封筒を開けた。中には一枚の写真と、短い手書きのメモが入っていた。写真は色褪せていて、三人家族のように見える人物が写っている。父、母、子。どこか懐かしい笑顔。手書きの文字は、細い筆跡で「ずっと、待っている」とだけ書かれていた。簡潔で、それでいて心をかき乱す言葉だった。


その夜、病院の灯りが落ちる頃、梨花は習慣のようにカウンターの周りを片付けていた。日中は忙しさのせいで気付かなかったが、夜の静けさは感覚を鋭くする。みけまるは受付の窓辺で丸くなっていたが、彼もまた封筒を意識している様子だった。彼の小さな身体がいびき混じりに震えるたび、梨花の心は妙に落ち着いた。みけまるの存在は、彼女にとって何ものにも代え難い安心だった。


夜は更け、病院は消灯された。外では時折、遠くで車のエンジンがかかる音がするだけで、人の気配は希薄だった。梨花は封筒と写真を机の引き出しにしまい、こっそりと自分の小さなランプをつけた。ランプの暖かい光が、写真の表情を柔らかく浮かび上がらせる。リンとした空気の中で、梨花は封筒の中のメモをもう一度読む。短い言葉が、やけに重く胸に沈む。


「見える」——という言葉は、世間では語りにくいものだ。梨花はこれまで周囲には本当のことを話したことがなかった。能力と言えるほどのものは、日常で困ることはほとんどなかったし、それを口に出せば奇異な目で見られるのが怖かった。しかし、封筒に触れたあの瞬間、視界の端に懐かしい匂いや、古い廊下の冷たい感触が差し込んだ。まるで記憶の薄絵が重なったかのように——短く、断片的に。


条件が揃うと能力は動く。梨花はそれを「薄暗い時間と、何かの残り香」と呼んでいた。夜明け前や、夕暮れ時。あるいは古い写真、忘れられた日用品。触媒は小さく、ささやかだった。普段は眠っているその力は、彼女にそっと死者の残滓を垣間見せる。残滓は必ずしも完全な姿を示すわけではない。断片、匂い、音、そして最も厄介なのは感情だった。愛しい思い出も、未練も、怒りも——それらが梨花の胸に直接打ち込まれることがある。


その夜、引き出しの中で写真が震えた。梨花は思わず写真を取り出すと、みけまるを膝に乗せた。彼の耳がぴくりと動き、鼻先が写真に近づいた。指先が写真の縁に触れると、視界は淡い霧に包まれた。断片が浮かび上がる——古いキッチンのタイル、誰かの手のぬくもり、淡い笑い声。短い、しかし鮮烈な断片。そこにいたのは、白髪交じりの中年男性の影と、小柄な女性、そしてまだ幼い子ども。彼らの笑いは、切なさをまとって遠ざかっていった。


梨花は目を閉じ、感情の波を受け止めた。悲しみと温もりが混じり合う、その感覚は彼女の子供時代を思い出させる——なくしたものを求める気持ち。能力はいつもそうだ。触れた瞬間に過去がこちらに押し寄せ、そしてまた静かに引いていく。梨花はその波に溺れないように、呼吸を整えた。


みけまるが静かに喉を鳴らす。彼の存在が、梨花の感覚を安定させる。猫の毛に触れる手の温かさは、彼女にとって現実の基準だ。妖精猫という言葉に、人々はただの迷信だと鼻で笑うかもしれない。だが、みけまるは確かに違った。彼は小さな奇跡をいくつも見せてくれた——迷子の鍵を探し当てたり、失せ物の場所を示唆したり、時には人の気持ちをふっと和らげたりする。言葉は持たないが、その行為は確かに強い意志を含んでいた。


その夜、封筒の写真の断片はやがて消えていった。残ったのは、手書きの「ずっと、待っている」という言葉だけだった。梨花はそれを胸ポケットにしまい、明日の業務に備えて休もうとした。しかし寝床に横たわると、頭の中にはその笑い声がぐるぐると回る。誰がこの写真を置いたのだろうか。なぜ病院の受付の端に、届け物のように放置されていたのか。不安が、いつものように小さな虫のように胸の中で這い回る。


翌朝も、光は穏やかに差し込んでいた。だが梨花の心には、昨夜の残滓が残っていた。人々の表情を見ていると、どうしても写真の家族と当てはめてしまう。診察に来た母親の目の端に、幼い子の笑いが重なり、外来で待つ年配の男性の手に、見覚えのある癖がある。能力は意図せず働き、彼女に断片を見せる。梨花はそれをなるべく素早く整理し、現実に戻るよう自分に言い聞かせる。


その日の夕方、受付に一人の女性が立ち寄った。年は三十代後半。顔には疲れが色濃く出ていた。手には、梨花が前夜に見たのとよく似た写真を抱えている。女性の目は、どこか遠くを探しているようで、しかし不意に受付越しに梨花に視線が合った。彼女は写真を差し出し、言葉少なに訊ねた。


「——これ、見ませんでしたか?」


梨花は一瞬、胸が高鳴った。写真の裏に書かれた言葉と封筒。全てが繋がる気がした。しかし梨花は穏やかに笑い、にこやかに応対した。心配性の性格は、今は慎重さとして働いた。誰にも話せないものを抱え、しかし誰かの痛みに触れることを恐れないでいた。


「すみません、今朝こちらで見つけたんです。もしよかったら、詳しくお話を伺ってもいいですか?」


女性の目に、ほんの少し希望の色が差した。写真を抱えた彼女の手は震えていた。梨花はその場で、ひとつの小さな決意を固めた。みけまるをそっと抱き上げ、彼の温もりを確かめる。能力はまだ眠っているかもしれない。しかし、今この瞬間が何かの始まりであることだけは、梨花の胸に確かに宿っていた。


みけまるが静かに喉を鳴らす。猫の呼吸に合わせて、梨花の心も落ち着いていく。彼女は受付の小さなランプの光の下で、女性の話をじっと聞き始めた。物語の端緒が、静かに紡がれていく。


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