第九話 写るもの、写らないもの
「おはようございます」
「おはようございます。今日はよく晴れましたね」
「そうですね」
「最近の体調はいかがですか?」
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【同期は知らない俺の秘密】
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一ヶ月に一度の定期検診。といっても、病気のためではない。今の体が、今の自分として問題なく動いているかを確かめるためのものだ。まずは心療内科、つまり精神科での受診だ。体調はどうか、という医師の問いに、問題ないと淡々と答える。その質問を皮切りに、いつものように診察が始まった。
「仕事は順調ですか?」
「忙しいですが、特に問題はありません」
「眠れています?」
「はい」
「気分の落ち込みや、不安は?」
「特にありません」
「性別に関する違和感は?」
「今は落ち着いています」
「では、引き続き今のペースでいきましょう」
淡々とした診察。深く入り込まない、適度な距離感。それでよかった。
「ありがとうございました」
荷物を持って、診察室を出る。定期検診はこれで終わりではない。次は内分泌内科へ向かう。その前に、大きく息を吐いて、肺にある空気を入れ替えた。先に採血だ。
「ご気分悪くなられたらおっしゃってくださいねー」
「はい」
いつものように腕を捲り、いつものようにゴムを巻かれ、いつものように注射器を刺される。抜かれる血が赤黒い。無意識のうちに、それから目を逸らした。
「では待合室でお待ちくださいねー」
採血が終わると、そう言われ待合室に出される。大人しく、待合室で座って待つ。しばらくすると、診察室の中から看護師さんが出てきた。
「高瀬さーん、高瀬楓さーん」
「はい」
名前を呼ばれて診察室に入る。そこにドカッと座る医師が、営業スマイルを俺に向けた。
「高瀬さん、体調はお変わりないですか?」
「はい」
近くの荷物カゴに荷物を置き、俺も椅子に座る。
「前回の注射後、体調はどうでした?」
「問題なかったです」
「注射部位の痛みや腫れはありましたか?」
「いえ」
「ニキビや皮脂の増加はどうですか?」
「特にないです」
「気分の波を感じることはありませんか?」
「ありません」
「では、いつも通り注射していきますね」
「はい」
そう言われ、今度は処置室へ移動する。ベッドに横になり、少しズボンを下げる。男性ホルモンを補充する治療、ホルモン注射を行うためだ。筋肉注射のため、何度受けてもこれには少し身構える。臀部に重い痛み。なにかを無理やり入れられているような不快感。注射後には鈍い違和感が俺を襲う。歩くだけで少し張る感覚も好きではなかった。
受付前でまた名前を呼ばれるまで待つ。疲れた。でも、これがなければ自分は成り立たない。悔しいがこれが現実だ。
「高瀬さーん」
「はい」
「まずはお会計が四千五百円ですね」
「はい」
五千円札を出す。これだけの金額で自分が保てるのであれば、安いものだ。
「はい、五百円のお返しです。次も一ヶ月後ですね」
毎月のことだ。特別でも、異常でもない。これが俺の普通だ。
「同じ時期にお願いします」
「はい。じゃあ来月、六月四日で予約取っておきます。お大事に」
病院を出る。土曜の午後、外は眩しいほどに晴れていた。
***
第九話【 写るもの、写らないもの 】
***
「高瀬……」
「ん、なんだ篠原か。おはよ」
「お前……」
「……なんだよ」
月曜の朝。最終面接を明後日、明々後日に控える今日、俺たちはいつものように準備を始めていた。そんなとき、篠原がのそのそと準備をしていた俺のデスクにやってきた。
「お前どこか体が悪いのか!もしかしてまだ先週の熱が引いてないのか!!」
「はぁ?」
なにを言い出すのかと思えば、篠原はそんなことを叫んだ。心当たりがまったくない。わけじゃない。そう、病院に行っていた一昨日、どの瞬間かを見られたのだろう。マズい、どうにかして誤魔化さなければ。
「……あ、いや、……そうだ、まだ少しな。でももう大丈夫だから」
「お前ウソをつくなぁ!その間!俺には分かるんだよ!なにかを隠してるだろ、なんだ!もっと重い病気かなにかか!俺には話せないことなのかぁッ!」
うるさい。会社内で出す声量じゃない。
「篠原、うるさいよ」
俺がその声量を注意しようと口を開いたとき、俺よりも早くだれかが篠原にそう注意をした。声のしたほうを見る。
「島さん?!」
そこには、うしろに女性ふたりを連れた島さんがいた。島さんは俺たちが新人だった頃の篠原の厳しい教育係だった人だ。篠原は島さんの顔を見ると、また大きな声で島さんの名前を叫んだ。うるさい。
「うるさいって言ってるでしょ」
「サーセンッ!!」
うるさい。部活動の挨拶か。それより、広報部が人事部になんの用だろう。
『高瀬さ〜ん!』
島さんのうしろにいたふたりの女性。そのふたりが元気な声を出してこちらにやってきた。
「高瀬さん!パンフレットの撮影、ご協力お願いします!」
「えっ?」
パンフレットの撮影。いきなり言われたその言葉をリピートする。時差でその言葉の意味を処理したのち、ふたりのうちのひとりがカメラを持っていることに気付く。
「えっ、撮影……いや、俺じゃなくてもっとほかにいい人が」
「お願いします!」
「高瀬さんにしか出せない雰囲気の写真をぜひ!」
言葉を結ぶ前に押し切ろうとするそのふたりに圧倒される。だがここで押し切られては苦手な写真撮影をされるうえに、それが会社の顔としてパンフレットに載ることになる。それは阻止せねば。
「写真とかはあんまり……」
「みんな断っちゃって。高瀬さんの感じ、すごく親しみやすいからピッタリだと思うんですよ!」
困っていると、後方でニヤニヤと気持ち悪い顔をしながら自分を指差す篠原がいた。コイツは写真を撮られたいらしい。囮に使うしかない。
「いや、俺じゃなくて篠原とか……あ、ほら、月影さんとか桜田さんとかだと、華があるし広報部的にもありがたいんじゃ……」
「一年目のおふたりには、べつのコーナーで撮影にご協力いただくので問題ナシです!」
あっけなく散っていった。まさか月影さんと桜田さんの案も蹴られるとは。
「お願いします〜!後生ですからぁ!」
両手を合わせて頼み込むふたりを見て、もう諦めるしかないのかと大きな息を吐いた。
「こんなところで後生を使わないでください……分かりました、引き受けますから」
「本当ですか!ありがとうございます〜!」
「神様仏様高瀬様!」
「ちょっ……や、やめて……」
視線がひどく痛く刺さる。ついさっきの選択に対して、後悔が止まらない。
***
パンフレット用のインタビューは、驚くほど無難に進んだ。
一日の仕事の流れから、仕事内容、人事としての立場。できるだけ分かりやすく、知らない人に丁寧に教えるように。
採用への想い、やりがい、印象に残っている瞬間、大切にしていること。放った言葉は俺の一部だが、すべてではない。必要な分だけ切り取った、都合のいい言葉だった。
「それでは最後に、学生にメッセージをお願いします!」
少し考えて口に出す。回されているであろうカメラには目が向けられなかった。
「完璧である必要はありません。自分の考えを、自分の言葉で伝えてもらえればと思います」
最後に意識的に視線を上げ、質問してくれた広報部の彼女の目を見る。カメラより、人の目のほうが騙しやすい。無意識にそう視線が語ってしまった。
「ありがとうございました〜!」
「本当に助かりました!バッチリ仕上げちゃいますねっ!」
元気に言うふたりに軽く会釈して、インタビューを行った第二個人面談室を出る。
「はぁ……」
肺に溜まっていた空気を吐き出す。
嘘ではない。でも、本物の俺でもない。普段みんなに見せている「高瀬」や「高瀬さん」を演じるのと、いわゆる会社の顔として存在の知られる「人事部高瀬楓」を作り上げるのは、同じようでまったくちがう。
個人面談室で騒いでいるふたりが出てくる前に、とりあえず一息つける場所へ移動しようと給湯室へ向かった。
***
「高瀬」
「あ、はい」
給湯室で少し休んでいたとき、そこにやってきたのは橘さんだった。
「島からパンフレット撮影の件は聞いた。疲れただろう」
いいえ、大丈夫です。そう口に出さなければいけないのに、なぜか言葉が出なかった。一瞬出遅れた言葉が脳みそに叩き起こされ口を開こうとするが、そんな俺の様子を見た橘さんは俺が口を開く前に言った。
「少し、リフレッシュルームで休むといい」
しまった、マズい、やってしまった。
そんな言葉が頭を埋め尽くした。表情を変えないように意識しながら、今度こそ慎重に口を開く。
「いえ、大丈夫です。……すみません。仕事に戻ります」
気持ちを切り替えるために一度礼をして給湯室を出ようとする。橘さんの前を通るときに刺さる視線には気付かないフリをした。
「高瀬」
が、気付かないフリでは逃げきれなかった。上司に名前を呼ばれれば、返事をしてその目を見るほかない。
「……はい」
「十五分でいい。リフレッシュルームで休め」
「……分かりました」
上司命令だ。納得はできないが、逆らえるはずがない。俺はもう一度橘さんに頭を下げた。給湯室を出てリフレッシュルームに向かう。
***
提示されたその十五分が異様に長く感じる。リフレッシュルームに着いて、まだ十分も経っていなかった。机に顔を突っ伏し、深く息を吐く。意識的に呼吸をして走る心拍数を押さえつける。自分の呼吸音と心拍数だけが、耳に、頭に響く。その不快感が俺を襲った。
落ち着け、落ち着け。こんなことをしている時間はない。時間になれば仕事に戻る。落ち着け、残された五分強で、いつもの「高瀬」に戻るんだ。
「───。た……せ?高瀬」
ビクッと体が反応した。だれかに名前を呼ばれていたことに気付く。いつの間にこの部屋に入ってきたのか。声のするほうを見ると、そこに立っていたのは橘さんだった。
「……あ、はい」
反応が遅れた。立ち上がる。一瞬、目が回るような脳みそが安定しないような変な感覚に襲われた。一瞬で収まったそれには、なんとか気合いで乗り切る。これはバレていないはずだ。大丈夫、いつもの「高瀬」だ。
「顔色が悪い。座りなさい」
「いえ」
反論の言葉を述べる前に、橘さんに肩を押さえられる。伸ばしていた足がカクッと折れ、椅子に腰掛ける形になった。
「とりあえず水を飲め」
渡されたマグカップにある水を少しずつ飲む。不思議と、少しずつ、少しずつ気分が落ち着いてきた。呼吸も、いつの間にか楽になっている。
「落ち着いたか」
「……はい。すみま」
「謝るな。悪いことではない」
迷惑をかけてしまった。でも、謝る前に橘さんがそれを止める。息を大きく吸い込む。空気の通り道が、やけに狭く感じた。
「きっとお前は、帰れと言っても帰らないだろうし、帰らせても気が気でないだろう。だからここでもう少し休め。時間のことは気にしなくていい。業務のことも気にしなくていい。お前がいない間にも、篠原や月影が動いている。今は自分の体調を整えろ。余計なことは考えなくていい」
スッと耳に入る橘さんの言葉。決して感情的ではない事務的な言葉でも、俺を気遣っていることがよく分かった。
「……ありがとうございます」
精一杯の感謝を込めて頭を下げる。この人が俺の教育係で本当によかったと、この身で実感した。




