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第五話 ほどけた糸

「おはよ〜。あれ?高瀬まだ来てないの?」

「おはようございます。はい、まだみたいですね」


***


【同期は知らない俺の秘密】


***


ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。

「……さいッあくだ」

高瀬楓、二十六歳。

「お疲れ様です、高瀬です」

俺は今、久しぶりに。

「すみません、体調不良で今日は休みます」

風邪を引いた。

『分かった。……高瀬』

電話をかけたのは橘さんだ。なにが気になったのか、俺が電話を切ろうとする前に橘さんが俺の名前を呼んだ。

「あ、はい」

『随分な鼻声だが、熱か』

「あ、まぁ……はい、すみません。管理不足です」

『そうか。いや、いい。無理はするなよ、お大事に』

「はい、ありがとうございます。失礼します」

橘さんとのそんな会話を終わらせて電話を切り、スマホをベッドの上に置く。頭が割れるように痛い。鼻がつまって呼吸がしづらい。寒気で背中が震えるのに、額の奥だけがジンジンと熱い。布団から腕を出すと、指先が妙に冷たくて自分の感覚じゃないみたいだった。

「熱なんていつぶりだ……」

グルグルと回る視界を瞼で遮り、ボーッとそう呟いた。

「頭痛え……」

薬を飲みに立つ元気もない。というか、この家に解熱剤なんてあったか?病院に行くほどの気力もないし、気合いで治すしかないか。

口元まで毛布を被り、深く息を吐いた。疲労もあったのだろう。五分も経たずに意識が途切れた。


***


苦しいよりも、痛いと言ったほうが正しいだろう。飛び起きるように目が覚めた。

鼻がひどく詰まっているせいで眠っているあいだもずっと口を開けていたのだろう。乾ききった喉の奥が吸い込んだ空気に貼りつくように軋んでいる。肺にうまく空気が流れていかない。

「あ"……っ」

無機質なキッチンに走り、コップに水を注いで口に入れる。ジュワ、と音が鳴りそうなほど、乾いた口内に水分が一気に沁み渡った。

「え"……」

一度口に含んだ水を吐き出す。今度はゴクゴクとコップに注いだ水を飲み干した。

「はぁ……」

水を飲み干すと、今まで忘れていた体のだるさや頭の痛さを思い出す。ガンガンと殴られるような頭の痛みを抱えながらまた水をひとくち飲む。時刻はすでに十二時を回っていた。その時間に比例するように、少しお腹が空いているような気がした。

「飯……作るか……」

とりあえずと市販の頭痛薬を飲む。これで少しでもよくなってくれればいいんだが。

冷蔵庫を開ける。

「……」

言葉を失った。そこにはなにもなかった。米も炊かなければない。生米からお粥を作ることもできるが、時間がかかると聞いたことがある。今はそんなに体力にも余裕がない。なるべく楽に食べやすいものを作りたい。

「あ……うどん……」

今度は冷凍庫を開ける。そういえば冷凍うどんがあった。一玉取り出し、お湯を沸かす。調味料の棚の中から、冷凍うどんと一緒に買ったはずの粉末状のうどんのつゆを探す。

「あった……」

ちょうどいいサイズの器を探し、それに粉末を入れる。べつの鍋でまたお湯を沸かし、沸騰したらそれを器に入れて粉末が溶けるように混ぜた。

ピピピピッ、ピピピピッ、ビビ───。

タイマーを止め、うどんの麺を器に入れる。冷凍庫に眠っていた刻みネギをふりかけ、それっぽくする。うん、美味しそうだ。

「いただきます……」

椅子に座り、手を合わせた。アツアツのうどんを冷ましながらひとくち啜る。暖かくて美味しい。

ほとんどの時間眠っていたとはいえ、本日一食目だ。心なしか先ほどより頭も痛くない。頭痛薬が効いてきたのだろう。


***


食事を済ませ、シンクに器を置くとまた椅子に座った。また寝てもよかったのだが、今寝てしまうと夜に眠れなくなってしまいそうだったからだ。テレビでも見ようとリモコンでテレビをつける。暗い部屋の中でテレビだけが唯一明るく光を放っていた。

『ありがとうございましたー!では次のコーナーに行きましょう!次のコーナーは───』

テレビで元気に喋る女性アナウンサー。声は聞こえているのに、その声が言語として処理されない。知らない言語で喋られているかのように、その声がただの音として流れていく。不思議な感覚だった。

ふと、自分の体調が先ほどより少しよくなったことを思い出す。熱が下がったのだろうかと体温計で計測する。

ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。

少し待って鳴った体温計の数字を見る。朝は三十七度七分だった。

「三十七度七分……だいぶ下がったな」

体温計をケースに入れ、用意しておいた水をひとくち飲む。今のうちに汗でベタつく体をスッキリさせようと風呂に入るか迷ったが、残念ながらそこまでの元気はないように思えた。断念するか。

点けていたテレビの画面がひどく眩しく感じる。静かに目を閉じた。また、意識が少しずつ遠のいていく。


***


第五話【 ほどけた糸 】


***


「ケホ……ケホッ……ゴホッゴホッゴホッ……」

痛む喉だけでなく、頭にまで強い刺激を与える咳で目が覚めた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。肌寒い部屋の中、クーラーもつけずにうたた寝をしていたせいで体が冷えている。

乾いた喉を潤すため、氷の溶けたぬるい水を飲む。会社は休んでいるのに、休んでいる気がしない。

時刻は十七時。マズい、流石に寝過ぎた。夜眠れなくなってしまう。

冷えてしまった体を温め直すのと、汗臭くなった体を洗い流すためにシャワーを浴びようと決心する。重くだるい体を起こし、立ち上がって風呂場へ向かった。

それが間違いだったのかもしれない。

まだ肌寒いこの時期にシャワーだけで風呂を済まそうとしていたからか体は温まらないし、汗の匂いやベトベト感はなくなってスッキリしたが体は重くなる一方だ。普段は十五分もかからないシャワーに三十分も時間をかけてしまった。

体が重い。頭も喉も痛い。もちろん痛いのは頭や喉だけではない。体の節々が痛い。肩も背中も腰も、関節までも、全部が痛い。

机の上に置きっぱなしにしていた体温計を手に取る。あまりいい予感はしなかったが現状を知るために体温を計った。

ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。

「三十八度二分……」

やはり熱は上がっていた。これ以上寝ると流石に夜眠れなくなるが、ここは寝ておくしかないか。いや、でも……。

ピンポーン。

そう思っていたとき、家のインターホンが鳴った。モニターに映った人物を確認する。

「えっ?」

とりあえず、エントランスの鍵を開ける。彼ならこの部屋の番号は覚えているはずだ。

「あ……はい……」

念の為マスクをして、ドアを開けた。


***


いつもと同じ、騒がしいオフィス。でもそこには、いつもしきりに名前を呼ばれる社員がいなかった。

「たか……っとぉ、いないんだった」

そんな社員の同期である篠原も。

「高瀬せんぱ……あ、そうか……」

「高瀬さぁ……あー、休みなんだった……!」

後輩の月影も桜田も、いつものようにその社員の名前を呼んでは、今日はそこにいないことに気付く。

『お疲れ様です、高瀬です。すみません、体調不良で今日は休みます』

朝、ひどく鼻をつまらせた高瀬からそう連絡があった。彼が体調不良を理由に会社を休むのは初めてだった。

「分かった。……高瀬」

『あ、はい』

高瀬は電話を切ろうとしていたのか、俺が彼の名前を呼ぶと少し遠くから声がした。また耳元にスマホを寄越す様子が見て取れる。

「随分な鼻声だが、熱か」

『あ、まぁ……はい、すみません。管理不足です』

「そうか。いや、いい。無理はするなよ、お大事に」

『はい、ありがとうございます。失礼します』

俺が壊してしまったか……。

深く息を吐きながらそう考えた。まぁ、以前から少し予兆は見えていたが、やはりだったか。

就業後、コンビニで買い物をして家のインターホンを鳴らした。

「あ……はい……」

そこには、随分とツラそうな表情をする高瀬がいる。


***


ドアを開けたその先にいたのは、手にコンビニ袋を持つ橘さん。どうしてだ。どうしてここまでやって来たんだ。お見舞い?いや、体調管理ができていない俺を叱りにきたのか。

「あ、あの……」

「入ってもいいか」

「あっ、はい……」

そう言われれば、入れるほかなかった。

散らかっている部屋に橘さんを通す。

「すみません、汚くて……」

「いや、いい。お前はベッドで寝ていなさい」

「いや、そういうわけには……」

「寝てろ」

「……はい」

橘さんの言葉に、素直にベッドに寝転がる。とはいえ、上司がいる前で呑気に眠るわけにもいかなかった。

「熱はどうだ」

「平気です」

「計ったのか」

「はい、まぁ」

「何度だった」

「えぇと……」

リビングでガサゴソと音を立てている橘さんとそう会話する。きっと片付けをしているのだろう。申し訳なさでいたたまれなかった。

「高瀬」

「あ……はい……」

俺の目の前に来て名前を呼んだ橘さん。いつもの雰囲気ではなかった。

「こういうときくらい、素直に感情を出せ」

「……」

無意識に力を入れていた顔の表情が、スッと取れ楽になった。久しぶりの橘さんのそういった言葉に、なんだか涙が出てきそうになる。

「しんどそうだな」

「……まぁ、はい……久しぶりで」

橘さんの冷たい手が額に触れる。ひんやりしていて気持ちがよかった。

「軽く片付けは済ませた。洗い物も済ませておいたから。食欲はあるか」

「……いえ。ありがとうございます」

橘さんは少し黙ったあと、静かに話し始めた。

「私には妻がいるんだが、彼女と、高瀬との性格が似ていてね。以前から少し心配をしていた」

橘さんに奥さんがいることは知っていた。俺が入社した頃、随分と周りから言われていたから、きっとその頃結婚されたのだろう。でも、その奥さんと俺の性格が似ているということも、橘さんに心配されていたことも、俺は知らなかった。

「一次面接、特に大きな問題もなくスムーズに行われたと聞いた。みんな高瀬に感謝してたよ」

こうやってストレートに褒め言葉をもらうことは慣れていない。こういったとき、どのようにして反応すればいいのか分からない。

「えっと……あぁ、はい……」

俺のその反応を見た橘さんは、少し笑ってみせた。そのあと、持ってきたコンビニ袋の中から冷却シートを取り出した。フィルムを剥がし、俺の額に貼る。……冷たい。

「無理をするなと言ってもお前は無理をするだろう。なら、限界を感じる前に俺に相談しろ。相談じゃなく、ただの雑談でもいい。飲みにでも誘ってくれたら何時間でも話をしよう」

「はい……」

「二次面接、もしすでに無理を感じているのであれば現場統括をほかの者に任せるがどうだ」

「いえ、大丈夫です。俺がやります」

「そうか、なら任せた。今度は無理して体調を崩さないようにな」

橘さんはそう言って笑った。奥さんには帰りが遅くなると言っていたらしく、その後は俺の腹が空くまで待って、腹が空いたらお粥と卵スープを作ってくれた。橘さんはレンジで温めたコンビニ弁当。片付けられて少し広くなったように感じたリビングで、今度は電気をつけてふたりで食事を取った。

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