第十一話 選ばれた現在
「行ってきます」
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【同期は知らない俺の秘密】
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「性、別……適合、医療」
大学の空きコマでパソコンを借りて、その言葉を検索する。いちばん上に出てきたサイトをクリックし、黙読する。
戸籍上・出生時に割り当てられた性別と、本人が自認している性別とのズレによって生じる苦痛、違和感を医療的に軽減・調整するための医療。
そこにはそう書かれてあった。つまり、違和感を、医療で扱うということだ。
背もたれに背をつけるのも忘れてそのサイトの内容に目が釘付けになった。それを自覚すると、なにを夢中になっているんだ、とハッとする。べつに、私はそういうんじゃない。べつにこれでいいんだから。べつに、大丈夫だから。
「まず行われるのは、診断や確認です……長期間かけて、あなたの覚える体と心の違和感やこれからの生き方、経済的な心配ごとを教えてください……」
ほぼ無意識に、サイトに書かれてある文字を読んでいく。一度深くため息を吐いた。
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「……あ、えっと……、……性別適合医療の、カウンセリングについて……伺いたいんですけど……」
息が切れそうだ。必死に酸素を取り込もうと、息を吸う。
『はい、初めてのご相談でしょうか』
「あ、はい……」
電話の相手は女性。落ち着いた声だった。
『では、簡単にご案内しますね』
名前も、理由も聞かれない。私は、相手の言葉を逃さないように携帯電話を持つ手に力を入れた。
「所要時間は一時間ほどです」
「……分かりました」
「お日にちは、いつ頃がよろしいですか」
日時。所要時間。必要なもの。改めて、クリニックの場所。
はい、大丈夫ですを繰り返しながら、メモを取る。字は少し歪んでいた。
『では、そのお日にちで仮予約をお取りしますね』
「……お願いします」
『失礼します』
ツー、ツー、ツー、───。
電話が切れても、しばらく携帯電話を耳から離せなかった。
もう、なにも知らなかった頃、知らないでいようと目を逸らしていた頃には、戻れない。
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「こんにちは」
「こんにちは。予約していた高瀬です」
「はい、待合室でお待ちください」
もう、初めてのカウンセリングのことなんて覚えていない。何度も通うと、聞かれることはだいたい分かっていた。
どこで違和感を覚えたか。いつからか。それを説明する自分の声が、他人事みたいに落ち着いていることに気付いてしまう。もう遅い。きっともう。
親には、話した。なにをどう説明したのかは、正直あまり覚えていない。ただ、電話を切ったあと、手が震えていたことだけははっきり覚えている。
数日後、理解した旨の連絡が携帯電話に届いた。金銭面での援助もしてくれるという。大学一年の七月に始めたカウンセリング。二週間に一度のカウンセリングを三ヶ月ほど受けると、大学一年の十月にホルモン療法を開始した。初めは少しずつ、医師とともに数値を確認しながらその量を決める。量は少なめ、頻度は二週間に一度。初めの一ヶ月は、体になにも変化が起きなかった。本当に始まったのか、よく分からない。期待していたほど、なにも起きない。
でも、四回、五回と回数を重ねて行くうちに、自分にしか気付かないような小さな変化が起こるようになる。声がかすれるような、なにかが喉に引っかかっているような変な感覚。肌質が変わるとかの、小さな変化。三ヶ月ほど経つと、その変化が顕著に現れるようになった。声が低くなる。筋肉がつきやすくなる。そして、生理が止まる。
大学一年の最後。春休みに入ったタイミングで、胸を取る手術───乳房切除手術を受けることにした。手術を受け、一週間ほど入院する。退院すると、三週間ほどの自宅療養が始まった。特に退院してからの一週間は、痛みとの共存のツラさを思い知らされることになった。なくなった胸にはガーゼと保護テープ。痛みがひどくなるたびに痛み止めを飲む。体を自由に動かすどころか、シャツに袖を通すだけで息を詰める。そんな痛みには、静かに耐えるしかなかった。
胸はないのに、男になったという実感はない。でも、少しずつ、少しずつ、後戻りはできないと大きななにかが私を押し潰そうとしてくる。
ホルモン療法を始めてから半年が経つと、二週間に一度受けていたその頻度が、三週間に一度になる。低くなった声はほぼ安定し、筋肉もガッチリつく。大学二年になり授業が始まると、初対面の人は私を男として扱うほどに、見た目は男になっていた。
乳房切除手術から一年。大学二年の最後、春休み。次は子宮を取り除く手術、子宮・卵巣摘出手術を受けた。この手術も、入院は一週間程度。退院すると前回と同じように自宅療養が始まった。退院時に医師から言われたのは、見た目では回復状況が分からないからとにかく無理をしないこと。その言葉の通り、傷跡は小さいのだが、体への負担はあまりに大きかった。常に腹部に違和感と鈍い痛みが走り、少し動くだけでその痛みは跳ね上がる。くしゃみや咳なんて、もってのほかだった。少しずつ回復し、手術から一ヶ月が経つと、その痛みはほとんどなくなる。でも違和感だけは、そこに残り続けていた。
「もう少し、無理をしないで」
経過観察のため訪れた病院で医師に言われた。無理なんて、した感覚はなかった。違和感の残る腹部を静かに撫でながら、外に出そうになったその言葉を飲み込む。
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第十一話【 選ばれた現在 】
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キーボードを叩く音、プリンターでなにかを印刷する音、業務内容を確認する声。いつもの喧騒の中で、俺は手を止めずに画面を見ていた。もうすぐで昼休みの時間だ。
「高瀬ー昼行こー」
「ん」
昼休みの時間になると、篠原が俺にそう言ってくる。キリのいいところまで作業を進めてパソコンをスリープ状態にした。
「高瀬さん!このあと少しお時間もらえますかっ!」
「ん?うん、いいよ。べつに今でもいいけど……」
「いえ!仕事のことではないので仕事終わりにお願いします!」
さて今から昼食だと立ち上がろうとしたそのとき、桜田さんがやってきてそう言った。篠原が一緒にいたらマズいことでもあるのだろうか。桜田さんの言葉に、分かった、じゃあ就業後、と言葉を返す。いつもの元気な桜田さんの様子とは少しちがう、なにかを決心したような強い目。なにかの発表でもされるのだろうかと少し気になった。
「ももちゃんのなんだろうな」
「さぁな。で、今日の昼は?」
「この前のラーメン屋行こうぜ」
「はいはい」
篠原と、以前行ったラーメン屋へ向かう。以前と同じように注文をして席に座ると、篠原が顔を覗いてくる。
「顔色はべつに、悪くないか」
「……心配性め」
「だーれのせいだっつーの。お前が無理しなけりゃこんなことやってないのー」
「言ってろ」
リフレッシュルームで体を休めたあと、すぐに業務に戻った。もちろん橘さんには許可をもらった。もう無理はしていない。体調に関しても、悪くない。大丈夫だ。
「リフレッシュルームで休んでるって、橘さんに聞いた。お前があそこに行くことなんてなかっただろ。これでも心配してんだよ」
珍しくふざけていない。極めて真面目な表情で俺を見る篠原に、少し動揺する。
「……お前に、心配されるほど脆くないし、か弱くもない」
「はー……お前マジで可愛くない」
「こんな男に可愛さなんて求めるなよ」
「お待たせしました〜!醤油ラーメンの焼飯唐揚げセットと、塩ラーメンの餃子セットでーす」
「おっ、来た来たっ!俺醤油ラーメンでーす!」
運ばれてきたラーメンを前に、篠原はいつものように目を輝かせた。以前も思ったが、本当に単純で助かる。
***
「ごめん、お待たせ桜田さん」
「あっ、はいっ!」
就業後、先に仕事を切り上げて会社の外で待っていた桜田さんのもとに走る。桜田さんは月影さんと一緒にいた。月影さんは、走ってきた俺を見かけると桜田さんに手を振って別れる。別れる直前、桜田さんになにかを言っていた。なにを言ったのかは聞き取れなかったが、月影さんが言った言葉に、桜田さんは頬を赤らめて頷く。悪い言葉ではないのだろう。
「場所、決めてないけど、どこがいい?今からでよければどこか予約するけど」
「い、いえ!あの、ふたりで話せるところがいいです。公園でも、どこでも……できれば、ふたりになれる場所で」
「ふたりに……じゃあ、近くに公園あるみたいだし、そこに行こうか」
わざわざふたりになりたいなんて、一体なにがあるのだろう。少し不安になりながらも、ふたりで雑談しながら近くの公園に移動する。
「ここでいい?」
「は、はいっ!」
公園には、俺たち以外の気配はなかった。ベンチも遊具も手入れされたまま静まり返っていて、風に揺れる木の葉の音だけが耳に残る。桜田さんは立ち位置を何度か直し、落ち着かない様子で指先を握りしめていた。
ここには逃げ場がない。
そう思ったのは、たぶん俺だけじゃない。
「あ、あの……」
ひどく緊張しているのだろう。桜田さんは何度も息を吐いた。その様子に、こちらも少し緊張してしまう。緊張を和らげるために、少し視線を落とし、息を吐く。
「あのっ!」
突然そんな大きな声を出すから少し驚いた。改めて彼女の目を見る。
「わ、私は、詠美ちゃんみたいに頭がいいわけではないし、篠原さんみたいに気が利くわけでもないし、だから高瀬さんにもたくさん迷惑をかけてるかもしれないです!」
高ぶる緊張感。それを前に彼女は今なにを言っている?この程度の話なら、ここに来るまでの雑談で充分だったはずだ。
ほかになにか意図があるのだろうと、桜田さんの言葉に否定したい気持ちを抑える。
「でも、だからこそ、というか、みなさんのよさとかすごさとかは私はよく分かってると思ってます!詠美ちゃんも篠原さんもすごい。高瀬さんも!自分のことだけじゃなくて周りのことまで見るなんて大変なことをいつも淡々とこなしていて、詠美ちゃんにはもちろん、私のこともちゃんと気遣ってくれて……」
そんなにできる人じゃない。桜田さんの言葉を聞いたとき、率直に思ったことがそれだった。彼女は俺をできすぎる人だと勘違いしてしまっている。あとで修正してあげなければ。
「その、つまり……」
モジモジと手を合わせて顔を赤くする桜田さん。彼女は大きく息を吐くと、また口を開いた。
「高瀬さんが好きです!」
桜田さんの声は、思っていたよりもずっとはっきりしていた。冗談でも勢いでもない。逃げ道を自分で塞ぐような言い切り方。風の音も、遠くの車の音も、すべて一瞬遅れて聞こえる。体が動かない。瞬きの仕方さえ忘れてしまった気がした。視線を外す理由も、言葉を返す準備も、まだ頭の中に見当たらない。心臓の音だけがやけに近くて、胸の内側で反響している。呼吸の間隔すら、自分のものじゃないみたいだった。
「……えっと……」
好きです、好きですということは、これは、つまりなんだ。あぁ、あれか。これは世に言う、告白というやつなのか。ということはつまりなんだ?俺は今、後輩から告白を受けたということなのか?……つまりどういうことだ。




