第十話 高瀬楓
「楓ちゃん!おはよ!」
「心、おはよ」
「学校行こ!」
「うん、行こう」
***
【同期は知らない俺の秘密】
***
高瀬楓、十二歳。小学六年生の女子。膝丈まであるスカートに、胸元にはリボン。よくある普通の女子の制服。
違和感───。私の人生にはそれがつきものだった。
「楓ちゃ〜ん、こっちで一緒に占いしようよ〜」
「うん」
当時クラスで流行っていた占い。自分の生年月日や名前の画数などで人生観などを占う遊びのようなもので、毎日飽きもせずに、今度はだれを占ってみようとか、だれとだれの恋愛を占おうとか、ひとりの机にみんなが集まって楽しんでいた。私はべつに、そういうものに対して興味もなかったし、楽しさも感じなかった。でも、自分から面倒ごとに首を突っ込んでいくほど馬鹿でもなかった。興味がなくても、程よくそれに付き合って、程よく楽しんでいるフリをすれば、その中に溶け込むことはできる。それ以上の面倒に巻き込まれるより、そうするほうが楽だった。
その頃の女子となると、体の変化に対するデリケートな話が増えるのも特徴だ。胸が膨らんできたとか、生理が始まったとか、そういう話。私はほかの人よりも成長が早かったから、みんなよりも少し早い段階で胸が膨らんできたし、生理も始まった。そんな私を、みんなは先生のように立ててきた。みんなも知らないことだらけ。だからすでに経験済みの私に聞くのがいちばん手っ取り早かった。
「楓ちゃん、ナプキンってどれくらいで交換するの?」
「ねぇねぇ楓ちゃん、体育のときって、スポブラのほうがいいの?」
律儀に答えていた私も、馬鹿だったのかもしれない。女子が私に近付くたびに、次はなにを聞かれるのかと身構える。私も女であり、その成長は同じように感じているのに、私にそんな相談をしてもいいの?と心配になる。当事者であることに不安というかむず痒さというか、そんな違和感を覚えていた。
胸が膨らみ始めたのが五年生の秋頃。生理が始まったのが六年生の春頃。夏になれば水泳の授業が始まる。当然のように私は、それらに悩まされることになる。
「最悪だ……」
水泳の授業を翌日に控えたある日の夜。いやな予感を察してトイレに行くと、下着にはすでに真っ赤な血がベットリと着いていた。新しい下着にナプキンを取り付けて、汚れた下着は手洗いをする。
「明日学校休みたい……」
そんなこと、親に言えるはずもなかった。
「お腹が痛いので水泳休みます」
翌日、先生にそう言った。担任は男の先生だ。もともと生理痛は重くなかったが、生理になったからプールに入れない、なんて、堂々と言えなかった。
「体育服は持ってきてる?」
「はい」
「じゃあ見学ね」
「……はい」
先生も察したのだろう。深く理由を聞くことなく、見学を許可してくれた。のだが。
「あーっ!楓見学かよ!生理だ生理ー!」
「生理生理ー!」
体育服で見学する私を見て、男子がそう騒ぎ立てる。この頃になれば私は体育服や制服に着替えるのも好きではなかった。こう大々的にお前は女だと主張を叫ばれれば、簡単にメンタルもやられるものだ。
「コラー!!ツカサトキタカー!楓ちゃんに謝れバカー!」
私を揶揄ったふたりの名前を叫び、謝るように言った彼女は心という。家が近所で仲のいい子だった。男子も女子も、容姿に対して敏感になってくるその頃。心はそんなこと気にもせずに鬼の形相で司と国隆のふたりを蹴り飛ばした。のちほど先生にこっ酷く叱られていたが、彼女がいたことが、私が崩れなかったいちばんの要因であるように思える。
***
中学生になった。徒歩通学が、自転車通学になる。スカートを履いての自転車通学はどうにも慣れなかった。風が吹けばスカートが捲れる。下に短パンを履いていても、その感覚がなぜかいやでたまらなかった。
「このブランドだと、中学生でも安くて買いやすいし使いやすいんだって!」
「私それ使ってるよ!お母さんに誕生日プレゼントで買ってもらった!」
「へぇ〜!どんな感じ?」
小学校のときよりも増えるそんな話題。メイクやオシャレ、恋愛、恋バナ。全部私には興味が向かなかった。
「心ちゃんはメイクとかする?」
「次の誕生日にメイク道具買ってあげるってママに言われたの!それまでは我慢かな〜」
心は、そんな私から少しずつ離れていった。話が通じる女の子たちと、楽しそうにオシャレや恋バナをする。通学で一緒にいるときも、話が噛み合わないから平坦な話しかしなくなった。同じ場所にいるのに、居心地が悪く感じる。
心はスカートを短くする。消しゴムに好きな人の名前を書く。髪の毛を伸ばす。可愛らしく、内股で歩く。そんなことをしない私とは、ちがう存在になっていく。
「今日は千佳ちゃんたちと帰るね!」
「うん」
少しずつ、離れていく。
「鈴ちゃん聞いて〜!この前先輩がさぁ!」
「心落ち着いて〜、先輩って、優希先輩のこと?」
「そう!」
少しずつ、少しずつ。
「楓ちゃんおはよっ!」
運よく二年間一緒だったクラスは、三年目に別れた。心は完全に離れていくと思っていた。でも、そうはしなかった。
「おはよう」
クラスが離れたからか、話が噛み合わなくても登下校は毎日一緒にするようになったし、休日も一ヶ月に一度くらいのペースで、たまに遊びにくる。
そして中学最後、卒業式の日。後輩にたくさんもらった手紙や花束を手に、心は楽しそうに、高校に入ったら髪をどうするかとか、可愛い制服を着るのが楽しみだとかを話していた。私はただ、そうなんだ、楽しみだねと相槌を打つ。
そのときはっきり分かった。私はもう、心と同じ場所には立っていない。追いつけないのではない。追いつこうとすら思っていなかった。
***
高校生になった。自転車通学が、電車通学になった。中学生のときと違い、運動靴ではなくローファーになる。靴擦れが、私を表しているかのようだった。
違和感には慣れた。自分がなにかおかしいことは、もう知っている。
「女子はこっち並んで〜」
身長が伸び、クラスの中でも学年の中でも大きいほうになった。列のうしろから見える、小さくて可愛い女の子にはなれない。
「続いては女子バスケットボール部です!」
「こんにちは!女子バスケットボール部です!毎日体育館を走り回りながら、楽しく、でも本気でバスケに取り組んでいます!」
部活には入るつもりはない。興味もなかったので、部活動紹介の最中はずっと体育館の時計を眺めていた。それなのに……。
「一年三組!北村心です!」
「一年四組、高瀬楓です」
なんで私はここにいるんだ……。
「おっ、噂の背の高い子だ〜」
心の誘いに負け、部活見学で体育館にやってきた私たち。自己紹介が終わると、一年生は体育館の隅っこにやられる。そのとき、やっと体育館にやってきたマイペースそうな人が私のところにやってきた。
「あ、凛子来た。タイマー頼むよー」
「んー、はいはーい」
よく見るとバインダーやタイマーを首からぶら下げていたその人は、きっとマネージャーなのだろう。走り込み五分、と声を出しタイマーを押すと、部員全員が返事をして走り出した。
「あたし本堂凛子。よろしくね、期待の新人ちゃん」
「あ、はい……」
のんびりしているように見えて、マネージャーの仕事を淡々とこなす凛子さん。その人が離れると、今度は心がやってきた。
「さっきの人、マネージャーさん?」
「そうみたいだね」
「なんだかかっこいいね〜、あのアンニュイな感じ!」
「いや、同意を求められても」
興奮気味に言った心に突っ込むと、今度は少し奇妙なことを言い出した。
「でもあの人マネージャーだったんだね。部活紹介のとき隅っこにいたから、ただの幽霊部員的な人かと思ってた。だれも話しかけてなかったし」
「人と喋るのが面倒なだけじゃないの」
「だったら部活のマネージャーなんてやらないよ!」
なにかほかに理由があるんだよ、と呟いた心は、考えるようなポーズを取った。
***
「凛子、今日デート?」
「そー。じゃねー」
部活後。キャプテンと凛子さんがそう話しているのを、私と心は聞いてしまった。その瞬間、心がそれに大袈裟に反応する。
「ガビーンッ」
いや、反応が古臭い。おじさんか。
「キャプテーン!凛子先輩彼氏いるんですかぁ!」
ショックのあまりか、あまり話したこともないキャプテンに遠慮なく話しかけに行く。キャプテンは少し困ったように眉を下げて小さな声で言った。
「まぁ、恋人はいるね」
それまで普通だった空気が、いつの間にか少しだけ変わった。
恋人はいる。その言葉と表情に、だれも話しかけていなかったと言っていた、心の言葉の本当の意味が分かった気がする。
あの人の恋人は、きっと女の人だ。
部活の連絡以外で話しかけられるのを見なかったこと。彼氏がいるのかと聞いたのに恋人はいる、と返答があったこと。なにより、キャプテンのあの言い方、雰囲気。
女が女を好きになる。それだけで、こんなにも距離ができる。いやに目立つ。それなら、考えないほうがいい。踏み込まないほうがいい。
だれも露骨になにかを言うわけじゃない。けれど、声のかけ方がちがう。距離の取り方がちがう。───外れると、こうなる。
「お疲れ様でした。今まで、ありがとうございました」
「うん。じゃあね」
結局、凛子さんは卒業するまでずっとそういう距離を取られていた。彼女が今どうなっているのかは知らない。彼女とはまだ続いているのか、まだ女が好きなのか。まだ、距離を置かれている存在なのか。
まぁ、べつに知らなくてもいいことだけど。
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第十話【 高瀬楓 】
***
大学一年生。ひとり暮らしを始め、決まった制服や校則などの概念がなくなった。初めて何者でもない状態が手に入った。少し、楽になった。息がしやすかった。でも、楽になったことで思い出す、あの違和感。今までほど苦しくない。抗おうともしていない。それなのにひっついてくる、違和感。
───まだ、そこにいる。
母親に買ってもらった新しい服に身を包み、大学の門をくぐる。長いズボンが足を隠してくれることに、少し安心感を覚えた。
入学からしばらく経つ。公立大学経済学部。広い講義室。そのうしろのほうにひとり腰掛ける。もうすぐで講義が始まる。ノートを開く音、ペンケースのファスナー、どこかでだれかが笑っている。講義が始まると、教授の声が前から淡々と流れてくる。
社会保障費。医療費。高齢化。
いつもの言葉だ。板書を写しながら、半分は聞いていなかった。
「医療の対象も、近年は多様化しています」
その一文だけ、耳に残った。
精神医療。不妊治療。そして、ほんの間も置かずに、性別適合医療。
言葉はそこで止まらなかった。教授はすぐ次のスライドに進み、財源の話に移っていく。説明はなかった。特別な言い方でもない。並べられた言葉の中に、それがあった。ほかと同じ調子で、同じ速さで。
ペンが止まっていることに気づいたのは、少し経ってからだった。書きかけの文字の上に、インクがにじんでいる。
だれも振り向かない。だれも反応しない。講義室は、さっきとなにも変わらないまま。
だれも気にしていないその言葉が、なぜか、指に残った。




