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「ロゼリアちゃんは本当に働き者だなあ。ターナーの坊ちゃんもいい嫁さんを見つけてきたもんだ」
腰を落とし体幹を意識し、太ももの筋肉にグッと力を入れ、芋がたっぷりと詰まった木箱を持ち上げる。
最初の頃は、力が足りずひっくり返ってしまったり、持ち上げる際に腰を痛めてしまうこともあったけれど、今ではすっかり慣れたものですわ。
「嫁さんだなんて・・・・・・その呼び方はまだ恥ずかしいから結婚後まで取っておいてくださる?」
「はいはい、式まであと一月だもんな。招待状ありがとさん。女房と二人で行かせてもらうよ」
今日はもう上がりな、と言う店長に手を振り店を後にし、お弁当屋を後にしたロゼリアは、思わずスキップしてしまう足をたしなめつつ家路を急いだ。
いい嫁さん、いい嫁さんですって!
最初は「こんな箱入りお嬢様、すぐ泣いて逃げ出すに決まってらぁ」なんて言ってた店長がいい嫁さん!
わたくし、今最高に幸せだわ。
半年前、王立学園の卒業パーティーで、ロゼリアは当時婚約していた第一王子のルーカスに婚約破棄され、侯爵家も勘当された。
もう娼館に身を売るしかないと思っていたロゼリアを「行くところがないのなら」と拾ってくれたのは、弟の卒業式に親類として出席していた、男爵家の跡取りであるノア・ターナーだった。
男爵家は爵位こそ辛うじてあるものの、城で下級文官として働くノアの地位は低く、給金も少ない。
ノアの両親は国の片隅の小さな領地に住んでいて、王都の小さな屋敷にはノアと弟のロアの二人で住んでいた。
狭くてごめんね、とロゼリアに用意された部屋は、確かに侯爵家にいた頃の自室とは比べものにならない手狭なものであった。
でも、一番大きい部屋を使っていたノアが、ロゼリアのために譲ってくれたのだと後で知った。
姉のものでよければ、と手渡された衣服は上質なレースも無く、暖かさと丈夫さが優先された庶民でも着られそうなものであった。
でも、わざわざ他家に嫁いだ姉に手紙を送り、ロゼリアのために女性のための衣服や小物、日用品を取り寄せてくれたのだと後で知った。
屋敷に来たばかりの頃は婚約破棄と家を勘当されたことにいっぱいいっぱいで心に余裕が無く、八つ当たりのようにノアに当たってしまった事もあった。
でも、ノアはどんな時も声を荒げる事も、ロゼリアを鬱陶しがる事もなく、ただ温かい飲み物を用意し、隣に座り、黙って話を聞いてくれた。
心が癒えていたことに気づいた時には、ロゼリアはもう、ノアに恋をしていた。
そこから怒涛のアタックでノアに迫り、見事婚約を勝ち取ったロゼリアは少しでもターナー家の家計の助けになるべく、花嫁修行も兼ねて城下のお弁当屋さんに働きに出ていたのだ。
侯爵令嬢だった時には考えられない事だったが、今は勘当され、苗字も無く、ただのロゼリアだ。しかももうすぐロゼリア・ターナーになる。
るんるんと申し訳程度の庭を進んだロゼリアは、今日の嬉しい出来事を愛しの婚約者に報告すべく、玄関の扉を開いた。
玄関にはノアが、何故か土下座で、ロゼリアに向かって頭を下げていた。
困惑するロゼリアにノアが床に額を擦り付けて告げる。
「人魚と結婚しなければいけなくなったから、君との婚約を破棄させてほしい」
お弁当屋のバイトから帰ってきたら、最愛の婚約者に土下座で婚約破棄を突きつけられました。
ロゼリア、人生二度目の婚約破棄です。
***
「ひとまずお立ちになってくださいませ。話はそれからですわ」
ノアに手を貸して床から立たせ、ソファに座らせたロゼリアは、突然の婚約破棄に動揺した心を治めるべく、いつもよりことさらゆっくりとお茶を淹れた。どうぞ、とお茶をテーブルに置き自分も隣に座ると、ロゼリアは話を切り出す。
「それで、人魚と結婚しなければならない、と言うことは、ノア様は人魚に命を助けられてしまったのですか?」
「そうなんだ。海底に潜っていたところ、海藻に足が絡まってしまってね、通りかかった人魚が助けてくれたんだ」
「ノア様を助けてくださった人魚の方はノア様と結婚を望んでいるのですか?」
「ああ。ただ、何やら事情があるようで・・・・・・」
ロゼリアは厄介なことになってしまった、と内心叫び出したくて堪らなかった。
パン屋の娘、ノアの同僚の下級文官、ノアに近づくいろいろな女を牽制してきたけれど、まさか結婚式まで一月という今になって、こんな伏兵が飛び出してくるとは思わなかった。
人魚との結婚は絶対なのだ。
デンマール王国には一つの呪いがかかっている。
かつて人魚の姫に命を助けられ、命を懸けて想いを寄せられたにも関わらず、「君のことは妹のようにしか思えない」などと言って、目の前で隣国の王女との結婚式を見せつけ、人魚の姫を泡にした王子がいた。
人魚の姫を溺愛していた海の魔女は、その非道な仕打ちに怒り狂った。
姫の最後の願いにより王子の命こそとらなかったが、海の魔女はその怒りのままに、デンマール王国の国民を呪った。
それ以来、人魚に命を助けられ、その人魚から結婚を望まれた人間は必ず結婚しなければならない。
逆らうと頭が魚の頭に変わってしまう、恐ろしい呪いだ。
「そもそもノア様は何故海底に潜っていたのです?今日はお仕事のはずでは?」
朝、ノアは今日は王城に出仕する、とロゼリアに告げて家を出たはずだ。王城で職場と資料室を忙しなく行き来しているはずのノアが、どうして海の底にいたのだろう?
少々責める口調になってしまったロゼリアの問いに、ノアは気まずそうに唇を動かした後、意を決し、そおっと懐からハンカチに包まれた何かを取り出す。
ハンカチの中から出てきたのは、淡い金色に輝く、綺麗な正円をした小さな真珠だった。
よく見れば、ノアの手には包帯が巻いてある。朝から一体いくつの貝の殻をこじ開けたのだろう。
「君はターナー家に負担をかけることを気にして普段わがままも言わないし、結婚指輪だって石の無いシンプルなものでいいと言ってくれた。でも僕はどうしても、君を飾るものに妥協をしたくなかった」
「ノア様・・・・・・」
「結局こんなことになってしまって君には申し訳ないと思う。でもせめてこれだけは君に贈らせてもらいたい。指輪にしなくたっていい。君に持っていて欲しいんだ」
ロゼリアは胸がぎゅうぅっと締め付けられ、喉奥から熱い何かが込み上げてくるのを感じた。
そうだ、この人のこういうところが好きなのだ。愛してしまったのだ。
ロゼリアは溢れる涙を拭いもせず、ノアの腕の中に飛び込み、背中に腕を回してジャケットに皺を作る。
「わたくし、指輪にしますわ。そして結婚式ではあなたにその指輪をはめていただきます。絶対に」
「ロゼリア・・・・・・でも僕は人魚と・・・・・・」
「ようはその人魚がノア様との結婚を望まなければよいのです。わたくしの方がその女より百倍ノア様に相応しいと認めさせて見せますわ!絶対に結婚を諦めさせますから待っててくださいませ!」
最後に一層力を込めてノアを抱きしめ、気合を入れたロゼリアは「その人魚はどちらに?」と尋ねると、ノアは「浴室に」と返した。
淑女にあるまじき勢いで浴室の扉を開いたロゼリアは、魚屋のおじさま仕込みの気勢の良さで、開口一番啖呵を切る。
「人の婚約者に手を出すなんていい度胸ね、このドロボウ魚!あんたなんか三枚に下ろして、フライにして差し上げますわ!」
「すみませんすみません食べないでください!わたしが悪いのは分かってるんです!でもあなたの婚約者と結婚しないとわたし海の魔女の奴隷にされちゃうんですう」
「第二夫人でいいですからあ」とバスタブでひんひん泣く小娘に「いいわけないでしょ!」と反射で返したロゼリアは、何やら訳ありそうな人魚を前に、結婚式までになんとかしてみせる!と気持ちを引き締めるのだった。
アンデルセンに怒られそう