第Ⅴ話 血の誓い
『何をしている——逃げるぞ』
突然、耳もとで声が聞こえた。
襟のところを持ち上げられ、宙を舞ったかと思うと、あたしは獣の背中に乗せられていた。
『掴まれ! 振り落とされても、戻らぬからな!』
ぶっきらぼうに言われて、あたしは反射的に獣の首筋に捕まった。
両脚で獣の体を挟み、姿勢を低くする。
森の樹々の間を走り出し、あたしは獣と一体になったように、しがみついた。
——グリーザ。
影から影へと、一瞬にして移動する能力をもつ、アザールの黒狼と呼ばれている獣。
エレド王国内の砦のなかには、アリアンフロッドの戦士に協力してくれる数体の黒狼がいて、グリーザはそのなかの一匹だった。
本来は、小隊の仲間のひとり、ユスティナが使役していた獣だ。
そのユスティナは、つい先日、あたしの目の前で、地下神殿の守護者に巨大な剣で斬りつけられて、死んだ。
本来なら、死に戻っていて、砦で再会を果たしていたはずだが、こんな状況になってしまっては魂ごと、彼女はロストしたと思っていいだろう。
グリーザが今、ここにいることが、その証拠だ。
死に戻っていたら、グリーザはユスティナのリスポーンゲートの前でじっと、待機しているはずだからだ。
——ユスティナ……。
あたしは、グリーザの首筋に顔を埋めながら、涙を零した。
もう、彼女とは会うことが出来ないんだ……。
そう思うと、喉が震え、ぎゅっと目を閉ざしても、涙がまなじりから流れてしまう。
以前なら肉体が滅びても、それが永遠の別離となることはなかった。
だが——これからは、違う。
死ねば、復活することはない。
そこで、おしまいとなってしまうのだ。
目蓋の裏に、ユスティナの姿が浮かんだ。
あの——背が低くて、ちんまりとしているのに、生意気で見た目とは異なり、皮肉っぽい笑顔を浮かべ、意見が対立する時は、毒舌で返してくる彼女……。
『泣くな! アシェイラ……背中で泣かれると、わしも、感情が伝わってきてしまう……』
グリーザの声は耳に聞こえてくるのではなく、頭に直接、響いてきていた。
「ごめんなさい……でも……」
『もう、いい! 喋るな……飛ばすぞ』
気配が変わった。
背筋がぞくぞくとする。
黒狼の”影化”がはじまったのだ。
周囲の風景が、モノクロームとなり、冷気が忍びよってくる。
振り返ると、黒狼の体が黒く染まり、そして、尻尾から順に、消えていくのが見えた。
“影化”をはじめて経験する者ならば、パニックになるところだが、あたしは数回、影となって転移したことがある。
ぎゅうっと、首筋に抱きつき、そして、目を閉ざした。
めまいがして、一瞬、自分がグリーザの背中に掴まっているのか、あるいは、ひっくり返っているのか、まったくわからなくなった。
『もう、いいぞ』
声が聞こえてくるのと同時に、あたしは背中から投げ出された。
「あいた!」
思いっきり、お尻を打ちつけて、あたしは四つん這いになった。
お尻をさすりながら、その場に座り込む。
「ここは……」
周囲を見る。
森の木々から、少し離れた場所に、あたしたちはいた。
下には、草むらが広がり、遠くを川が流れ、あちこちに岩が露出しているのが見える。
『はじまりの森の南の境界、といったところだな』
「そう——」
口を開きかけると、「あしぇいらぁあ」という、声が聞こえてきた。
少し、甲高い、子供のような声だった。
視線を向けると、小鳥のような姿をしたものが、あたしのもとへと近づいてきた。
——フェアリーだ。
妖精種のひとつで、人間には好意的で知性も高く、時に予言のようなものをすることもある。
そのフェアリーが二体、背中の翼を一生懸命に動かしながら、ふわふわと舞っていた。
フェアリーは、腕が翼になっていたり、羽毛ではなく、翼が蝶みたいだったり、色々なのだが、今、あたしの周りを飛んでいるのは、手のひらに乗るサイズで、人の体に鳥の翼を背中から生やしていた。
白い衣を体に巻きつかせ、右肩のところをピンで留めている。
フェアリーたちはいたずら好きで、時に草の葉で編んだ妖精の輪に踏み込ませて、どこかの空間へと連れ去ってしまうこともあるのだが、そのふたりのフェアリーとあたしは顔見知りだった。
名前は確か——。
「ぴぃたんとでるる、だったよね」
「そうだよー。よく、名前を覚えていたねー。褒めてあげるー」
「ぐりいざ。もぉお、待ちくたびれちゃった。眠くなってきたよぉ」
歌うように、ふたりのフェアリーが言った。
フェアリーのふたりは、でるるの翼が濃淡のある灰色なのに対し、ぴぃたんの翼は茶色のグラデーションで、羽根の外側には黒い筋が入っている。
『ここから先は、ふたりに案内してもらおう』
グリーザの体が縮み、あっという間に、大型犬ぐらいの大きさになってしまった。
ふたりのフェアリーに頬ずりをし、舌でぺろっと舐めたりしていた。
「ここから先?」
『ふむ……エルカの頼みでな。わしの役目は、リースヴェルトから、お前を逃すことだったからな』
「グリーザは、どうするの?」
『知っておろう。わしは本来、この世界の住人ではない。ユスティナの魂がロストしてしまったので、元の世界へと戻るだけだ』
「そんな……」
あたしは、膝をつき、グリーザに抱きついた。
『くっつくな。暑苦しい……』
言いながら、グリーザはあたしの頬に流れる涙の筋を舐めとってくれた。
——離れたくない……。
この腕を振りほどけば、グリーザとは別れなければならない。
あたしは、しばらくの間、そのままでいた。
『そろそろ、行かなければならないだろう。リースヴェルトも、すぐに追ってくる』
「——ええ……」
深呼吸をすると、あたしはグリーザから離れた。
『石舞台までは、付き合ってやろう。そこから先は、お前の自由だ』
——自由……。
その言葉を、ここで聞くとは思わなかった。
いきなり、こちらの世界へ召喚されて、不死になる代わりに地上の安全のために、異形の存在——奈落よりのものと戦うことを強いられ、そして——今度は、エルカたちの復讐を果たさなければならない。
自由など、どこにもない。
しかし、逃げることもできない。
どのみち、リースヴェルトは追ってくるだろう。
後悔はしたくない——。
すべてをぶち壊しにして、踏み台にして、自分だけ、のしあがっていったリースヴェルトには怒りしかない。
こちらの世界に来てからは、仲間たちのことが、あたしのすべてだった。
一度、死に、そして、新しく生まれ変わり、こちらの世界で第二の生を受けたのだ、と思っていた。
こんな世界でも、小隊の仲間たちと行動し、運命を共有していけば、自然と親愛の情が溢れていく。
それを、あの男——リースヴェルトは、すべてを壊してしまった。
ならば、答えはもう、決まっている。
目には目を。
血には、血を。
あの男——リースヴェルトには死を。
『黒鉄の方程式』の章に続く