記録されざる者
塵芥車が停まったのは、いまや地図にも名前が残っていない区画だった。都市の中央から外へ向かって、都市は“朽ちて”いく。外縁に近づくほど、光は弱まり、構造は曖昧になり、人の記憶と記録の境が消えていく。
ヴォイドは、黙っていたローマンに訊ねた。
「前にここに来たことがあるのか?」
ローマンは答えず、しばらく遠くを見ていた。ビルとも呼べない巨大な立体構造物が、水平にも垂直にも定義を持たずに存在していた。そこは建築というより“痕跡”に近いものだった。人の手で作られたようで、だが同時に“思い出された”だけのようでもあった。
やがてローマンが口を開いた。
「ここで、俺は生まれた」
「……え?」
「いや、違う。生まれたわけじゃない。“登録された”んだ。記録上の、最初の点がここにある。だが、出生記録も家族記録も、教育記録も――なにも残っていなかった」
ヴォイドは困惑した。「じゃあ、自分のことは、どうやって知ったんだ?」
ローマンは静かに笑った。
「都市が教えてくれたんだよ。“君はローマンだ”って。最初のIDスキャンのとき、そう表示された。データは断片的だった。生年月日、職能、適性、嗜好傾向。でも――」
「でも?」
「なにひとつ、覚えてなかったんだ。俺は、俺が誰なのか、ほんとうは知らない」
彼らは建物の奥に入っていった。
内壁には無数の配線、しかしそれは電線ではなく、記録媒体そのものだった。都市の回路、都市の神経、そして都市の夢がここに集約されているようだった。
ヴォイドがふと立ち止まる。壁に貼られた古い掲示物に、ひとつの名を見つけた。
「都市更新設計補助者:ローマン・07区」
「おい、これ……」
ローマンは頷いた。「俺の名前だ。だが、こんな役職、俺は知らない。記録されていない。どこにも」
そして、部屋の中央にある装置が、ふたりの存在を感知して起動した。やわらかいノイズ音。風が巻き起こるような電子音のうねり。浮遊する小さなスクリーンが複数、空中に現れた。
そこに映っていたのは、ローマンだった。
だが今の姿ではない。少年のローマン、青年のローマン。複数の年齢。複数の時間。さまざまな職能と服装。そして、都市のさまざまな場所で働く姿。
「これは……なんだ?」
「俺が知らない“俺”だ。記録の中にだけある。俺という存在の、バリエーション。分岐。可能性。もしくは、都市が思い出した“俺”の姿」
「都市が、君を覚えてる?」
「そうじゃない。都市が俺を“使って”自分を記録してたんだ。俺の姿で、俺の名前で。俺は――」
ローマンの声がかすれた。
「俺は都市の“記録者”だった。本人ではない。俺はただ、その“再生”かもしれない」
そのとき、部屋全体が淡く揺れた。
スクリーンの中の映像が崩れ、ひとつの像に統合されていく。それは、現在のローマンと瓜二つの姿をした男だった。
だが、その“記録体”の目は、空っぽだった。記録されるだけの存在、見ることができない者の目。
そしてその像は、静かにこう語った。
「私がローマンだ。お前は私のコピーだ。私は都市の意志で生まれ、都市の中で死んだ。だが、お前はまだ、終わっていない」
「なぜか? それは記録が終わっていないからだ」
装置が停止する。
沈黙の中で、ローマンは呟いた。
「俺は記録者だった。だが、今の俺は、記録されざる者だ。忘れられた“再生”。再生を繰り返すことで、いつか“本物”になれるのか? 都市は、俺にそれを訊いているのかもしれない」
ヴォイドは、そっと肩に手を置いた。
「なら、俺が見てる“ローマン”は、今ここにいる“君”だけだ。それで、充分じゃないか?」
ローマンは目を伏せた。
そして静かに、うなずいた。
彼らは建物を出た。都市の空が、いつになく澄んでいた。だが、それが本物かどうかは、もはや誰にも分からなかった。