記録者たらんとするもの
数日が経った。
空白区画を離れて以来、ヴォイドの中で“再生”された映像が、断片的に現れては消えていた。眠っているとき、乗車中、物の隙間から覗く光の反射に混じって現れる。「現実」と呼ぶには曖昧すぎ、「夢」と呼ぶには鮮明すぎた。
映像の中の都市は、明らかに彼らのものではなかった。幾何学構造が逆転し、道路が上へと伸び、建築物が時間の単位で生まれ変わっていた。
そしてそこには、常に“目”があった。
形はない。色もない。ただ、“それが見ている”と分かる。それが記録していると、背中に感じる。
「君にも、見えてるんだな」
ローマンが言ったのは、出発から三十七時間目の車中だった。
ヴォイドは訊いた。「何が?」
ローマンは運転席の端末にアクセスし、非公開フォルダを開いた。そこには数百に及ぶ“視点ログ”があった。都市内のカメラ記録とも違う、明らかに「誰か」の“見た”風景が、あり得ない視点と位置から撮られていた。
「これは……?」
「都市の記録だ。ただし、誰かに依頼された記録じゃない。“都市そのものが、自発的に記録した”映像だ」
「都市が?」
ローマンは、スリットから差し込む曇天の光を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「都市には構造制御系統がある。エネルギー、交通、気象、言語制御……それぞれは自律的に作動してるが、数年前から、それらを横断する形で“記録処理ノード”が増え始めた。誰も作ってないし、どこにも設計書はない。ただ、既存の建物や施設の隙間に勝手に“増えて”る」
「増えてる?」
「寄生みたいにな。だけど敵意はない。むしろ……記録しようとしている。“自分の過去”を。“自分が何であるか”を知ろうとしてるみたいに」
ヴォイドはぞっとした。まるで巨大な生物が、自分の記憶を探っているような話だった。
だが――もしそれが「都市」そのものだとしたら?
ある夜、回収中に異常が発生した。
塵芥車が自動停止し、全システムが強制的にシャットダウンした。
ローマンとヴォイドは外に出る。
そこは廃棄された区画――数十年前、火災で焼けた物流センターだった。けれど、焼失したはずの建物がそこに「再構築」されていた。まるで誰かが記憶だけを頼りに、元通りに再現しようとしたかのように。
素材はおかしい。鉄骨ではなく、都市通信線で編まれた柱。床は電子ゴミの粒子が固まったもの。光は、どこにもないはずの太陽から差していた。
「再現されてる……」
ローマンが呟く。
そのとき、彼らの前に“ヒトのかたち”が現れた。
顔はなかった。ただ、顔があるはずの場所に、いくつものスクリーンが並び、そこにはローマン、ヴォイド、その他無数の人々の「顔」が瞬間的に映っては消えていた。
それは、記録の断片で組み上げられた“都市の使者”だった。
それは話さなかった。声帯も口も持たなかった。
ただ、周囲の空間を震わせ、記録された音声や映像の「再構成」によって、意志を模倣してきた。
「見たいのか?」
── かつての監査官の声
「知ることは望むことじゃない」
── 焼却前の残響データ
「私たちはずっと、誰かに“思い出してほしかった”だけだ」
── 廃墟で拾われた少女の記録音声
ヴォイドは、その“存在”が問いを発していることに気づいた。
彼に。ローマンに。そして都市のあらゆる「住人」に。
──「私は誰か?」
答えはなかった。
けれどそれは構わなかったらしい。
再構成体はゆっくりと溶けるように崩れ、再び粒子となって、建物と一緒に消えていった。
その後、塵芥車が自動的に再起動した。何もなかったように。
だが、ヴォイドの胸ポケットに、見覚えのない記録チップが入っていた。
タグには、こう刻まれていた。
「ユア・ログ:アンサー未記述」
(Your Log: Answer Not Yet Written)
補遺:ローマンのメモ(後にヴォイドが発見)
都市が記録する。それはただの記録じゃない。
自分自身を、見るためだ。
自分という存在を、“生み出すため”だ。
都市は、誰かの記憶を真似て、
その“記憶”になろうとしている。
やがて、都市は完全な主観を持つ。
だがそのとき、私たちの記憶は、どこに残っているだろう?
──忘却こそが最初の記録だったとしたら?