再生者(リ・プレイサー)
回収ルートの終盤、ふたりは旧記録管理庁跡地とされる区画に立ち寄った。現在は都市構造データベースにも存在しない「空白区画」となっており、通常のルートには含まれない。だが、その日はなぜか、地図アプリの指示が繰り返しそこを示し続けた。
「バグか?」ヴォイドが訊いた。
ローマンは首を横に振る。「いや、たぶん“呼ばれてる”」
「誰に?」
「……記録されたもの、だ」
廃墟となった建物群は、コンクリートではなく白化した合成繊維のような素材でできていた。光が当たるとわずかに虹色に揺れる。だが、窓はすべて塗り潰され、扉はどこも外から開かない。
ふたりは一つの裂け目を見つけ、そこから内部へ入った。
建物の中は音が反響しすぎていた。足音が遅れて返り、時には自分たちのものではない靴音さえ聞こえた。廊下には家具の跡だけが残り、誰もいないはずの空間に、なぜか空気の“重さ”があった。
「ここで何があったんですか?」
ローマンは懐から古いタグを取り出し、それを壁の小さな端末にかざした。電子音が鳴り、奥のドアが滑るように開いた。
「……再生室って呼ばれてた場所だ。記録廃棄前の“検証”をするための。今はもう誰も使ってない」
だが、部屋の中には誰かがいた。
いや、それは「誰か」ではなかった。
部屋の中央、床から生えているような黒い塊があった。複数のケーブルと管が絡み合い、まるで胎児のような丸まった構造体になっている。素材はプラスチックとも金属ともつかない。唯一確かなのは、それが呼吸しているということだった。
「これが……?」
「“リ・プレイサー”。記録を再生し、投影するためのユニットだ。だが、ある時点から動作が変質した。記録を再生するんじゃなく、“再現”し始めた。物理的に」
ヴォイドが半歩近づくと、その黒い塊がかすかに震えた。空気の質が変わり、耳鳴りが生まれる。
視界の端が歪み、彼は突然、自分が見たことのない風景の中に立っていた。
それは都市だった。だが今とは違う。あまりに明るく、秩序立っていて、機能的すぎる。人々が笑い、建物が反応し、ゴミすら自律的に分解されていた。
「これは……いつ?」
ローマンの声が遠くから聞こえた。「お前が見てるのは、“記録”だ。記憶じゃない。“誰かの”でも、“都市の”でもない。“それ自体が見たもの”だ」
視界の中で、一人の作業員がゴミ袋を持ち上げた。袋が破れ、中から赤ん坊のような、だが完全に成形されていない肉塊が転がり出た。
人々は誰も驚かなかった。ただ収束炉へ向けて運び、静かに燃やした。
「これが……再生された記録?」
「いや。もっと悪い。都市が“忘れようとしたこと”だ。だが、リ・プレイサーはそれを引きずり出す。まるで都市そのものが、自分の記憶を自分で暴きたがってるみたいにな」
ヴォイドが現実に戻った時、黒い塊は形を変えていた。上部から人間のような形状の突起が伸び始めていた。頭、腕、胴体――それらは歪んでいたが、確かに「誰か」に近づいていた。
「人になるのか……?」
「違う。“記録”を再現するんだ。最初の清掃員、あるいは設計者、あるいは……この都市そのものを建てた“思想”のかたちを」
「やめさせることは?」
ローマンは静かに首を振った。
「やめられたら、とっくにやめてる。ただ、運ぶだけだ。忘れるために」
そのとき、再生装置が震え、周囲の壁が一斉に像を映し始めた。
すべて異なる時代の都市。爆発の瞬間、倒壊する塔、見えない生物が徘徊する路地。人々は何度も都市を作り、失敗し、記録し、そして廃棄した。
やがて壁のひとつに、ローマンとヴォイド自身の姿が映った。
回収服、塵芥車、そして今この瞬間の部屋。
ヴォイドが息を呑むと、壁の中のローマンがこちらを見た。
笑った。
「出るぞ」
ローマンがヴォイドの腕を掴んだ瞬間、壁の像がばらばらに崩れ始めた。黒い塊が痙攣を始め、天井から微細な灰のような粒子が降り始めた。
外へ逃げる途中、ヴォイドはもう一度だけ振り返った。
部屋の中央にあったリ・プレイサーは、すでに消えていた。
代わりにそこに立っていたのは、塵芥車によく似た、だがあり得ない比率で設計された乗り物だった。タイヤが空中に浮き、シャーシが呼吸していた。
そしてそれは確かに、ヴォイドの名前を呼んだ。
彼の耳の中で、確かに聞こえたのだ。
外に出たふたりは、しばらく何も話さなかった。都市の輪郭は曖昧で、遠くの建物がかすれて見える。
「都市が記録するってのは、罪を隠すんじゃなくて……」
ヴォイドが言いかけたとき、ローマンが答えた。
「“見せ続ける”ってことだ。忘れるために、繰り返す。焼却も、回収も、ぜんぶそのためにある」
ふたりは塵芥車に乗り込んだ。
その後ろで、空白区画の入口が静かに塞がった。
まるで、最初から何もなかったように。