B2地区:模写の壁
塵芥車は裏通りに入り込み、微かな振動を車体に伝えながら減速した。B2のこの辺りは地図にも線が引かれていない。「暫定住宅群」とだけ記されており、正規の設計資料は存在しないはずだった。にもかかわらず、そこには確かに人の生活があった。
ローマンはハンドルを切りながらぽつりと言った。
「この辺は元々、都市に登録されてなかった。スラムでもなく、避難区画でもない。勝手に“生えてきた”みたいなもんだ」
「生える……ですか?」
「誰かが住み着く前に、建物が勝手にできてたって話もある。だからなのか、ここでは廃棄物も“根を張る”」
ヴォイドは言葉の意味を測りかねたまま、助手席の端で腕を組んだ。
ここに来てから、ローマンは少しよそよそしい。前の地区でのあの出来事――震えるゴミ袋、黒い人影、そして何より“記録としての廃棄物”という言葉。それらが、彼の内面を少しずつ変えている気がした。
ヴォイド自身も、それを否応なく感じていた。これまでの彼は、仕事中も常にローマンの背中にくっつくように動いていた。何かあれば即座に質問し、指示を仰いだ。けれど今日は、どこか距離があった。
それはきっと、ローマンが少しだけ“警戒”しているからだ。
(俺が……まだガキだからか?)
「止まるぞ」
車が静かに停止し、ローマンは運転席から降りると、ゆっくりと後部へ回った。彼の背中に続こうとしたヴォイドに、手だけがひらりと振られる。
「ここは俺一人で見る。お前は、外に出るな」
「なぜですか?」
「“思い出す”奴が出る」
意味が分からなかった。けれど、ヴォイドは直感で従うべきだと思った。
ローマンが建物の裏手へ消えたあと、ヴォイドは車内に残され、一人になった。
車内の時計は午前11時半を指していたが、空の色はどう見ても夕暮れに近い。空の端が赤く滲み、反対側は濁った青に沈んでいる。
ふと、助手席のコンソールに異常通知が浮かんだ。音は鳴らない。点滅する小さなアイコンだけが、不安げに瞬いている。
“センサーログに未登録の気配反応あり。強度レベル:低中。種類:非分類。”
ヴォイドは迷った末に、スキャナの電源を入れ、周囲の空気を測定し始めた。数字は安定しない。呼吸のたびに、値が上下し、微細なノイズのような波が重なっていた。
(やっぱり……何かいる)
数メートル先の壁に、巨大な絵が描かれていた。気づかなかったのが不思議なくらいだ。落書きではなかった。正確で、計算され、色彩はほとんど使われていないにも関わらず、異常なまでの存在感があった。
それは「都市」だった。
廃棄物、鉄骨、分解された人影、そして文字。異なる時間の断片が混じり合い、都市そのものが記憶している「夢」のようなものが描かれていた。
そしてその片隅に、塵芥車が、確かに描かれていた。
(まさか……)
背後から足音がした。
ローマンだった。額に汗をにじませて、口元をかすかに歪めていた。目は絵を見て、そして、ヴォイドを見た。
「見たか」
「はい」
「……なら、お前はもう、前みたいにはいられない」
それは優しさでも、警告でもなかった。ただの、確認だった。
「ローマンさん。あんた、全部知ってるんですか?都市のことも、俺たちの回収物が何なのかも」
ローマンは煙草に火をつけ、黙って吸い込んだ。
「知ってるってのとは違う。“感じてる”だけだ。都市の中に、俺たちが入っていってるんじゃない。都市の方が、少しずつ俺たちに入り込んでくるんだ」
「でも、どうして黙ってるんです?」
「喋ったところで、どうしようもねぇからだよ。お前、あの壁の絵を見て、何を思った?」
ヴォイドは答えられなかった。ただ、心臓の奥に沈んだ黒い塊のようなものが、ゆっくりと自己主張を始めているのを感じていた。
「答えなんかない。それが答えだ。俺たちはただ、“持ってく”だけだ。燃やすために」
ローマンの背が、いつもより遠く感じた。けれど、完全に離れたわけではない。
彼もまた、迷っている。迷いながら、それでも回収し続けている。
その夜、ふたりは遅くまで車内で過ごした。街の隅に塵芥車を停め、暖房も切って、エンジン音だけを聞きながら。
「なあ、ヴォイド」
「はい」
「お前、もうちょっとしたら、別のチームに異動してもいいかもしれない」
「……それ、本気で言ってます?」
「お前が何かに巻き込まれる前にな」
「もう、巻き込まれてますよ。とっくに」
長い沈黙のあと、ローマンは窓を開けて夜気を吸い込んだ。
「……そうか」
風が、街の奥から吹いてきた。甘くて、乾いていて、どこか懐かしい気配をまとった風だった。