第五地区:タンブラの眠り
午前4時30分。空はまだ夜の色を残していたが、遠くのビル群がわずかに紫がかってきていた。
塵芥車は北西側の第五地区へと向かっていた。タンブラと呼ばれるその一帯は、かつて貿易港だった場所を埋め立ててできた区域だ。地面は所々歪み、ビルの基礎には波打った跡が残っていた。海の匂いはもうしなかったが、鉄と塩の混じったような、何とも言えない湿った空気が肌にまとわりついた。
車内にはAMラジオの雑音混じりの音楽が流れていた。ジャズとも、昔のポップスともつかない曲だった。ローマンは片手でハンドルを握りながら、窓をわずかに開け、タバコに火をつける。灰は車外へと流れ、濡れた空気の中に消えた。
ヴォイドは助手席で、小さなタブレットを眺めていた。地区ごとの回収スケジュールとルートが、無機質なフォントで並んでいる。
「第五、今日初めてっすよね」
「俺も久しぶりだ。昔、一度だけ回ったことがある。あんまり印象良くなかったな」
「どういう?」
「……眠ってる街って感じだ。人も、建物も、空気までも」
建物はどれも中途半端に古く、住民がいるのかいないのかも分からない。ほとんどの窓は板で打ちつけられ、看板の文字も擦れて読めなくなっている。それでも確かに「生活」の痕跡はあった。ロープに干された洗濯物、塀に貼られた「家族を探しています」の紙。ゴミの出し方にも、その街の性格が現れる。
「なんか……時間が止まってるみたいですね」
「時間が止まってるというより、“外れてる”んだよ。ここと、ほかの地区とは、歯車が噛み合ってない」
最初の回収スポットに着くと、ヴォイドは荷台から飛び降り、路地に置かれたゴミ袋を手際よくタンクに放り込んでいく。今日は異常なほど袋の中身が軽かった。中には空の箱、割れた鏡、使いかけの画材、古い新聞が入っているだけ。
「これ……本当にゴミなんすかね?」
「さあな。捨てるって行為には意味がある。だれかが“手放したい”と思った時点で、それはもうゴミだ」
「でも、誰もいない感じが……しますね」
回収スポットをいくつか巡っても、住人の姿は一度も見えなかった。代わりに、猫のような、しかし猫ではない何かが二階の手すりに座ってこちらを見ていた。黒い毛皮の中に、ほんのり金属質の光沢が混じっている。
「なあ、ヴォイド。さっきの箱の件、気になってるだろ?」
「正直、はい。でも……言い出しにくかったです」
ローマンは口の端をわずかに上げた。微笑んだのか、皮肉ったのかはわからなかった。
「今夜、管理局に報告する。でもな、それで全部終わるとは思うなよ」
「つまり、あれは……」
「何かの“始まり”だ。俺たちはそれを回収してしまった。つまり、お前も関係者ってわけだ」
ふたりは黙って、次の地点へと車を進めた。
第五地区の中心部にある「旧タンブラ市場」に着いたとき、空は少し明るくなっていた。市場のアーケードはすでに朽ち果てており、ガラスは全て割れ、シャッターには無数の落書きが塗り重ねられていた。
しかし、その中の一つだけ、異様に整った区画があった。きれいに掃き清められ、蛍光灯がまだ点いている。誰かが、明確な意志でここを維持しているのだ。
「……こんな場所あったか?」
ローマンがつぶやく。ふたりは車を降り、手には仕事用のタブレットと分別用スキャナだけを持っていた。
奥へと進むにつれて、整備された部分が少しずつ雑然としてきた。床のタイルが割れ、ポスターがはがれ、鉄のにおいが強くなる。
そこに――女が立っていた。
30代前後、軍服のようなコートを羽織り、足元はブーツ。左目にだけ奇妙なゴーグルのような機器をつけていた。髪は短く刈り上げられ、姿勢は異様にまっすぐだった。
「回収ルートの変更を承認していません。あなたたちは誰の許可で第五の中央に立ち入ったの?」
声は機械を通したように平坦で、まったく感情がなかった。
ローマンは何も言わず、ポケットから身分証を見せる。ヴォイドも慌ててそれに倣う。
「市政衛生第七管理課、特例ルート回収中です。昨日、焼却施設での不具合による調整で」
「確認します」
女は背後にある装置に何かを接続すると、ほんの数秒の静寂のあと、「通過許可、一時付与」とだけつぶやいた。
「あなたたちは今、第五の“縁”にいます。中心へは行かないことを勧めます。古いものが、眠っているので」
その言葉が何を意味するのか、ローマンは尋ねなかった。ただ、無言で礼をして、ヴォイドを促した。
市場を出て、塵芥車に戻ると、ヴォイドは思わず口にした。
「今の人、なんだったんですか?」
「警備局か、それに近い何かだ。昔は第五にも情報統制部の拠点があったらしい」
「眠ってる“古いもの”って……」
「聞くな。考えるな。今日はもう十分だ」
ふたりは車に乗り込んだ。ローマンはいつものようにタバコに火をつけると、窓を開けた。
遠く、夜が明けきらない空の下で、タンブラの鉄骨たちが静かに軋んでいた。
都市はまだ、眠りの中にいた。
だが、いつか目を覚ます。