C2-15、変化
次の回収区画、C2-15は、C1とはまったく空気が違った。建物はより高く、より密集しており、色彩だけは不自然に鮮やかだった。古い壁の上にペンキが重ねられ、その上からまた誰かがペンキをぶちまけている。剥がれかけたネオンサインが雨上がりのぬかるんだ舗道に毒々しい光を投げ、空気には濃い油と薬品の混じったにおいが漂っていた。
「ここは好きじゃない」とヴォイドが言った。
「俺もだ。C2はいつも何かがズレてる」
ローマンはハンドブレーキを引いた。塵芥車はぎぃ、と錆びた叫び声をあげて停まった。二人は無言で車を降り、それぞれの作業に入る。ヴォイドは搬出レバーを確認し、手順通りにゴミ袋を引き出していく。手袋越しにも感じる湿った粘り気。腐敗した甘い匂いが一瞬鼻をついた。
「……あったぞ」
ローマンの声がした。
彼が示した袋の中には、真新しい義手が一つ、ぬめるような透明フィルムに包まれて転がっていた。皮膚のような合成繊維が部分的に剥がれ、むき出しの骨格が蟹のように関節を剥き出していた。
「これ、廃棄ルートじゃないですよね」
「普通じゃない。けど普通じゃないもんが増えてるのも事実だ」
ローマンは慎重に義手を拾い上げ、マグネット式の証拠箱に収納した。何事もなかったように、ふたを閉め、車内の一角に固定する。
「こういうの、報告しないんですか?」
「誰に?」
ヴォイドは答えられなかった。確かにこの都市には“上”があるはずだった。行政部門、倫理監査局、記録管理庁――けれどそれらは、ここから何十レイヤーも上にある幻想のような存在だった。C2の住民の誰も、それを信じてはいなかった。
次の回収地点へ向かう途中、車内は静かだった。ヴォイドが缶コーヒーを取り出してローマンに渡す。無言で受け取り、開ける。
「……さっきの話の続きだけど」
ローマンが口を開いた。「妻とは、もう何年も会話らしい会話をしてない。俺は家にいるときでも、ここにいるみたいな気分になるんだよ」
「ここって、どこですか?」
「……この車の中。どこへ行っても、結局は“回収”されるものとしてしか存在してないって感じ」
ヴォイドはその言葉に、わずかに眉をひそめた。
塵芥車はC3ブロックへと差しかかる。ここは急速に開発が止まった地域だった。建設途中の高層ビルが骸骨のように立ち尽くし、その影に埋もれるように人々の仮設住居があった。湿気が濃く、夜間でもかすかに霞が立つ。鳴き声のない鳥が電線の上を移動し、静電気のようなパチパチという音を残した。
「ヴォイド」
ローマンの声は低く、抑えられていた。「さっきから尾を引いてる。左の反射板に映った」
「どこです?」
「ビル影に白いフード。双子かも知れない。動きがシンクロしすぎてる」
ヴォイドは慌てずに助手席の下から小さな金属ケースを引き出し、中から無印のドローンカメラを取り出した。起動と同時に静かな羽音が車内に響いた。ドローンはガラス越しに滑空し、C3の廃墟のひとつへ飛び込む。
数秒後、映像がモニターに映った。画面の端に、確かに“白”がいた。二つ、まったく同じ背丈、同じ角度で、柱の陰からこちらを見ている。
「ローマン……」
「任せとけ。車は動かすな」
ローマンがそう言うと、シートの下から長方形のカーボンケースを引き出した。精密なスライド音と共に分解式の短銃が組み上がる。その所作に一切の迷いはなかった。
「待ってください、殺すんですか」
「いや。確認するだけだ」
彼はドアを開けて外に出た。ヴォイドは車内で身を屈め、モニターを凝視する。ドローンはローマンの後ろをゆっくり追うように飛行していた。
数分後、画面が激しく揺れた。
白いものが画面いっぱいに迫り、ノイズと共に視界が途切れる。
「……っ、ローマン!」
ヴォイドが外に出た瞬間、何かが近づいてくる音がした。
足音ではなかった。何かが這うような音、湿った呼吸と金属の摩擦音が混じった異様な気配。霧が、濃くなる。
ローマンの姿は、消えていた。
だが遠く、廃墟の奥に光が瞬いた。それは誰かが懐中電灯を振るような光――いや、何かの目のようにも見えた。
ローマンの姿が消えてから、何秒が過ぎたのか正確にはわからなかった。霧は時間の流れを鈍くし、光の輪郭を曖昧にする。ヴォイドは車の影に身を潜め、耳を澄ませていた。風の音、遠くで水滴が鉄骨に落ちる音。そして、何よりも不気味なのは――音が、少なすぎることだった。
都市には常にどこかで何かが鳴っている。機械の駆動音、人の足音、空調の唸り、ネズミの動く気配。だが今は、まるでこのブロックごと音を吸われたように沈黙している。
(これは、おかしい)
ヴォイドはリュックからサブライトを取り出した。業務用の高照度ハンドライトだ。点灯させると、霧の中に光の筒ができ、その先に建設途中のビルの骨組みが現れる。鉄の骨が組まれた未完成の塔、その一階部分にぽっかりと口を開けた搬入口があった。
「ローマン……?」
声に出すと、自分が震えていることがはっきりわかった。足元のアスファルトはどこかぬめっていて、靴底が不安定に滑った。ヴォイドは慎重に一歩一歩進み、建物の中に入る。霧の濃さが増していく。ライトの照射範囲はわずか数メートル先までしか届かない。
そして、見つけた。
それは、床に転がっていたローマンの銃だった。スライドは外れ、弾倉も空。近くの壁には散弾の痕があった――何かに向けて撃ったのだ。しかしその「何か」は見当たらない。血痕も、死体もない。ただ、銃と、ローマンの使っていたハンドマイクが床に落ちているだけ。
「ローマン……どこに……」
そのときだった。
ヴォイドの耳に、微かに聞き覚えのある音が届いた。塵芥車のエンジン音。しかし、彼らの車は遠くに停めたままだ。つまり――
(他の回収車?)
ヴォイドは一瞬迷ったが、足早に元来た道を戻った。霧の中をライトで照らしながら走る。呼吸は荒く、心臓が跳ねるように動いている。喉が焼ける。額から冷たい汗が流れる。
角を曲がった瞬間、ライトの光が何かに反射してはじかれた。
車だ――しかし、それは彼らの塵芥車ではなかった。同型だが、色が微妙に違う。ダークグレーではなく、青みがかった艶消しの塗装。そしてその横には、人影が二つ。例の白フードの“何者かたち”が、淡々と作業をしているように見えた。
彼らの動きは異様だった。まるで、重力が違う場所で生きているように、跳ねるでもなく、滑るでもなく、流れるような挙動。ヴォイドは思わず後ずさったが、そのとき足元の空き缶を踏んでしまい、乾いた音が辺りに響いた。
二人の白フードが、同時にこちらを向いた。
その目元は――なかった。目の位置には、光を反射しない闇がぽっかりと開いていた。ただの陰ではない。奥行きのない、吸い込まれるような黒。
「……っ!」
その瞬間、霧の中から別の手が、背後からヴォイドの口を塞いだ。
「静かに」
男の声だった。低く、短く、命令だけを伝えるような声。ヴォイドは一瞬もがいたが、次の瞬間には後頭部を叩かれ、視界が弾け飛んだ。
* * *
気がついたとき、ヴォイドは薄暗い室内にいた。
鉄製の簡素な椅子。コンクリの床。照明は裸電球一つ。天井には換気口があり、ゴウンという低い空調の音が響いていた。腕にはベルトのようなものが巻かれ、脈拍を読み取っているらしかった。目の前には、男が一人、立っていた。
「気がついたか」
黒い作業服。無地の名札には「監理課C-オメガ」とだけ書かれている。
「お前の連れは別室だ。無事だが、しばらく拘束される」
「……どこですか、ここ」
「C4廃棄層。普段は使われてないが、我々のような“回収監理”には都合がいい」
「ローマンに……何を……」
「落ち着け。殺しちゃいない。ただ、あいつは見てはいけないものを見た。それだけだ」
男は一歩近づき、ヴォイドの顔をじっと見た。
「お前、上層出身だな」
「……は?」
「皮膚の色、毛穴の細かさ、栄養状態。全部がそう言ってる」
男はポケットから一枚の写真を取り出した。そこには、廃棄物と一緒に回収された金属の箱が写っていた。
「この箱、どこで拾った?」
「C1の焼却ステーションです。偶然」
「偶然で、これは見つからんよ」
男の口元がわずかに歪んだ。皮肉とも嘲笑ともつかない表情。
「君の上層での“家族”がね。この手の物を投棄してる可能性がある」
「……そんなはず、ない」
「だろうな。でもな、都市ってのは上に行けば行くほど汚いんだ」
電球が一瞬チカチカと点滅した。男は立ち上がり、部屋を出ていこうとした。その背に、ヴォイドは声をかけた。
「俺は……どうなるんです?」
男はドアの前で立ち止まり、振り返らずに言った。
「選べ。見なかったことにして、明日からまたゴミを回収するか。それとも、深く潜るか」
「深く?」
「この都市の底には、“層”じゃなくて“根”があるんだ。そこに手を伸ばしたとき、お前はようやく――自分が何者かを知ることになる」
ドアが閉まり、再び静寂が戻った。
ヴォイドは椅子に座ったまま、拳を握りしめた。手のひらに、あの箱の表面をなぞった時の感触が、まだ残っていた。
それは冷たく、確かに「作られたもの」だった。しかし同時に、どこか生きているようにも感じられた。
彼は決めた。
明日も、塵芥車に乗る。そして、それを武器にする。
都市はすでに病んでいた。ゴミの山の中に、真実が眠っているなら、拾い上げるしかない。