小さな夜
ローマンが帰宅したのは、日が完全に沈んだあとだった。彼の住まいは、都市の中でも比較的“静か”なブロックにある。B3地区の片隅、配給路線の外れに建つ古い集合住宅の五階。
玄関を開けると、微かにスパイスの匂いがした。カレーか、あるいはそれに似た何か。
「帰ったよ」
「おかえり」
声が、奥からした。リタだった。
彼女は薄手のセーターを着て、小さな鍋の前に立っていた。まるで昔のポスターから切り抜いたような姿。人工光の下で、彼女の髪は金属質な光沢を帯びていた。
「今日はどうだった?」
「まあ……いつも通りさ。ゴミの山と、ちょっとした奇妙なもの」
「奇妙なもの?」
「うん。記録に残らないような、形のないものだ」
リタは小さく笑った。「あなたって、詩人だったっけ?」
「ちがう。ただの回収員だよ。腐ったものを運んで、燃やすだけの」
テーブルに並べられた皿には、慎ましい夕食が載っていた。レンズ豆の煮込みと、保存パン。都市の配給品に少しだけ香草を足して、リタが工夫した味だった。
ふたりは黙って食べ始めた。
テレビも音楽もつけない。音は、スプーンが皿をこする音と、外の風が窓を叩く音だけ。
「ねえ、ローマン」
「ん?」
「もし……いまの仕事、辞めたら、何がしたい?」
ローマンは少し考えて、そして笑った。
「たぶん、何もできない。俺には、あれしか残ってない」
「そう?」
「でも……」
「でも?」
「パン屋とか、いいな。朝早く起きて、粉を混ぜて、こねて。焼き上がった香りで、近所の子どもが顔を出すような」
リタは頷いた。
「それ、いいね。あたしは……何でもない、洗濯物を干したい」
「干せばいいじゃないか」
「違うの。太陽の下で、風の中で。人工光じゃなくて、“あったかい”感じの光の中で」
ローマンは少し黙って、そして静かに言った。
「それは、この都市じゃ無理かもな」
「わかってるよ。でも……想像するのは自由でしょ?」
「自由だな。俺たちはまだ、そのくらいは許されてる」
彼女が立ち上がり、空になった皿を下げる。その動作が、妙に愛おしく感じられた。
「ねえ、リタ」
「なに?」
「いつまで、俺といられる?」
彼女は立ち止まって、こちらを見た。
「それは、あなたが“あなた”である限りよ。違う人になったら……ちょっと考えるかも」
「そっか。なら、気をつけるよ」
「ちゃんと気をつけてね。“記録”じゃなくて、ちゃんと“今”を見ててほしいの。わたしは、“思い出の中のあなた”じゃなくて、“今ここにいるあなた”が好きだから」
ローマンは、リタのその言葉に、しばらく何も言えなかった。
窓の外で風が鳴いた。街の構造が少しだけ軋んだ。
だが、この部屋の中はまだ、静かだった。