真っ赤なルージュの遺言
バターも溶けるほど暑い夏だった。
僕は駅のホームでうんざりしていた。
かれこれ1時間も電車が来ないのだ。
『ただいま、人身事故が発生しており……』
ホームでは僕と同じようにうんざりしている人たちがいた。僕は早々に見切りを付け、改札を出た。
夏休みということもあり、旅行客が多かった。どうやら僕みたいに、夏休みのない人間は少ないらしい。
僕は駅の壁に背を預けた。会社に連絡するのは面倒だった。なにより連絡したところで上司が怒るだけだ。
「災難だね、おじさん」
横、正確には下を見ると、若い女が座っていた。髪を緑色に染めている。大学生に見えるが、それよりも若く見えた。
「朝から人身事故だって。よっぽど社会に恨みがあったんだろうね」
「君も電車に乗るのか?」
「私、家出したの。ここにいるだけ」
彼女の足元にはペットボトルや食べかけの弁当、ヘアピンに生理用品など、彼女に関する様々なものが散らばっていた。貧乏な市場みたいだった。
『今日は休んでいい』
上司からの電話に、僕は駅を出ようとした。早く家に帰って冷たいシャワーを浴びたかった。
しかし、ふと女の子のことが気になった。
僕は踵を返した。女の子はまだそこにいた。
「家、来るかい」
僕はいつの間にかそう言っていた。
女の子は「行く」と即答した。
○
彼女は脱いだ靴をぴったりとそろえた。おそらく定規で測っても1ミリのズレもないだろう。
僕は古いラジオのスイッチを入れた。ステレオスピーカーを謳っていたが、もう片方からしか音が出ない。それでも音が出るだけマシだった。
番組はちょうど古い洋楽を流していた。サイモン&ガーファンクルの『ブリッジ・オーバー・トラブルドゥ・ウォーター』。邦題は『明日に架ける橋』。
「なんで泊めてくれるの?」
と彼女は荷物をおろしながら言った。
「まるで捨てられた子犬みたいだったから」
と僕は見られたくないゴミを拾いながら言った。
「なるほどね。ねぇ、サバンナには捨てられた子犬がいると思う?」
「さぁ。サバンナだって?」
彼女は窓の外を見ていた。僕もそちらを見る。先日建ったきれいなビルがあるだけだった。
「捨てられても自業自得でしょ。サバンナなら」
彼女はどうやら、そういうことらしかった。
僕は冷凍のパスタを温め、瓶のジンジャー・エールの栓を開け、食後のゼリーを彼女に差し出した。
彼女は両手を合わせると、スプーンを掴んでガツガツと食べはじめた。その食べっぷりは飢えた獣みたいだった。確かにサバンナだと僕は思った。
「君は捨てられたのかい?」
僕が聞くと、彼女はジンジャー・エールを一気に飲み干した。190mlもあるウィルキンソンの辛い方だったが、げっぷすらしなかった。
「捨てさせたの」
「なんだいそれは」
「親が私を捨てるように、そう仕向けたの。賢いと思わない?」
「家を出るのが賢いのか?」
「あなたみたいな人に出会えるから」
僕は彼女を拾ったことを少し後悔しはじめていた。
おそらく彼女は面倒な人だ。精神的にも頑固だ。そして、つかめない。常識はずれとはこういうことなのだろう。
彼女は「ごちそうさま」と手を合わせた。パスタはソースまできれいに平らげてあった。
「じゃあ、しよっか」
彼女が服を脱ぎ始めた。白いパンツと黒いキャミソール、黒いチョーカーだけになった。この3つだけを取れば彼女は裸になる。赤子と同じ姿になる。
「おいおい、なにをするつもりだ」
「え、ヤりたくて泊めたんでしょ?」
「ヤりたければ風俗に行くよ」
「私とタダでできるのに?」
「金というものは信頼なんだ。金を払うから信頼できる。金のないセックスは信用できない。だから君とはできない」
彼女は眉をひそめると、ため息をついた。
「あなたって精神的に面倒ね」
「君にだけは言われたくないな」
○
彼女は家に住み着いた。僕が仕事に行っている間は自由に過ごしているらしい。物が壊れたりなくなったりすることはなかった。それどころか僕に恩義を感じているらしく、部屋がきれいになっていた。
「君はこれからどうするんだ?」
仕事から帰って僕は聞いた。
彼女はつまらなそうに観ていたバラエティ番組を消した。
「考えてない」
「君はいくつなんだ? 学校は?」
「17歳。学校は行ってない。家出中だから」
17歳という言葉が僕の中で響いた。
17歳——彼女が未成年だということよりも、僕が17歳の頃は親の言いなりだったことを思い出した。17歳で家を出ていける人間が、果たしてこの世にどれだけいるのだろう?
「家には戻らないのかい」
「おじさんはさ、『善悪』はどっちが好き?」
その質問は意味不明で、僕は固まった。
彼女は聞き取れない人に伝えるかのようにゆっくり言う。
「善きものと悪きもの。どっちがいい?」
「良いほうがいいんじゃないのか」
「あたしはね、悪い方が好き」
「なぜ?」
「悪い人は、覚えてもらえる。良い人は、忘れられる」
説明されても意味がわからなかった。
彼女はにっこりと笑うと、僕の顔に顔を近づけた。
「私はね、覚えていてもらいたいんだ」
彼女は僕にキスをした。
暖かな唇と、赤いルージュの滑らかな感触。
彼女からはなぜか、花の匂いがした。
○
キスをした次の日、僕が仕事から帰ると彼女はいなくなっていた。
部屋を見渡すと、古いラジオがなくなっていた。おそらく彼女が持っていったのだろう。
その代わりなのか、テーブルには口紅が置いてあった。
彼女がいなくなった部屋は、まるで何かが抜け落ちたかのようだった。飾っていた花が枯れたみたいに。
○
人は聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の順に忘れる。
あれから3年が経ったのに、僕は今でも彼女のすべてを鮮明に思い出せる。それどころか、靴の並べ方、スプーンの持ち方、笑い方、キスの仕方すらも覚えている。
彼女は今、何をしているのだろうか?
3年経っても僕は冴えないサラリーマンだし、電車通勤だし、こうして今日もまた、駅のホームで立ち尽くしている。
『ただいま、人身事故が発生しており……』
僕はふと、顔を上げた。そして弾かれるように改札を出た。見渡すばかり観光客が立ち尽くしていた。
やっとの思いで、壁までたどり着いた。
もちろん、彼女がいるわけがない。
あの時から毎日ここを通った。でも彼女に会えなかった。
世界は偶然では成り立っていないということだ。
諦めて改札に戻ろうとしたとき、手を掴まれた。
僕は驚いた。そして笑った。
「久しぶり」