白い闇と気まぐれな奇跡
どんな願いでも一つだけかなえてやる。
そんな事を言われたら、何を願うだろうか。その答えは、きっと状況に左右されるだろう。命の危険が迫っていれば、そこから助かろうとするだろうし、金に困っていれば迷わず金が欲しいと答える。
その時の俺は、最悪な状況にあった。
人里離れた深夜の山中。その夜は大雪だった。
俺の乗った車は雪でスリップし、岩壁に激突。幸い俺に怪我は無かったが、車はまるで動かなくなった。
「ちくしょう!」
幾度もキーを回すが、セルモーターの音もしない。どうやら電気系統がやられているらしい。
仮に助けを呼ぼうにも、こんな山奥では誰もいるはずもない。携帯電話だって使えない。もしかしたら、他の車が通りかかるか、とも考えたが、すぐに思い出した――この道を都合がいいと知っていた俺は、車両通行禁止なのを無視して入ってきたのだ。つまりは、後続の車は期待できない。
何とか動いてくれ、と祈るような思いでキーを回し続けているうち、ひやりとした寒気が足元からのぼってきた。俺はそこでようやく気付いた。
――このままだと凍死するんじゃないか。
ここは雪に閉ざされた山奥なのだ。
車が動かないということは、暖房も使えない。まだ車内に暖気は残っているが、鉄のカタマリである車は、すぐに外と変わらないほどに冷え込むはずだ。こんな日の夜中にキャンプに来た訳でもない俺は、寝袋や毛布といった便利なものは準備していない。
俺は、ここにきてようやく、というべきか、事の重大さに気付き、めまいを覚えた。
動揺を何とか静めるべく、必死に自らに落ち着け、と言い聞かせる。だが、不意におとずれた死の恐怖が、どうしても思考を占領してしまう。
――死にたくない。
そう思えば思うほど、恐怖は焦りを伴って広がっていく。
しかし、こういう時こそ落ち着かなければならない。そう思った俺は、まず明かりを探した。深夜の雪山は海の底のように暗い。闇は俺を不安にさせ、恐怖心を増幅させる。
――明かり。明かりが欲しい。
俺は二つ折りの携帯電話を開いた。目を刺すようなディスプレイの光。ルームミラーに浮かんだ俺の顔は、恐怖に歪んでいる。酷い顔だ。
だが、明かりがあるだけで、随分と気の持ちようが違う。ホッと息をついた俺は、これからどうするべきかを考えた。息はもう白くなりつつある。
闇の雪山。極寒の外に出て助けを求めるのは自殺行為に近い。
――やはり、車内で待つしかない。
そう考えた俺は、シートの上で膝を抱え、身体を縮めると、息をひそめた。
次第にフロントガラスが雪に覆われていく。このまま車ごとすっぽりと雪に埋もれてしまいそうだ。しかし、こんなところで凍え死にそうになるなんて本当に馬鹿みたいだ。雪が溶けた頃に死体が見つかったら、俺は間抜けな奴として知れ渡るだろう。そんな自嘲の念さえ浮かんでくる。
……どのくらい時間が経っただろうか。
時間の感覚もなくなってきた。事故を起こしてから随分と経った気もするし、ほんの一瞬のような気もする。その間、俺は携帯を明かり代わりにしながら、うつろな目で、手ごたえのないキーをずっと回し続けていた。
寒い。暗くて寒い。
さっきから震えがとまらない。奥歯がガチガチと音をたてる。
なにか暖かいものが欲しい。風呂、布団、火――そういえば、童話にそんな話があったな。『マッチ売りの少女』か。マッチの火さえ俺にはない。
だんだん、まぶたが重くなってきた。身体の感覚がもう無い。
限界だ。
――うおおお!!
俺は絶叫した。狂い、叫んだ。
衝動的に車のドアを開け放つと、外へと出た。眼前にはただ闇があるだけで何も見えず、身体じゅうに吹き付けられられる雪の冷たさを感じる。だが、不思議と寒くない。
俺はもう一度叫び声を上げて、走った。ヒザまで深く積もった雪が重くて、なかなか前へ進めない。それでも懸命に足を動かして、前へ前へと進む。
「死んでたまるか」
俺は発狂したようにそう叫びながら、闇へと進んだ。そこに何がある訳でもないのに。
いや、何かあったのだ。
俺はその『何か』に盛大にぶつかった。目の前から、ドサリと雪が落ちる音。落ちた雪の間から、光を放つ『何か』が見えた。俺は無我夢中で『何か』に張り付いた雪を払った。
現れたのは――。
「電話……ボックス?」
暗闇の中、蛍光灯が不規則に瞬いている。それは眩しいくらいだった。
俺はその明かりに魅入られたように中に入った。
――なんだ、これは。
奇妙だった。電話にはプッシュボタンが一つしかないのだ。そして、その下に添えられた、不可解な文章。
『神。どんな願いでも一つだけ叶える』
意味不明だ。だが、好奇心に似た感情を俺は抑えられない。恐る恐る受話器を上げて、耳に当ててみる。
ツー。
音がする。生きている。
俺は震える指で、一つしかないボタンを押した。呼び出し音がする。
――もしもし。
誰か出た! なんと言えばいいのか。
しかし、俺が考える間もなく、先に相手がしゃべり始めた。
――困っているようだな。よし、一つだけ、どんな願いでもかなえてやろう。
「は?」
なぜ相手は、俺が困窮していることが分かるのか。いや、それよりも、もっとおかしな事を言っている。願いを叶える、だと?
二の句が告げられない俺に構わず、そいつはさらに話を続けた。
――神である私が、お前の望みを何でも一つだけかなえてやろう、というのだ。信じられないなら、ためしに奇跡を見せよう。
俺はまるで思考が追いつかない。そんな言葉を失った俺の額に、コツンと何かが当たり、足元に落ちた。
マッチだった。
――どうだ。今のお前に相応しいとは思わないか。
受話器から乾いた笑い声が聞こえてきた。
「まさか」
――信じたかね?
「どんな願いでも……いいのか?」
――無論だ。一つだけなら、金でも、なんでも。
正直とても信じられない。極限状態が見せた幻か。だが、この状況では信じるしかない。すがるより他にない。
どんな願いでも一つだけかなえてやる。そんな事を言われたら、何を願うだろうか。
命か。金か。
いや、俺の願いはたった一つだ。
「トランクの中に女がいるんだが、俺がそいつを殺したって証拠を、すべて消してくれ」
そうなれば、携帯で助けが呼べる。
第四回 5分企画参加作品です。
ぜひ他の参加者さまの作品もご堪能下さい。
最後に、この機会を設けて下さった主催者さまに御礼申し上げます。