代理人
第117回 お題「結婚」「礼服」
実を言うとエイデンは、過去に一度だけ、トレントと前妻が挙式した時の写真を見せて貰った事がある。
至って捻りもなく、明らかに貸衣装だろう黒のタキシードを着込んだ花婿と、飾り気のないオフショルダーのウェディング・ドレスに身を包んだ花嫁が、お互いにケーキを(チョコレート・クリームだったと言うのが、何故か鮮烈に印象へ残っている)食べさせ合っている、幸福に満ち溢れた一葉。
今のエイデンと殆ど歳の変わらない、子供っぽさすら孕んだトレントは前途洋々の若者、としか表現のしようがなかった。警官という、社会に奉仕する立派で安定した職を得て、愛らしい女性と結婚したばかり──浮かべられた笑顔の屈託なさから、少なくともこのシャッターが切られた前後は、彼が本当に奥さんを愛していたと、エイデンですら認めることが出来る。
己の好きな男が、かつて違う誰かと結婚していた事を疎ましく思ったことはない。過去は過去だ。それに、この事実は保険でもあった。彼はまともに人を愛すことが出来る。幾ら若気の至りや勢いが入っていたとしても、恋愛期間を経て相手にプロポーズを承諾して貰えるだけの正常な人間関係を構築出来る素質を持っているのだ。しかも婚姻期間は数年間続いたそうだから、それ位の期間は世間や相手を欺くだけの忍耐も有していると来ている。
何も、当時発揮した愛情を自らに向けてくれとは言わない。そこまで夢を見てはいない。ただ、トレントが自ら以外の人間に不誠実であって欲しいとは、エイデンが常々願っていることだった。彼が嘘をつけば嘘をつくほど、自ら達の関係は長続きするのだから。
何回も解いては結び直し、出かける15分前に蝶ネクタイとの格闘はようやく終わる。エイデンが浮かべた安堵に、洗面台の鏡の中のトレントは徹底して小馬鹿にした表情をぶつけるばかりだった。「神経質過ぎるんだよ。別に最初から歪んじゃいなかっただろうが」
神経質にもなる。父を殺し、まあ裁判では無罪になった訳だが。罪を逃れたあの瞬間、エイデンは自らが穢れを祓う機会を永遠に失ったと感じた。一族の中でも爪弾き、外を歩けば誰も彼もが後ろ指をさしてひそひそ噂話。
こんな人間が、よもや晴れの舞台の極致である結婚式へ参加出来るようになるなんて。しかもよりによってアッシャーとして。
「花嫁は車椅子なんだろう。ドレスはオーダーメイドの特注品か」
「だろうね。どうなんだろう、親族も参加するから、義足を履くかも知れないよ。少なくともダグのご家族はショックを受けちゃうだろうから」
テキサスの石油長者の一族であるルームメイトが、「生えているのが不自然だから」という理由で己の両脚を外科的に切除したヴァッサーの才媛と添い遂げることにした。同棲は大学卒業までしないならしい。なら結婚もそれまで待ったら、との己のアドバイスは至極真っ当なものだったと思うのだが、ダグは笑って首を振るばかりだった。「ニーヴの奴、卒業したら両腕も切り落とすとか言ってるんだ。手コキして貰えるうちに結婚するのさ」
「手コキ出来るうちに結婚、か。なかなかの至言だな」
「最低だと思うよ、どっちも」
頭では間違いなくそう思っているのに、オペラパンプスへ曇りがないか念入りにチェックしているのは、やはり浮ついているから。自らと全く利害関係のない他人の為の祝い事ほど、気楽に楽しめるものもない。
蹴り上げるようにして靴裏まで確認してから、再び鏡を覗き込む。新郎と同じくネイビーで統一されたタキシードは、正直なところ己の肌色にそんなに似合っていない気がするものの、仕方ない。御相伴へ預かれるとは言え、今日の自らはあくまで脇役なのだから。
やっぱりネクタイは歪んでいるような気がした。再び喉元へ伸ばそうとした手は、「やめとけ」と辟易も露わな口調と共に、背後から押さえ込まれる。
「いい加減にしろ、心配しなくても、ばっちり決まってる」
「ほんと?」
「ああ。何だかんだ言ってお前もサリヴァン家のお坊ちゃんなんだって、改めて思ったよ。こう言う澄ました格好がお似合いだ」
その言葉付きへは間違いなく侮蔑の色が含まれている。なのに、微かに俯くことで隙間の出来たカラーの奥のうなじへ唇を落とす時、投げかけられるコバルトブルーは全く満足げに輝いていた。
半日後に仕事へ出かけるトレントはTシャツにジーンズと言うラフな出立ち。なのにエイデンは、鏡に映った二人が、これから結婚するのだと言う妄想をごく自然に思い浮かべた。片方はやたらと楽観的で、同時に官能的。めかし込んだ方は高揚しながらもやたらと不安げな様子──実際に結婚したことなどエイデンは一度もないが、花嫁は式までの間に必ず一度、マリッジ・ブルーなる病へ罹るそうではないか。
病んだ己が神聖な場で付き添い人など勤めて良いとは思えない。けれど、短期留学の訪問国を決める位のノリで人生の伴侶を選び、脚のない彼女へ手で擦らせるルームメイトよりはまだまともだと思うし、それに。
「アッシャーの役目って、花嫁の一族が新婦を取り返しに来たら、身代わりになることらしいね。だから同じ服を着るんだって」
このままだと、せっかくまともな形を保つネクタイは愚か、シャツのボタンとベルトを外され、上着もスラックスも皺だらけにされかねない。そっと後ろ手に押し返してみるものの、やはりトレントはエイデンの身体を抱きしめ、耳の裏に鬱血を刻む。式場へ行ったら、化粧室でコンシーラーを借りなければならないかも知れない。
「僕がもし今日殺されたら、タキシードで葬って欲しいんだけど……その時は、今着てるこれじゃなくて、トレが昔着てたデザインのにしてね」
「俺のか? 変な奴だな」
「トレが幸せの絶頂だった時と同じ格好して死にたいんだ」
そう呟けば、唾液に濡れた耳へいけしゃあしゃあと「あの時よりも今の方が、俺はよっぽど幸せさ」などと宣われる。確かに、このままだと花嫁ではなく己が連れ攫われてしまいそうな勢いだが。
洗面台へ置いていたスマートフォンが起動し、ウーバー到着の通知を表示する。己はあくまでも脇役、恍惚に耽っている場合ではない。とは言っても、ジレの合わせ目から這い込み、本格的に身体を弄り始めた手を抓って追い出すには、かなりの克己心を必要としなければならなかった。




